*弥勒菩薩論【B】 (シュタイナーと出口王仁三郎の一致-[Ⅱ])
2012/11/20精神世界ランキング 新規登録・192~位台?
(弥勒菩薩論【A】のつづき) (1911年9月21日 ミラノでの講義)
*・・・「徳」の発展は地球の進化の衝動とは少し異なります。
ゴルゴダの秘蹟が生ずる前、仏陀の後を継ぐ一人の菩薩が地上に受肉し、ゴルゴダの秘蹟の準備をしました。
ナザレのイエスの生まれる一世紀前に、この菩薩はパンディラのイエス(神智学では、エッセネ派教団を霊的に指導する使命をもっていたとされる人物)の中に受肉しました。
仏陀の後を継ぐ菩薩であるパンディラのイエスと、キリストと呼ばれる宇宙存在に三年間貫かれたナザレのイエスとは、別の存在です【6】。
■コメント:
■【6】仏陀の後を継ぐ菩薩であるパンディラのイエスについて
◇ シュタイナーは、インドの古い伝説で、弥勒は、釈迦が浄飯王の子として地上に下る以前に、霊界で菩薩の王冠を手渡されたと述べています。
この時から弥勒は、弥勒菩薩として地上に下り、人類の進化に特別の任務を帯びるようになったというのです。
そして、ナザレのイエスの100年前に、タルムード文献に登場するパンディラの子、イエス(イエス・ベン・パンディラ)として、エネッセ派教団を指導し、テラペウス教団とエッセネ派の動きを霊的に指導する任務に着手したといいます。
このパンディラのイエスは、エッセネ派の教義の中に神の冒涜を見た者たちによって、涜神者、異端者として告訴され、石で撃ち殺されて着に吊るされ、処刑された上に汚辱を加えられたとされています。
◇ さて、出口王仁三郎は、大本教において五六七殿(みろくでん)で布教活動をしますが、第一次大本事件での弾圧され、蒙古に渡って十字架に磔にされ、銃で処刑される寸前に救われ、第二次大本教事件で二度目の弾圧を経験しています。
また、こうした弾圧の原因も、言論の自由が侵されていた当時の軍国主義に対立したとして、不敬罪に問われたためなのです。
また、王仁三郎は、釈迦は一切を無として神の存在を説かず、イエスは父と子と精霊を説いたため母の要素が欠落しており、どちらも不完全極まりない教理であったと述べています。
◇ 弥勒が菩薩という使命を受けて後の、パンディラのイエスとしての人生は、出口王仁三郎の弥勒菩薩の型と、非常に類似しています。
さらに、神の真理を語ったがために、冒涜者としての扱いを受けた点も、非常に似ていると言って良いでしょう。
*パンディラのイエスの中に受肉した菩薩は何度も地上に出現します。
そして、今から三千年後に仏の位階に達し、弥勒仏として最後の地上での人生を送るのです【7】。・・(途中、省略)
■【7】今から三千年後に仏の位階に達し、弥勒仏として最後の地上での人生を送ることについて
◇ シュタイナーの言葉から、単純に弥勒菩薩が弥勒仏に至るのは、
紀元1911年 + 3000年後 = 紀元4911年頃になると推測されます。
つまり、弥勒菩薩が弥勒仏の位階に達するのは、第六文化期の中期から後期であり、第七文化期に、「道徳」に貫かれた地上天国としての「ミロクの世」が訪れると推測できます。
◇ 出口王仁三郎は、1928年がこの時であると語っていますが、弥勒菩薩の御魂が王仁三郎に神懸り、「弥勒仏の”型”を開始した年」であると解釈するべきです。
また、それ以前の大本教内での”型”は、さらに縮小された雛型とみることが妥当かもしれません。
◇ 以上の理由は、【D】の【20】を参照ただければ、十分に理解していただけると思います。
*・・今日の霊学の内容は、浄飯王(じょうぼんのう)の子である菩薩が仏陀となった時に説いた東洋の霊智とは変わることころはありません。
釈迦牟尼仏の説いた教えを実現するのは次に仏陀になる菩薩の仕事だと言われています。
この菩薩は全世界に、真のキリストを啓示する光の智を伝えることになります。パンディラのイエスに受肉した菩薩はキリスト衝動の偉大な師となりました。
