先週の土曜日は、津和野で鷗外の短編小説、それほど有名な作品ではないのですが、
『鶏』という地味な作品について話をしてきました。
これが名作だと読む人はそうはいません。
文学研究の専門家もその解釈は実に驚くほどバラバラです。
いつもの通り、私の読み方は皆んとはまるで違っているようです。
こうした読み方を通して近代小説の原理の問題も考えていきます。
これは日本の帝国主義を背景にして考えると面白いですよ。
ウクライナへの侵略戦争がこれからも続いていくでしょうね。
以下に当日のレジュメを掲載しておきます。
令和四年六月十八日 森鷗外記念館講演レジュメ
津和野の皆さんへ
『鶏』の〈語り〉の構造―生死を見つめる石田少佐―
田中 実
はじめに
『鶏』は明治四十二年(一九〇九)八月一日、雑誌『昴』第八号に「森林太郎」の署名で掲載されました。作品は主人公石田少佐が六月二十四日に東京から小倉に着任する場面から始まり、九月一日までの二カ月余りの出来事が描かれています。石田は妻を亡くして中学生の一人息子を東京の母に任せてこの小倉の地に少佐として単身赴任したのでした。ここでの石田には格別ロマンチックなことはむろん、ドラマチックな出来事も起こりません。
そこに起こる出来事は、例えばそのひとつ、女中のお時婆さんの隠れた盗み、主家の食べ物をこっそり包みに入れて自宅に持ち帰っています。また南隣のかぼちゃ顔の女がこれを指摘しても石田は聞き流していましたが、向かいの家に住む同僚の中野少佐からそのことを指摘されると、即刻お時婆さんを解雇します。その際、咎め立ては一切しません。それどころか逆に半月しか働いていないのにひと月分の給料を払っています。使用人の女中に裏切られているのに、何故石田少佐はそんな寛大な対応をこの人物にするのでしょうか。別当虎吉はもっと本格的、システマテッィクに巧妙なやり方で石田を欺きます。石田が感心し、「敬意」を持つほどです。虎吉は主人の勝手道具を勝手に私用し、食糧も馬の餌もごまかしていたのです。しかし、この虎吉に対しては解雇しないばかりでなく、使っていた勝手道具をことごとく与え、石田所有の鶏二羽も与えます。鶏はかつての部下麻生から手土産として贈られ、食べずに番(つがい)にして飼い、生まれた雛は特に可愛がっていました。そこには東京に残して来た一人息子に対する石田の想いを想起させます。ところが、小説末尾、これを無情にも処分してしまう、雛は手放せば殺されるはず、それなのに何故、「雛(ひよこ)なんぞは入(い)らんと云へ。」と雛への愛(いと)おしさを断ち切るのでしょうか。そうした石田の為人(ひととなり)、その内なる世界とはいかなるものでしょうか。
お時婆さんから見ると、石田は小鯛を一度買っただけ、胡瓜や茄子ばかりを食べる「吝嗇」です。にもかかわらず物を買う時は相手の言う通りに買ってしまう「馬鹿」です。だから、自分の盗みがばれて半月で解雇される際、石田が自分に倍の給料を出したのは、やはり石田が「馬鹿」だからと納得したでしょうね。ならば、虎吉はどうでしょう。虎吉は解雇・懲罰を加えられるべきところ逆に優遇されたのですから、智恵者の虎吉にすれば、その理由、根拠が分からず、またなついていた雛(ひよこ)すら手放す石田の心の内は全く見えない、その分今後一層気を付けなければならないと、警戒すると思われます。
何故かくまで石田は一方で寛大な鷹揚さを示しながら、他方では雛処分に見られるような冷酷非情な行為に出るのでしょうか。その根拠はお時婆さん、虎吉らに見えないだけでなく作品の外、我々読者に至るまで、容易には見えにくいのではないでしょうか。石田はいかなる人間性、あるいは人生観もしくは世界観の持ち主なのでしょうか。そもそも『鶏』とはどんな小説なのでしょうか。
わたくしにとってこの作品は興味の尽きない魅惑に富んだ近代小説、見事な名作に見えます。津和野の皆さん、鷗外の愛読者の皆さんと、この謎を解く秘鑰(ひやく)を共有できればと夢想します。
一、〈語り〉の構造と文体
