私は今年の8月、日本文学協会が発行している雑誌『日本文学』に、拙稿「〈近代小説〉の神髄は不条理、概念としての〈第三項〉がこれを拓く ―鷗外初期三部作を例にして―」を発表、これを読んだ私の盟友の一人、中村龍一さんから、「「自己倒壊・瓦解」し切れない自分の弱さと向き合う 三つの論文から私が浮上させた諸問題は、そのことを私自身が問われているのである」というタイトルの長い文章、ほとんどどこかの掲載誌に発表すべき、読み応えのある論文を頂き、改めて中村さんに敬意を抱きました。中村さんはこれを私のブログに載せてほしいとのことでした。
多くの方からわかりにくいと言われている私にとって、極めてありがたく、シリーズ化し、これから少しずつ中村さんの文章を取り上げて応答していきたいと思います。但し、全文を載せると長くなり過ぎますので、部分的な掲載になります。中村さんには快諾を得ています。
1 私の問題意識のありどころ
私は昨年の大会で『羅生門』(『日本文学』2018.3)を論じる機会が与えられた。近代
文学の論文は、私にとって初めての挑戦であったといってよい。しかし、八月号の「田中論文」は、私が『羅生門』から何処へ向かわねばならないかを示唆してくれている。少し長くはなるが「田中論文」の『羅生門』の部分を辿ってみたい。
(以下① ②・・・・、傍線、太字、下線は中村)
① 下人が自身の観念の外部、《他者》に出会えず、強盗になれないと語る「作者」は、こうしたことを対象化し、問題化したのですから、そうである以上、自身はどうか、いかにして自身の観念の外部と出会えるのか、こうした疑問が起こります。それが改稿された末尾の意味です。すなわち、定稿『羅生門』とは、生身の〈語り手〉自身の運命を語っているのです。
②「作者」を相対化する〈機能としての語り手〉は無教養な下人とは異なる知識人「作者」が下人と同様の観念の上澄みにあることを知ったからこそ、「作者」を含めた「誰も知らない」と語り終える物語を構造化するのです。
③ 視点人物の下人が対象人物の老婆の言うことを捉えていないように、結果として(作中の)知識人の生身の「作者」の認識もまた、いかに対象に到達し得ないか、客体の対象そのもの(、、、、)=〈第三項〉に辿り着けないかを捉え、これを〈機能としての語り手〉が構造化して語り終えているのです。
④ そこでは認識が認識の闇を抉り出し、認識の陥穽、あるいは一種の逆接とも言えそうな認識に辿り着きます。しかし、それは不条理ではありません。むしろそれは明晰な認識ですから条理と言うべきでしょう。
⑤ 不条理はさらに認識の瓦解・自己崩壊を要します。主体の観念である認識を自己許容している限り、不条理は現れません。ここは死肉を啄む鴉や死者の髪の毛を抜く世界はあっても、自分が死ぬか相手を殺すかの究極の選択、「カルネアデスの板」の闘いはありません。そこから生と死の等価の世界が拓きますが、ここにはスタティックな一方的な略奪があるのみです。認識の拒絶・認識それ自体の及ばない領域に踏み込む認識の否定が必要です。『羅生門』の構造は認識それ自体の闇は抱えていますが、まだ、不条理の領域の手前に留まっています。 (p10)
「主体の観念である認識を自己許容している限り、不条理は現れません」と田中が述べたことは、如何に人が自己化し、自身の枠組みでしか捉えないかを言っているのです。世界は知覚し、条理の自己倒壊と不条理の問題、〈近代小説〉の問題に、今後私も自覚的に踏み込んでいきたい。
生身の私といえば、「自分が死ぬか相手を殺すかの究極の選択」に向き合えず、「自己許容」を捨てきれない自分の弱さをよく知っている。人は己の不条理に向き合うことはそんなに容易なことではない。「条理と不条理の世界で人はどうすれば対象人物の老婆と出会うことができるのか」、この「問い」こそ、田中実が〈近代文学〉で格闘してきた難問であり、その究極の産物が〈第三項〉の想定と自己倒壊がもたらす「真実(愛)」である。