このことは、菩薩ヨサファットがいかにキリスト教の師バルラームから教えを受けていたかを伝えている。『バルラームとヨサファット物語』明瞭に示しています。
将来、弥勒仏となるこの菩薩を、東洋の神秘学者は「善をもたらす者」と呼んでいます。
今日の人間にはその概念を持つことができない程の高次の段階の言葉の力が弥勒仏の中に存在することになる、と神秘学は考えています【8】。
■【8】高次の段階の言葉の力を持つ弥勒菩薩について
◇ シュタイナー自身、母音と子音の解釈を西洋的に説明しており、アイウエオの母音を木星・火星・土星・水星・金星に関連させ、母音を霊的なものとし、子音を物質的なものだとしています。
さらに、魂は母音によって表現され、霊的な高次元世界に移行すると、子音は消え、母音だけで歌われる宇宙の歌が聴こえるのだといいます。
シュタイナーは、こうした叡智を舞踊芸術オイリュトミーとして芸術・教育・治療に役立てました。
◇ 出口王仁三郎は、山口志道の言霊学を「体としての大本言霊学」、中村孝道の言霊学を「用として大日本言霊学」と位置付け、この双方を統合した言霊学の偉人です。
大本の本部、綾部の金龍海には、言霊の五大父音を象徴する五つの島が造られ、その湖面には言霊の水茎文字が現われるとしたといいます。
大正八年(1919年)には、その湖畔に言霊閣を建立し、七十五声を象徴する言霊の鈴と天津金木が鎮斎したといいます。
その他にも王仁三郎の言霊に関する逸話は実に多いのですが、それは言霊によって神を示し、信仰を広めたと表現しても過言ではない程、言霊学に根ざしていたのです。
また、その王仁三郎自身も、一霊四魂を代表する音声は、アオウエイの五大父音である。宇宙の根本の造化作用は、要するに至祖神の一霊四魂の運用の結果なのである・・・。」と述べています。
◇ 出口王仁三郎の言霊学を学んでゆくと、その複雑さと共に、王仁三郎の言霊の力をすることができるはずです。
母音を霊的なものとするシュタイナーが語る弥勒菩薩の特長を、王仁三郎が存分に発揮していたことは明らかです。
*高度の霊的感覚器官によって世界の進化を知覚することによって、三千年後に弥勒仏が説く教えを知ることができます。
その説法は、象徴的な形で語られますが、人類はまだ十分に成熟していないので、弥勒仏が語るような言葉を語ることはまだできません。
仏陀は、正しい意見、正しい判断、正しい言葉、正しい行為、正しい見地、正しい努力、正しい記憶、正しい確認の八正道という形で、偉大な智を与えています。
弥勒仏の語る言葉には霊力があり、それを聞いた人の中に「道徳」的衝動が喚起されます。
聖ヨハネがキリストについて「そして言葉は肉となった」と書いたのに対して、弥勒仏の福音は「そして肉は言葉となった」と記されるでしょう【9】。
■【9】弥勒仏の福音は「そして肉は言葉となった」と記されることについて
◇ シュタイナーは、弥勒菩薩ではなく、3000年後に弥勒仏と存在の福音について述べているのでこの言葉の真意は、その時が来るまでは解らないのかもしれません。
◇ 出口王仁三郎は、大本の言霊学で「新約聖書のヨハネ伝首章には、言霊の秘事を漏しあり。」
として、「(要約すれば)宇宙万有の主宰の全大主神は、言霊を以って天地を創造し、経綸を創めたことから、万民の安堵せしめる神国を招来するためには、軍事や教育、政治、宗教では絶対に不可能であり、天津神の八咫の鏡、すなわち言霊の妙用に他ならないのである。」と述べています。
◇ 以上の王仁三郎の言葉は「言葉は肉となった」という解釈とは異なるものの、肉体を持った人間が善言美詞を常とすることによって、万民が安堵できる神の国(ミロクの世)を招来するために必要不可欠であることが解ります。
それは、ある意味では、霊的次元への上昇であり、肉が言葉になることではないでしょうか?