先に申し上げます。近代小説を読むには作中の出来事を語っている〈語り手〉を読むことが肝要です。『鶏』は三人称小説です。冒頭「石田小介が少佐参謀になつて小倉に着任したのは六月二十四日であった。」とあり、そう語っているのはむろん石田ではありません。三人称の〈語り手〉です。一人称の生身の〈語り手〉は作中には直接登場せず、この小説の出来事はその〈語り手〉が語って初めて機能します。『鶏』を読む際これをベースにお考え下さい。
そこで〈語り手〉は石田が小倉に着任して上官に正装で挨拶しますが、「その頃は申告の為方なんぞは極まってゐなかった」とあり、また「その頃は都督がをられたので」と陸軍の制度に触れています。都督は天皇に直属し、全師団を三つに分け、その内の一つを管轄する役職で明治三十七年まで置かれていました。したがって、これを語っているのはそれ以後のこと、『鶏』が発表された明治四十二年頃とすると、収まりが着きます。冒頭には何年と明記されていませんが、これがはっきり分かる箇所があります。石田が「南アフリカの大きな地図をひろげて此頃戦争が起こりさうになつているトランスバールの地理を調べてゐる」場面です。これは明治三十二年の十月に、オランダ系移民ボーワ人の建国したトランスバール共和国に対してイギリスが戦争を仕掛けます。植民地戦争です。石田は既にこの二か月前の七月に、この世界に広がりつつある帝国主義の情勢に注目していることを〈語り手〉は示唆しています。これも看過できないでしょう。
このようにこの作品は〈語り手〉の〈語り〉の現在と語られている作中人物石田小介の現在との時間的落差を前提に、実は語られていたのです。と同時にそのまなざしは概ね重なり合い、一体化するようにも語られているところに、この作品の際立った特徴があります(話が複雑になって、申し訳なく思います。つまり、語られている出来事は明治三十二年の六月から九月、語っているのは明治三十七年より後の四十二年あたり、ならばその間、日本は日露戦争を経ている、こうした大枠がこの小説を読むまず前提、基本です)。
もう一つの特徴は文体にあります。例えば、ここに語られている出来事は石田のまなざしから捉えられたものか〈語り手〉のそれなのか峻別できない、そうした表現に度々出会います。例えば、次の箇所です。
段々小倉が近くなつて来る。最初に見える人家は旭町の遊郭である。どの家にも二階の欄干に赤い布団が掛けてある。こんな日に干すのでもあるまい。毎日降るのだから、かうして曝すのであろう。
小倉の町が見え始めた時、目に飛び込んでくるのは「赤い布団」、それが「曝」されているのです。こう捉えているのは石田なのか〈語り手〉なのか、判然としません。小倉の町が石田に見え始めると、〈語り手〉はまずこの「赤い布団」をリスナー・聴き手(我々〈読み手〉に通じます)に示していますが、これを見ているのは〈語り手〉でありながら、同時に石田でもありましょう。「干す」ではなく、「赤い布団」を「曝す」と表現することで猥雑な性の横溢をイメージさせます。この光景は小説後半、陰暦七月十三日の夜に「男も女も、手拭の頬かむりをして、着物の裾を片(はし)折(よ)つて帯に挟んで」「女で印(しるし)絆(ばん)纏(てん)に三尺帯(さんじゃくおび)を締めて、股引(ももひき)を穿かずにゐるものもある。」と男女が開放的な姿で盆踊りを踊る様子と呼応して、小倉が性に対して解放的かつ隠微な微妙な表現をしながら、性をイメージさせる町であることを印象付けているのです。さらに石田がこれから暮らすための貸家を見に行った際、雨覆(あまおお)い(防水用のマント)を縁端(えんばな)に置こうとすると、家主の爺さんにこの辺りは人目につく所に物を置くと盗まれるのだと聞かされます。これは後日、暑中見舞いに来た客が小倉の町は「人気(じんき)が悪い」と口々に言うことと呼応しています。つまり、性に対して解放的で「人気が悪い」小倉の町を背景に、石田の禁欲的な生活ぶりがより際立つように〈語り手〉によって仕組まれているのです。と言って、石田がこうした光景に拘泥し、意識しているのでは一切ありません。現れている光景、出来事、それらは言わば黙過されています。
さらに、次に挙げる蟹の描写に注目しましょう。
縁に近い処には、瓦で築いた花壇があつて、菊が造つてある。その傍に円石を畳んだ井戸があつて、どの石の隙間からも赤い蟹が覗いてゐる。