中村さんが実に真剣に拙稿を読んで下さり、いかに自分の問題として受け止めて下さっているかが伝わってきます。あらためて感謝申し上げます。
条理か、不条理かの問題は極めてそれ自体が難解な問い、条理・不条理の両者はそれぞれ別の次元にあると私は考えています。時空間・次元が別にあると考えているのです。すなわち、いまだ条里に至らないレベルと条理であるレベルとの間にはそれなりの困難な問題があり、これと不条理の問題は別、次元を異にしています。
私見では、『羅生門』それ自体不条理の時空間に関係しているとは捉えていません。不条理は条理、すなわち、認識それ自体を拒む領域に属します。その問題に『羅生門』は至っていないと考えているのです。あくまでも条里のレベルで問題を突き止めようとしていると考えています。
上記③にあるように、認識するということは条理に落とし込むこと、自己倒壊とは自身が理解している認識世界が壊れることですが、それは不条理の領域と相克にあるとは限らず、芥川の場合、その逆、条理の世界がさらに深くなるのです。
我々は通常、認識の自己許容の中にいて、それは生存本能に直結するものであり、それが壊れるということは危険なことでもあります。芥川が不条理を描き出したのは、『藪の中』、一つの傷で致命傷の死者に真犯人が三人いること、これは不条理です。これに芥川が出会うには、漱石のエッセイ『人生』にある、人生とは「二辺並行せる三角形」、「底なき三角形」という認識のレベル、『行人』の主人公哲学者の一郎が自身の生を、死ぬか、宗教に入るか、気が狂うか、そのどれかしか道がないとの苦悩に立っているレベルに向き合う必要があります。或いは、『城の崎にて』の生と死は等価という認識、これが不条理、ここと格闘することです。
芥川の内なる世界は強い自己化作用の自意識の強さにあり、認識の闇を認識で越えて行こうと条里の世界に襲われていると私は考えています。
「カルネアデスの板」のような殺すか、殺されるかの命に係わる決定的な出来事への飛躍に向き合うのでなく、『羅生門』はスタティック、死肉を啄む鴉の世界の延長、死者の髪の毛を抜く行為を問題化し、『范の犯罪』の如き、「カルネアデスの板」との相克は起こりません。
不条理という異次元空間への飛躍・飛翔ではなく、その末期まで条里・認識を突き詰めるのが芥川だと田中は考えています。
『羅生門』定稿まで、認識を深めていくと如何に対象の領域が自己化して対象を捉えているか、インテリの「作者」も究極ではセンチメンタリストで極から極へと一瞬にして世界観を変えてしまう、面皰の少年「下人」と変わらないのです。認識が如何に自己化でしかないかを捉えて、その闇を深くするパラドックスを生きるのです。
透徹した認識がその認識の闇を顕わにするという認識のパラドックスを生きる生き地獄です。
ブログを読んで下さった皆さん、益々解り難くなりましたか。ごめんなさい。
明治図書の新刊書に収録した「『羅生門』の読みの革命―〈近代小説〉の神髄を求めて―」を読んで下さると、必ず分かります。
多くの方からわかりにくいと言われている私にとって、極めてありがたく、シリーズ化し、これから少しずつ中村さんの文章を取り上げて応答していきたいと思います。但し、全文を載せると長くなり過ぎますので、部分的な掲載になります。中村さんには快諾を得ています。
1 私の問題意識のありどころ
私は昨年の大会で『羅生門』(『日本文学』2018.3)を論じる機会が与えられた。近代
文学の論文は、私にとって初めての挑戦であったといってよい。しかし、八月号の「田中論文」は、私が『羅生門』から何処へ向かわねばならないかを示唆してくれている。少し長くはなるが「田中論文」の『羅生門』の部分を辿ってみたい。
(以下① ②・・・・、傍線、太字、下線は中村)