* 弥勒仏の説法は、キリストの力が浸透したものです。
弥勒仏の生涯はキリストの生涯と同じ型をとるであろう、ということが霊的な探求の結果から明らかにされています【10】。
■【10】弥勒仏の生涯はキリストの生涯と同じ型をとることについて
◇ この内容は、上記【6】のパンディラのイエスを参照していただければ、いっそう深い理解が得られると思います。
◇ 大本では、1921年2月12日に第一次大本事件が起り、1924年2月に蒙古に向かい、1927年5月17日に第一次大本事件が免罪となっています。
王仁三郎はこれを『ミロクミロク』と題して、「大本事件初まって満三年にして蒙古に行き、又満三年を経て無罪となる、前後七十二ヶ月、即ち三十六ヶ月と三十六ヶ月、ミロク、ミロクである。」と語っています。
さらに、王仁三郎は蒙古に行き、そこで十字架に縛り付けられ、キリストの『型』を示します。そして、九死に一生を得て帰国するのです。
◇ つまり、これは、シュタイナーの語る「キリストの型をする弥勒仏」の見解と、「蒙古で十字架に架けられることを『型』として示した」という出口王仁三郎の見解という、双方の主張する弥勒仏の姿と、その『型』が見事に一致してるのです。
*古代に於いて、人類の師となるべき偉大な人物が世に現われると、その人物は若い頃から特別の才能と魂の資質を現したものでした。
とはいえ、人生のある時期に至って、人格を一変させるような導師も存在します。
そのような人類の導師の自我は、人生のある時期に肉体の外皮から去り、別の存在の自我がその肉体に入るのです。イエスはこのような導師の典型です。
イエスが三十歳の時、彼の自我は肉体から離れ去り、代わって、キリスト存がイエスの内部を占領しました。
弥勒菩薩はどの転生に於いても、この型の生涯を送ることになります【11】。
■【11】弥勒菩薩はどの転生に於いても「三十歳頃に別の自我が入る」型の生涯を送ることについて
◇ 出口王仁三郎は、京都府亀岡市の穴太の農家に生まれ、13歳で小学校を中退し代用教員となり、22歳で園部の牧場で働き、25歳の時穴太で精乳館を開業します。
そして、27歳の時に高熊山に導かれ、一週間の修行をし、その後に床縛りなどで霊界の全貌を知悉すると共に、自己の使命を自覚するようになってゆきます。
28歳で初めて綾部の出口直を訪問し、29歳の時に再び綾部に行き、30歳で出口直の末娘である出口澄と結婚します。この頃、王仁三郎にはスサノオの使命を担うようなります。
そして、長らく誤解と非難を経て、15年後の45歳になってはじめて王仁三郎がミロクの大神様であることが、大本で認められることになります。
◇ 王仁三郎は、27から28歳の頃、極めて深い霊的体験を繰り返し、30歳前後からスサノオノ尊という(シュタイナー云う)「別の存在の自我」が肉体に入り、その『型
(弥勒菩薩論【C】につづく)
(1911年9月21日 ミラノでの講義)
【『仏陀からキリストへ』ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 書肆風の薔薇 P96弥勒菩薩】より
2012/11/20精神世界ランキング 新規登録・192~位台?
(弥勒菩薩論【A】のつづき) (1911年9月21日 ミラノでの講義)
*・・・「徳」の発展は地球の進化の衝動とは少し異なります。
ゴルゴダの秘蹟が生ずる前、仏陀の後を継ぐ一人の菩薩が地上に受肉し、ゴルゴダの秘蹟の準備をしました。
ナザレのイエスの生まれる一世紀前に、この菩薩はパンディラのイエス(神智学では、エッセネ派教団を霊的に指導する使命をもっていたとされる人物)の中に受肉しました。
仏陀の後を継ぐ菩薩であるパンディラのイエスと、キリストと呼ばれる宇宙存在に三年間貫かれたナザレのイエスとは、別の存在です【6】。
■コメント:
■【6】仏陀の後を継ぐ菩薩であるパンディラのイエスについて
◇ シュタイナーは、インドの古い伝説で、弥勒は、釈迦が浄飯王の子として地上に下る以前に、霊界で菩薩の王冠を手渡されたと述べています。
この時から弥勒は、弥勒菩薩として地上に下り、人類の進化に特別の任務を帯びるようになったというのです。
そして、ナザレのイエスの100年前に、タルムード文献に登場するパンディラの子、イエス(イエス・ベン・パンディラ)として、エネッセ派教団を指導し、テラペウス教団とエッセネ派の動きを霊的に指導する任務に着手したといいます。