この文を繰り返しご覧ください。〈語り手〉と語られている石田と覗かれている蟹、この三者の主体が重なっている文体です。まず「覗いている」主体は石田ですが、井戸の上から蟹を見ています。「蟹が覗いている。」と文が終わると、蟹自体が対象の何かを「覗いている」とも読めそうです。ここでは見られている客体が今度は見ている主体に転じていく、両者があたかも通底しているかのように語られ、そこに齟齬や停滞を感じさせません。緊迫して見事、美文のお手本のようです。対象に微塵も拘泥しない、石田の稀有の人間性とまなざし、その透明性が露出しています。外界の対象世界をありのままに受け取る石田の感受性と人間性、これがここにも表れています。
二、鶏をめぐって
平板に見える出来事のなかで、それが動き出すのは、日清戦争の際、石田の部下だった兵卒の麻生が現れてからです。麻生は恩人が少佐に昇任して小倉入りしたことを知って、お祝いに食べ頃の鶏を手土産に訪ねて来たのです。その鶏を見た石田は、「それは徴発ではあるまいな」と語りかけます。この「徴発」という言葉が戦場を共にした二人にとってのキーワード、それは戦場の戦闘で《死》と隣り合わせの中、生身の人間の欲望が露出した行為です。石田は贈られた鶏を「食うのではない。」とお時婆さんに言って、牝鶏と伏籠を買い、番(つがい)にして飼います。翌朝夜明け、石田は鶏の鳴き声を聞き、「愉快だと思」うのです。しかし、虎吉は石田とは異なり、卵を手に入れるため、新たに自分の牝鶏を入れます。石田は嫌な顔をしますが黙過、すると翌日また一羽増えています。鶏はお時と虎吉にとっては食べるための卵が問題、しかもこの卵が誰の物かが大事、彼らは常にそうした生活の端々に欲望の種を見出し、そこで充足することが生きる喜びなのです。しかし、石田はそこに一切関心を持ちません。何故でしょう、これが読者にも見えにくいのです。
そこに南隣のかぼちゃ顔の女が登場し、石田の鶏が畑を荒らして困ると、天下に向かって堂々と大演説を始めます。石田はこの非難に怒るどころかこれを微笑んで聞いて受け流しています。南隣の女は虎吉やお時とは違って、放恣な欲望を充足せることで生きる喜びを得る、そのために人生はあると言うだけでは終わっていません。それを相対化することを知っています。外界との関係で自身の欲望をコントロールすべきことを知って豊前のことわざをを例に示し、あるべき生き方を主張しているのです。この考え方は石田とも一面共有されます。南隣の女の石田批判はその通りなのですが、石田は何事も生きていくことには「エバンチュアリテ」(予測できない突発的出来事)があることを捉え、彼女の抗議・批判を相対化して、女との距離を取って見ています。しかもこれを「上官の小言を聞いてゐる時と大抵同じ事」と、両者を同等にしています。
石田は書画を持たず、持っている掛物は「軍人勅諭」のみ、彼はそれをどこへでも持って行きます。上官の「小言」を微笑みを隠しながら聞くというのは、「軍人勅諭」の「下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ」の教えに反しているようにも見えますが、石田は上官の「小言」に対してもへりくだることを知らない、そうしたことを拒絶しています。この石田とは何者なのでしょう。
三、石田の内面世界
石田は日清戦争で大尉、弾丸・砲弾の飛び交う前線基地の指揮官でした。戦場では敵兵と互いに殺し合い、略奪行為が横行します。それまで抑制されていた欲望・欲情がむき出しになるのです。そこで麻生は石田に出会います。家の主人のいなくなった空き家の鶏を持って来た麻生は、石田からそれを主のいない家に返してこいと叱責されます。それを麻生は「わたくしの一生の教訓になりました」と受け止め、「ちゃん」という蔑称の意味を自覚しています。帝国主義思想の問題がここでは背景に取り上げられているのです。問題の深刻さはそこに止まりません。
戦地で見た、生きるためには相手を殺さざるを得ないという現実、その前ではどんな正義のイデオロギーや絶対の信仰も無力です。その悲惨さ、残虐さを心底知り尽くし、これと向き合う、対峙・対決する体験が石田の生命観、人生観の根底を成し、これを超えていく生き方をしているのではないか、こう考えてみましょう。