① 下人が自身の観念の外部、《他者》に出会えず、強盗になれないと語る「作者」は、こうしたことを対象化し、問題化したのですから、そうである以上、自身はどうか、いかにして自身の観念の外部と出会えるのか、こうした疑問が起こります。それが改稿された末尾の意味です。すなわち、定稿『羅生門』とは、生身の〈語り手〉自身の運命を語っているのです。
②「作者」を相対化する〈機能としての語り手〉は無教養な下人とは異なる知識人「作者」が下人と同様の観念の上澄みにあることを知ったからこそ、「作者」を含めた「誰も知らない」と語り終える物語を構造化するのです。
③ 視点人物の下人が対象人物の老婆の言うことを捉えていないように、結果として(作中の)知識人の生身の「作者」の認識もまた、いかに対象に到達し得ないか、客体の対象そのもの(、、、、)=〈第三項〉に辿り着けないかを捉え、これを〈機能としての語り手〉が構造化して語り終えているのです。
④ そこでは認識が認識の闇を抉り出し、認識の陥穽、あるいは一種の逆接とも言えそうな認識に辿り着きます。しかし、それは不条理ではありません。むしろそれは明晰な認識ですから条理と言うべきでしょう。
⑤ 不条理はさらに認識の瓦解・自己崩壊を要します。主体の観念である認識を自己許容している限り、不条理は現れません。ここは死肉を啄む鴉や死者の髪の毛を抜く世界はあっても、自分が死ぬか相手を殺すかの究極の選択、「カルネアデスの板」の闘いはありません。そこから生と死の等価の世界が拓きますが、ここにはスタティックな一方的な略奪があるのみです。認識の拒絶・認識それ自体の及ばない領域に踏み込む認識の否定が必要です。『羅生門』の構造は認識それ自体の闇は抱えていますが、まだ、不条理の領域の手前に留まっています。 (p10)
「主体の観念である認識を自己許容している限り、不条理は現れません」と田中が述べたことは、如何に人が自己化し、自身の枠組みでしか捉えないかを言っているのです。世界は知覚し、条理の自己倒壊と不条理の問題、〈近代小説〉の問題に、今後私も自覚的に踏み込んでいきたい。
生身の私といえば、「自分が死ぬか相手を殺すかの究極の選択」に向き合えず、「自己許容」を捨てきれない自分の弱さをよく知っている。人は己の不条理に向き合うことはそんなに容易なことではない。「条理と不条理の世界で人はどうすれば対象人物の老婆と出会うことができるのか」、この「問い」こそ、田中実が〈近代文学〉で格闘してきた難問であり、その究極の産物が〈第三項〉の想定と自己倒壊がもたらす「真実(愛)」である。
中村さんが実に真剣に拙稿を読んで下さり、いかに自分の問題として受け止めて下さっているかが伝わってきます。あらためて感謝申し上げます。
条理か、不条理かの問題は極めてそれ自体が難解な問い、条理・不条理の両者はそれぞれ別の次元にあると私は考えています。時空間・次元が別にあると考えているのです。すなわち、いまだ条里に至らないレベルと条理であるレベルとの間にはそれなりの困難な問題があり、これと不条理の問題は別、次元を異にしています。
私見では、『羅生門』それ自体不条理の時空間に関係しているとは捉えていません。不条理は条理、すなわち、認識それ自体を拒む領域に属します。その問題に『羅生門』は至っていないと考えているのです。あくまでも条里のレベルで問題を突き止めようとしていると考えています。
上記③にあるように、認識するということは条理に落とし込むこと、自己倒壊とは自身が理解している認識世界が壊れることですが、それは不条理の領域と相克にあるとは限らず、芥川の場合、その逆、条理の世界がさらに深くなるのです。