戦後もなお石田は基本的に、根源的な意味で「戦地のくらし」をこの平和な戦後日本でいかに貫くか、これが石田の内面、人間を作っていたのではないか、以下検討していきましょう。
戦地で培われた徹底的に合理的、機能的な物の見方は彼の生活習慣の隅々に現れています。風呂には入らず、一日二回、決まったとおりの流儀で身体を洗い、「立てたものは倒れることがある。倒れれば刀が傷む」とサーベルを立てかけず、横に置かせるなど、「戦地のくらし」をそのまま非戦時下の日常で続けています。
先に述べたように、小倉の町は「赤い布団」や盆踊りに象徴される猥雑な性の欲望が淫靡に横溢し、見え隠れする「人気の悪い」場所でした。その町にふさわしく欲望を放恣に放って生きるお時婆さんや東京から来た虎吉の領域と石田のそれとは生きる生の位相、生の領域が全く異なっています。すなわち、彼らとって人生は美味い物を食べ、少しでも蓄財に精を出し、欲望を満足させるところに生きる喜び、価値があります。これに対し、石田にはそれらを超えることに生の目的があるのです。そのため自身の欲望と向き合い、これを超えんとして戦後の日常の暮らしを生きる、これが石田の選択です。いっそう厳格・徹底的に生きるために、石田はラ・ブリュィエールの「性格といふ本」にも強く関心を持ち、自身の内面を見つめていきます。周囲の人物や人間関係を見るときも、外界の出来事・対象・風物を見るときも曇りなく、同じまなざしで見ています。自身の折々の感情の動きの源泉を捉え、自身の感情の情動には身を任せない生き方です。
戦争では先に相手を殺すことが自分が生きること、生きるとはそもそも他の生き物の命を取ること、この認識との対決が石田に生と死を等価に見るまなざしを齎します。井戸を覗くと蟹が見える、蟹が見えるとその蟹のまなざしで石田も外界を覗く、客体の対象と主体が一致する、対象を曇りなく捉える透明なまなざし、ミラクルです。だからです。お時や虎吉からの被害、裏切り、あるいは南隣のかぼちゃ顔の女の正面切った正々堂々たる罵倒、批判も、いや、軍の上官の「小言」も全てそのまま微笑んで認めることが出来るのです。お時や虎吉の盗みや裏切りも微笑んで赦せるから、相手が喜ぶような対応をすることが出来るのです。「雛(ひよこ)なんぞは入らんと云へ」と言うのも、自らの雛への感情を否定し、拒絶・拒否したのではなく、雛を可愛いと思いながら、これを丸ごと受け止めながら、そういう感受性それ自体を相対化して見つめているのです。愛することにはエゴイズムが孕まれています。生きることは相手を殺して生きること、という生の根源性を冷徹に見つめ受け止め、生の欲望、愛に執着している自分自身を相対化して生きるのです。そして最末尾の一行です。
石田は矢張り花火を見てゐた(傍点引用者)。
二十六夜待ちの花火の夜、石田は花火を「矢張り」見続けています。石田が見続けているその「花火」とは何か。二十六夜待ちとは、陰暦の正月と七月の二十六日の夜半、月の出を待ち拝む風習で、月光の中に阿弥陀・観音・勢至の三尊の菩薩が現れると伝承されています。花火を見ながら菩薩の出現を待つ、その菩薩はいわば主体とその主体の捉えている客体の対象のその外部、石田の生の領域の〈向こう〉です。石田は雛に執着する自身を対象化し、その〈向こう〉である外部を見ようとするのです。自分の捉えている対象、そうした生の世界ではなく、自身の捉えている対象の客体のその外部を見ようとしています。他の生命を殺すことを宿命とする生命自体の在り方をまるごと受け入れ、超える、これを凝視しています。それは菩薩の領域にあります。
【付記】
現在、『鶏』を読みながら、ウクライナの戦場の画像が思い起こされます。作品の表層は日常的出来事しか描かれていないので、帝国主義イデオロギーなど無縁に見えますが、これは日清戦争と日露戦争の間の時代のことを日露戦争を経た〈語り手〉が同時代読者に向けて語っていると読むと、帝国主義イデオロギーの行方を包括しているとも捉えられます。都督が小倉に置かれていた時代の意味は、単なるディテールに留まりません。因みに明治三十四年に幸徳秋水が帝国主義を批判した『廿世紀之怪物 帝国主義』を刊行、その幸徳秋水らが処刑された大逆事件が起きたのは明治四十三年のことです。この作品が発表された明治四十二年はそういう時代の空気、文脈のなかにありました。
『鶏』という地味な作品について話をしてきました。
これが名作だと読む人はそうはいません。
文学研究の専門家もその解釈は実に驚くほどバラバラです。
いつもの通り、私の読み方は皆んとはまるで違っているようです。
こうした読み方を通して近代小説の原理の問題も考えていきます。
これは日本の帝国主義を背景にして考えると面白いですよ。
ウクライナへの侵略戦争がこれからも続いていくでしょうね。
以下に当日のレジュメを掲載しておきます。
令和四年六月十八日 森鷗外記念館講演レジュメ
津和野の皆さんへ
『鶏』の〈語り〉の構造―生死を見つめる石田少佐―
田中 実
はじめに
『鶏』は明治四十二年(一九〇九)八月一日、雑誌『昴』第八号に「森林太郎」の署名で掲載されました。作品は主人公石田少佐が六月二十四日に東京から小倉に着任する場面から始まり、九月一日までの二カ月余りの出来事が描かれています。石田は妻を亡くして中学生の一人息子を東京の母に任せてこの小倉の地に少佐として単身赴任したのでした。ここでの石田には格別ロマンチックなことはむろん、ドラマチックな出来事も起こりません。
そこに起こる出来事は、例えばそのひとつ、女中のお時婆さんの隠れた盗み、主家の食べ物をこっそり包みに入れて自宅に持ち帰っています。また南隣のかぼちゃ顔の女がこれを指摘しても石田は聞き流していましたが、向かいの家に住む同僚の中野少佐からそのことを指摘されると、即刻お時婆さんを解雇します。その際、咎め立ては一切しません。それどころか逆に半月しか働いていないのにひと月分の給料を払っています。使用人の女中に裏切られているのに、何故石田少佐はそんな寛大な対応をこの人物にするのでしょうか。別当虎吉はもっと本格的、システマテッィクに巧妙なやり方で石田を欺きます。石田が感心し、「敬意」を持つほどです。虎吉は主人の勝手道具を勝手に私用し、食糧も馬の餌もごまかしていたのです。しかし、この虎吉に対しては解雇しないばかりでなく、使っていた勝手道具をことごとく与え、石田所有の鶏二羽も与えます。鶏はかつての部下麻生から手土産として贈られ、食べずに番(つがい)にして飼い、生まれた雛は特に可愛がっていました。そこには東京に残して来た一人息子に対する石田の想いを想起させます。ところが、小説末尾、これを無情にも処分してしまう、雛は手放せば殺されるはず、それなのに何故、「雛(ひよこ)なんぞは入(い)らんと云へ。」と雛への愛(いと)おしさを断ち切るのでしょうか。そうした石田の為人(ひととなり)、その内なる世界とはいかなるものでしょうか。
お時婆さんから見ると、石田は小鯛を一度買っただけ、胡瓜や茄子ばかりを食べる「吝嗇」です。にもかかわらず物を買う時は相手の言う通りに買ってしまう「馬鹿」です。だから、自分の盗みがばれて半月で解雇される際、石田が自分に倍の給料を出したのは、やはり石田が「馬鹿」だからと納得したでしょうね。ならば、虎吉はどうでしょう。虎吉は解雇・懲罰を加えられるべきところ逆に優遇されたのですから、智恵者の虎吉にすれば、その理由、根拠が分からず、またなついていた雛(ひよこ)すら手放す石田の心の内は全く見えない、その分今後一層気を付けなければならないと、警戒すると思われます。
何故かくまで石田は一方で寛大な鷹揚さを示しながら、他方では雛処分に見られるような冷酷非情な行為に出るのでしょうか。その根拠はお時婆さん、虎吉らに見えないだけでなく作品の外、我々読者に至るまで、容易には見えにくいのではないでしょうか。石田はいかなる人間性、あるいは人生観もしくは世界観の持ち主なのでしょうか。そもそも『鶏』とはどんな小説なのでしょうか。
わたくしにとってこの作品は興味の尽きない魅惑に富んだ近代小説、見事な名作に見えます。津和野の皆さん、鷗外の愛読者の皆さんと、この謎を解く秘鑰(ひやく)を共有できればと夢想します。
一、〈語り〉の構造と文体
先に申し上げます。近代小説を読むには作中の出来事を語っている〈語り手〉を読むことが肝要です。『鶏』は三人称小説です。冒頭「石田小介が少佐参謀になつて小倉に着任したのは六月二十四日であった。」とあり、そう語っているのはむろん石田ではありません。三人称の〈語り手〉です。一人称の生身の〈語り手〉は作中には直接登場せず、この小説の出来事はその〈語り手〉が語って初めて機能します。『鶏』を読む際これをベースにお考え下さい。