我々は通常、認識の自己許容の中にいて、それは生存本能に直結するものであり、それが壊れるということは危険なことでもあります。芥川が不条理を描き出したのは、『藪の中』、一つの傷で致命傷の死者に真犯人が三人いること、これは不条理です。これに芥川が出会うには、漱石のエッセイ『人生』にある、人生とは「二辺並行せる三角形」、「底なき三角形」という認識のレベル、『行人』の主人公哲学者の一郎が自身の生を、死ぬか、宗教に入るか、気が狂うか、そのどれかしか道がないとの苦悩に立っているレベルに向き合う必要があります。或いは、『城の崎にて』の生と死は等価という認識、これが不条理、ここと格闘することです。
芥川の内なる世界は強い自己化作用の自意識の強さにあり、認識の闇を認識で越えて行こうと条里の世界に襲われていると私は考えています。
「カルネアデスの板」のような殺すか、殺されるかの命に係わる決定的な出来事への飛躍に向き合うのでなく、『羅生門』はスタティック、死肉を啄む鴉の世界の延長、死者の髪の毛を抜く行為を問題化し、『范の犯罪』の如き、「カルネアデスの板」との相克は起こりません。
不条理という異次元空間への飛躍・飛翔ではなく、その末期まで条里・認識を突き詰めるのが芥川だと田中は考えています。
『羅生門』定稿まで、認識を深めていくと如何に対象の領域が自己化して対象を捉えているか、インテリの「作者」も究極ではセンチメンタリストで極から極へと一瞬にして世界観を変えてしまう、面皰の少年「下人」と変わらないのです。認識が如何に自己化でしかないかを捉えて、その闇を深くするパラドックスを生きるのです。
透徹した認識がその認識の闇を顕わにするという認識のパラドックスを生きる生き地獄です。
ブログを読んで下さった皆さん、益々解り難くなりましたか。ごめんなさい。
明治図書の新刊書に収録した「『羅生門』の読みの革命―〈近代小説〉の神髄を求めて―」を読んで下さると、必ず分かります。
「日本文学」8月号の先生の「羅生門」の御論、「作者」と自称する〈語り手〉が「下人」を批評しているのみならず、〈機能としての語り手〉が「作者」と自称する〈語り手〉を批評しているという御論が強烈で、実は消化しきれなかったのですが、先生のブログを拝読するようになって、作品を〈機能としての語り手〉のレベルで読むことの意味、〈機能としての語り手〉というメタレベルに立つことで視点人物や対象人物や「語り手」の意識の重層性の中から作品の真髄(世界観)が見えてくるということが、痛切に感じられます。
先生の御著書の『小説の力』の巻頭の論文「批評する語り手-芥川龍之介『羅生門』」を読み直したところ、「〈批評〉する〈語り手〉を描ききることが、〈作家〉が己れ自身の運命に向かって成熟する道を劈いていくことである。ここに〈作家〉の側から要請された〈語り手〉創造の使命があり、登場人物の主体を批評する〈語り手〉の限界線を越えることこそ、〈作家〉自身が己れの内なる世界を超えていく」(p41)とあり、愕然としました。先生は、最初から、登場人物とともに人格を持って登場する〈語り手〉をメタレベルで捉える読み方をされているのに(この論文では〈機能としての語り手〉という言葉ではなく、〈作家〉がそれに相当していますが)、私は全く理解していなかったのだと思いました。
「故郷」では〈語り手〉である「私」を、そのメタレベルの〈機能としての語り手〉が語っていることがはっきりと見えてきます。
そのメタレベルから見えてくるもの。先生は「羅生門」で、「知識人の生身の『作者』の認識もまた、いかに対象に到達し得ないか、客体そのもの=〈第三項〉に辿り着けないか」が構造化されていると言われ、10/18付ブログでは、「認識するということは条理に落とし込むこと」と述べ、この作品には不条理は描かれておらず、「条理の世界がさらに深く」「認識の闇」が描かれ、芥川が不条理を描き出したのは『藪の中』と述べられます。
非常に難解で、こちらは未だ消化しきれていませんが、「羅生門」は、認識の向こう側(「他者」としての〈第三項〉)が存在しない、果てしなく自己化された観念の世界(認識の世界)を描いたものと理解しました。この閉ざされた下人の認識の世界、さらにそれを批評し抱え込む〈語り手〉の認識の世界、これと読者がどう向き合うか、それがこの作品の読みのスタート地点になるのだと思いました。