そこで〈語り手〉は石田が小倉に着任して上官に正装で挨拶しますが、「その頃は申告の為方なんぞは極まってゐなかった」とあり、また「その頃は都督がをられたので」と陸軍の制度に触れています。都督は天皇に直属し、全師団を三つに分け、その内の一つを管轄する役職で明治三十七年まで置かれていました。したがって、これを語っているのはそれ以後のこと、『鶏』が発表された明治四十二年頃とすると、収まりが着きます。冒頭には何年と明記されていませんが、これがはっきり分かる箇所があります。石田が「南アフリカの大きな地図をひろげて此頃戦争が起こりさうになつているトランスバールの地理を調べてゐる」場面です。これは明治三十二年の十月に、オランダ系移民ボーワ人の建国したトランスバール共和国に対してイギリスが戦争を仕掛けます。植民地戦争です。石田は既にこの二か月前の七月に、この世界に広がりつつある帝国主義の情勢に注目していることを〈語り手〉は示唆しています。これも看過できないでしょう。
このようにこの作品は〈語り手〉の〈語り〉の現在と語られている作中人物石田小介の現在との時間的落差を前提に、実は語られていたのです。と同時にそのまなざしは概ね重なり合い、一体化するようにも語られているところに、この作品の際立った特徴があります(話が複雑になって、申し訳なく思います。つまり、語られている出来事は明治三十二年の六月から九月、語っているのは明治三十七年より後の四十二年あたり、ならばその間、日本は日露戦争を経ている、こうした大枠がこの小説を読むまず前提、基本です)。
もう一つの特徴は文体にあります。例えば、ここに語られている出来事は石田のまなざしから捉えられたものか〈語り手〉のそれなのか峻別できない、そうした表現に度々出会います。例えば、次の箇所です。
段々小倉が近くなつて来る。最初に見える人家は旭町の遊郭である。どの家にも二階の欄干に赤い布団が掛けてある。こんな日に干すのでもあるまい。毎日降るのだから、かうして曝すのであろう。
小倉の町が見え始めた時、目に飛び込んでくるのは「赤い布団」、それが「曝」されているのです。こう捉えているのは石田なのか〈語り手〉なのか、判然としません。小倉の町が石田に見え始めると、〈語り手〉はまずこの「赤い布団」をリスナー・聴き手(我々〈読み手〉に通じます)に示していますが、これを見ているのは〈語り手〉でありながら、同時に石田でもありましょう。「干す」ではなく、「赤い布団」を「曝す」と表現することで猥雑な性の横溢をイメージさせます。この光景は小説後半、陰暦七月十三日の夜に「男も女も、手拭の頬かむりをして、着物の裾を片(はし)折(よ)つて帯に挟んで」「女で印(しるし)絆(ばん)纏(てん)に三尺帯(さんじゃくおび)を締めて、股引(ももひき)を穿かずにゐるものもある。」と男女が開放的な姿で盆踊りを踊る様子と呼応して、小倉が性に対して解放的かつ隠微な微妙な表現をしながら、性をイメージさせる町であることを印象付けているのです。さらに石田がこれから暮らすための貸家を見に行った際、雨覆(あまおお)い(防水用のマント)を縁端(えんばな)に置こうとすると、家主の爺さんにこの辺りは人目につく所に物を置くと盗まれるのだと聞かされます。これは後日、暑中見舞いに来た客が小倉の町は「人気(じんき)が悪い」と口々に言うことと呼応しています。つまり、性に対して解放的で「人気が悪い」小倉の町を背景に、石田の禁欲的な生活ぶりがより際立つように〈語り手〉によって仕組まれているのです。と言って、石田がこうした光景に拘泥し、意識しているのでは一切ありません。現れている光景、出来事、それらは言わば黙過されています。
さらに、次に挙げる蟹の描写に注目しましょう。
縁に近い処には、瓦で築いた花壇があつて、菊が造つてある。その傍に円石を畳んだ井戸があつて、どの石の隙間からも赤い蟹が覗いてゐる。
この文を繰り返しご覧ください。〈語り手〉と語られている石田と覗かれている蟹、この三者の主体が重なっている文体です。まず「覗いている」主体は石田ですが、井戸の上から蟹を見ています。「蟹が覗いている。」と文が終わると、蟹自体が対象の何かを「覗いている」とも読めそうです。ここでは見られている客体が今度は見ている主体に転じていく、両者があたかも通底しているかのように語られ、そこに齟齬や停滞を感じさせません。緊迫して見事、美文のお手本のようです。対象に微塵も拘泥しない、石田の稀有の人間性とまなざし、その透明性が露出しています。外界の対象世界をありのままに受け取る石田の感受性と人間性、これがここにも表れています。
二、鶏をめぐって
平板に見える出来事のなかで、それが動き出すのは、日清戦争の際、石田の部下だった兵卒の麻生が現れてからです。麻生は恩人が少佐に昇任して小倉入りしたことを知って、お祝いに食べ頃の鶏を手土産に訪ねて来たのです。その鶏を見た石田は、「それは徴発ではあるまいな」と語りかけます。この「徴発」という言葉が戦場を共にした二人にとってのキーワード、それは戦場の戦闘で《死》と隣り合わせの中、生身の人間の欲望が露出した行為です。石田は贈られた鶏を「食うのではない。」とお時婆さんに言って、牝鶏と伏籠を買い、番(つがい)にして飼います。翌朝夜明け、石田は鶏の鳴き声を聞き、「愉快だと思」うのです。しかし、虎吉は石田とは異なり、卵を手に入れるため、新たに自分の牝鶏を入れます。石田は嫌な顔をしますが黙過、すると翌日また一羽増えています。鶏はお時と虎吉にとっては食べるための卵が問題、しかもこの卵が誰の物かが大事、彼らは常にそうした生活の端々に欲望の種を見出し、そこで充足することが生きる喜びなのです。しかし、石田はそこに一切関心を持ちません。何故でしょう、これが読者にも見えにくいのです。
そこに南隣のかぼちゃ顔の女が登場し、石田の鶏が畑を荒らして困ると、天下に向かって堂々と大演説を始めます。石田はこの非難に怒るどころかこれを微笑んで聞いて受け流しています。南隣の女は虎吉やお時とは違って、放恣な欲望を充足せることで生きる喜びを得る、そのために人生はあると言うだけでは終わっていません。それを相対化することを知っています。外界との関係で自身の欲望をコントロールすべきことを知って豊前のことわざをを例に示し、あるべき生き方を主張しているのです。この考え方は石田とも一面共有されます。南隣の女の石田批判はその通りなのですが、石田は何事も生きていくことには「エバンチュアリテ」(予測できない突発的出来事)があることを捉え、彼女の抗議・批判を相対化して、女との距離を取って見ています。しかもこれを「上官の小言を聞いてゐる時と大抵同じ事」と、両者を同等にしています。
石田は書画を持たず、持っている掛物は「軍人勅諭」のみ、彼はそれをどこへでも持って行きます。上官の「小言」を微笑みを隠しながら聞くというのは、「軍人勅諭」の「下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ」の教えに反しているようにも見えますが、石田は上官の「小言」に対してもへりくだることを知らない、そうしたことを拒絶しています。この石田とは何者なのでしょう。
三、石田の内面世界
石田は日清戦争で大尉、弾丸・砲弾の飛び交う前線基地の指揮官でした。戦場では敵兵と互いに殺し合い、略奪行為が横行します。それまで抑制されていた欲望・欲情がむき出しになるのです。そこで麻生は石田に出会います。家の主人のいなくなった空き家の鶏を持って来た麻生は、石田からそれを主のいない家に返してこいと叱責されます。それを麻生は「わたくしの一生の教訓になりました」と受け止め、「ちゃん」という蔑称の意味を自覚しています。帝国主義思想の問題がここでは背景に取り上げられているのです。問題の深刻さはそこに止まりません。
戦地で見た、生きるためには相手を殺さざるを得ないという現実、その前ではどんな正義のイデオロギーや絶対の信仰も無力です。その悲惨さ、残虐さを心底知り尽くし、これと向き合う、対峙・対決する体験が石田の生命観、人生観の根底を成し、これを超えていく生き方をしているのではないか、こう考えてみましょう。
戦後もなお石田は基本的に、根源的な意味で「戦地のくらし」をこの平和な戦後日本でいかに貫くか、これが石田の内面、人間を作っていたのではないか、以下検討していきましょう。