『城の崎にて』においても、〈語り手〉の「自分」をメタレベルから捉える〈機能としての語り手〉が存在すること。〈語り手〉の「自分」は、「自分」が見、感じ、考えることをひたすら語るわけですが、〈機能としての語り手〉はそこに、「自分」を超えて存在するもの=不条理(生と死、妻を殺す「范」と范に殺される「妻」、「自分」と動物たちがそれぞれ等価という世界)を描くのであり、それはあまりにも残酷でありながら愛おしく尊い世界として描かれるのだと思いました。
昨日、全国大学国語教育学会のラウンドテーブルに参加、『舞姫』の〈語り〉の〈仕組み〉の話をしました。楽しい会でした。別の会場で同時刻に広島大学大学院博士課程の渡邉君も『舞姫』の「第三項という方略―小説『舞姫』の読みを通して―」をやっていて、そのレジュメを見て、〈語り〉の構造がよくわかているな、すごいなと驚嘆しました。
ところで、古守さんの問題、『羅生門』において、「作者」を自称する〈語り手〉は認識することが認識の闇に陥る逆説をもたらすと自覚し、これが「下人の行方は誰も知らない」という定稿の末尾になる理路はよく分かりますよね。
何故そうなるのか、と言えば、作中の「作者」の認識とは客体のそのものは捉えられない、認識する主体に応じて客体の対象が変容する、従って、変容して現象する出来事しか人は捉えられない、この認識のメカニズムが「作者」にはよく見えているから、「下人の行方は誰も知らない」の「誰も」にアクセントを置いて、つまり自分自身も「知らない」と『羅生門』の定稿を終えています。
「作者」は認識が認識の闇を引き出すパラドックスであることがよく分かっていました。外界は自身のまなざしに応じてしか現れないという世界の在り方が見えていたのですね。そこで定稿のあの末尾が完成しました。因みに芥川は『羅生門』の定稿を完成する前にすでに『地獄変』を書き上げています。この時期、芥川は世界のあり様が〈第三項〉理論の示すものののとば口にまでは達していたのです。しかし、客体そのもの-=〈第三項〉に対峙して、流血の対決がし、志賀直哉のような〈自己倒壊〉は無理、自身が自身を囲い込む境界線を引けたら自殺せずに済みました。無念です。
認識の闇を顕わにするのは条理の世界、これを超えてね不条理に達するには認識する主体それ自体の解体、〈自己倒壊〉が必要でした。漱石・鷗外・志賀等にできていたのは、芥川には適いませんでした。
『城の崎にて』の〈語り〉の現在は山手線の事故からもう三年以上経って脊椎カリエスで致命傷になったりする憂いのない身体になって冒頭から語り始めています。だから、〈機能としての語り手〉は必要はありません。これは丸山さんのコメントに対して、このブログで書いていますよ。
もう一度、ご覧ください。
『羅生門』は「認識の闇」を認識の問題として語っているが、それを克服する表現ができなかったんですね。ここが私の中に一番響いたんです。
更にその理由をもう少し確認させていただきたいと思います。
それは、〈語り手〉が自ら捉えたものを相対化してはいるが、対象人物の老婆の内なる遠近法が描き切れていないためでしょうか。
この質問と関係したもう一つの質問があります。
先生のブログでは、「「カルネアデスの板」のような殺すか、殺されるかの命に係わる決定的な出来事への飛躍に向き合うのでなく、『羅生門』はスタティック、死肉を啄む鴉の世界の延長、死者の髪の毛を抜く行為を問題化し、『范の犯罪』の如き、「カルネアデスの板」との相克は起こりません。」と書かれています。
『羅生門』においては、もし、老婆の内なる遠近法が描き切ることができたならば、老婆の置かれた状況がスタティックな世界であっても、多次元世界が現れてくるのではないでしょうか。
教えていただければと思います。よろしくお願い致します。