戦地で培われた徹底的に合理的、機能的な物の見方は彼の生活習慣の隅々に現れています。風呂には入らず、一日二回、決まったとおりの流儀で身体を洗い、「立てたものは倒れることがある。倒れれば刀が傷む」とサーベルを立てかけず、横に置かせるなど、「戦地のくらし」をそのまま非戦時下の日常で続けています。
先に述べたように、小倉の町は「赤い布団」や盆踊りに象徴される猥雑な性の欲望が淫靡に横溢し、見え隠れする「人気の悪い」場所でした。その町にふさわしく欲望を放恣に放って生きるお時婆さんや東京から来た虎吉の領域と石田のそれとは生きる生の位相、生の領域が全く異なっています。すなわち、彼らとって人生は美味い物を食べ、少しでも蓄財に精を出し、欲望を満足させるところに生きる喜び、価値があります。これに対し、石田にはそれらを超えることに生の目的があるのです。そのため自身の欲望と向き合い、これを超えんとして戦後の日常の暮らしを生きる、これが石田の選択です。いっそう厳格・徹底的に生きるために、石田はラ・ブリュィエールの「性格といふ本」にも強く関心を持ち、自身の内面を見つめていきます。周囲の人物や人間関係を見るときも、外界の出来事・対象・風物を見るときも曇りなく、同じまなざしで見ています。自身の折々の感情の動きの源泉を捉え、自身の感情の情動には身を任せない生き方です。
戦争では先に相手を殺すことが自分が生きること、生きるとはそもそも他の生き物の命を取ること、この認識との対決が石田に生と死を等価に見るまなざしを齎します。井戸を覗くと蟹が見える、蟹が見えるとその蟹のまなざしで石田も外界を覗く、客体の対象と主体が一致する、対象を曇りなく捉える透明なまなざし、ミラクルです。だからです。お時や虎吉からの被害、裏切り、あるいは南隣のかぼちゃ顔の女の正面切った正々堂々たる罵倒、批判も、いや、軍の上官の「小言」も全てそのまま微笑んで認めることが出来るのです。お時や虎吉の盗みや裏切りも微笑んで赦せるから、相手が喜ぶような対応をすることが出来るのです。「雛(ひよこ)なんぞは入らんと云へ」と言うのも、自らの雛への感情を否定し、拒絶・拒否したのではなく、雛を可愛いと思いながら、これを丸ごと受け止めながら、そういう感受性それ自体を相対化して見つめているのです。愛することにはエゴイズムが孕まれています。生きることは相手を殺して生きること、という生の根源性を冷徹に見つめ受け止め、生の欲望、愛に執着している自分自身を相対化して生きるのです。そして最末尾の一行です。
石田は矢張り花火を見てゐた(傍点引用者)。
二十六夜待ちの花火の夜、石田は花火を「矢張り」見続けています。石田が見続けているその「花火」とは何か。二十六夜待ちとは、陰暦の正月と七月の二十六日の夜半、月の出を待ち拝む風習で、月光の中に阿弥陀・観音・勢至の三尊の菩薩が現れると伝承されています。花火を見ながら菩薩の出現を待つ、その菩薩はいわば主体とその主体の捉えている客体の対象のその外部、石田の生の領域の〈向こう〉です。石田は雛に執着する自身を対象化し、その〈向こう〉である外部を見ようとするのです。自分の捉えている対象、そうした生の世界ではなく、自身の捉えている対象の客体のその外部を見ようとしています。他の生命を殺すことを宿命とする生命自体の在り方をまるごと受け入れ、超える、これを凝視しています。それは菩薩の領域にあります。
【付記】
現在、『鶏』を読みながら、ウクライナの戦場の画像が思い起こされます。作品の表層は日常的出来事しか描かれていないので、帝国主義イデオロギーなど無縁に見えますが、これは日清戦争と日露戦争の間の時代のことを日露戦争を経た〈語り手〉が同時代読者に向けて語っていると読むと、帝国主義イデオロギーの行方を包括しているとも捉えられます。都督が小倉に置かれていた時代の意味は、単なるディテールに留まりません。因みに明治三十四年に幸徳秋水が帝国主義を批判した『廿世紀之怪物 帝国主義』を刊行、その幸徳秋水らが処刑された大逆事件が起きたのは明治四十三年のことです。この作品が発表された明治四十二年はそういう時代の空気、文脈のなかにありました。