このパンディラのイエスは、エッセネ派の教義の中に神の冒涜を見た者たちによって、涜神者、異端者として告訴され、石で撃ち殺されて着に吊るされ、処刑された上に汚辱を加えられたとされています。
◇ さて、出口王仁三郎は、大本教において五六七殿(みろくでん)で布教活動をしますが、第一次大本事件での弾圧され、蒙古に渡って十字架に磔にされ、銃で処刑される寸前に救われ、第二次大本教事件で二度目の弾圧を経験しています。
また、こうした弾圧の原因も、言論の自由が侵されていた当時の軍国主義に対立したとして、不敬罪に問われたためなのです。
また、王仁三郎は、釈迦は一切を無として神の存在を説かず、イエスは父と子と精霊を説いたため母の要素が欠落しており、どちらも不完全極まりない教理であったと述べています。
◇ 弥勒が菩薩という使命を受けて後の、パンディラのイエスとしての人生は、出口王仁三郎の弥勒菩薩の型と、非常に類似しています。
さらに、神の真理を語ったがために、冒涜者としての扱いを受けた点も、非常に似ていると言って良いでしょう。
*パンディラのイエスの中に受肉した菩薩は何度も地上に出現します。
そして、今から三千年後に仏の位階に達し、弥勒仏として最後の地上での人生を送るのです【7】。・・(途中、省略)
■【7】今から三千年後に仏の位階に達し、弥勒仏として最後の地上での人生を送ることについて
◇ シュタイナーの言葉から、単純に弥勒菩薩が弥勒仏に至るのは、
紀元1911年 + 3000年後 = 紀元4911年頃になると推測されます。
つまり、弥勒菩薩が弥勒仏の位階に達するのは、第六文化期の中期から後期であり、第七文化期に、「道徳」に貫かれた地上天国としての「ミロクの世」が訪れると推測できます。
◇ 出口王仁三郎は、1928年がこの時であると語っていますが、弥勒菩薩の御魂が王仁三郎に神懸り、「弥勒仏の”型”を開始した年」であると解釈するべきです。
また、それ以前の大本教内での”型”は、さらに縮小された雛型とみることが妥当かもしれません。
◇ 以上の理由は、【D】の【20】を参照ただければ、十分に理解していただけると思います。
*・・今日の霊学の内容は、浄飯王(じょうぼんのう)の子である菩薩が仏陀となった時に説いた東洋の霊智とは変わることころはありません。
釈迦牟尼仏の説いた教えを実現するのは次に仏陀になる菩薩の仕事だと言われています。
この菩薩は全世界に、真のキリストを啓示する光の智を伝えることになります。パンディラのイエスに受肉した菩薩はキリスト衝動の偉大な師となりました。
このことは、菩薩ヨサファットがいかにキリスト教の師バルラームから教えを受けていたかを伝えている。『バルラームとヨサファット物語』明瞭に示しています。
将来、弥勒仏となるこの菩薩を、東洋の神秘学者は「善をもたらす者」と呼んでいます。
今日の人間にはその概念を持つことができない程の高次の段階の言葉の力が弥勒仏の中に存在することになる、と神秘学は考えています【8】。
■【8】高次の段階の言葉の力を持つ弥勒菩薩について
◇ シュタイナー自身、母音と子音の解釈を西洋的に説明しており、アイウエオの母音を木星・火星・土星・水星・金星に関連させ、母音を霊的なものとし、子音を物質的なものだとしています。
さらに、魂は母音によって表現され、霊的な高次元世界に移行すると、子音は消え、母音だけで歌われる宇宙の歌が聴こえるのだといいます。
シュタイナーは、こうした叡智を舞踊芸術オイリュトミーとして芸術・教育・治療に役立てました。
◇ 出口王仁三郎は、山口志道の言霊学を「体としての大本言霊学」、中村孝道の言霊学を「用として大日本言霊学」と位置付け、この双方を統合した言霊学の偉人です。
大本の本部、綾部の金龍海には、言霊の五大父音を象徴する五つの島が造られ、その湖面には言霊の水茎文字が現われるとしたといいます。
大正八年(1919年)には、その湖畔に言霊閣を建立し、七十五声を象徴する言霊の鈴と天津金木が鎮斎したといいます。
その他にも王仁三郎の言霊に関する逸話は実に多いのですが、それは言霊によって神を示し、信仰を広めたと表現しても過言ではない程、言霊学に根ざしていたのです。
また、その王仁三郎自身も、一霊四魂を代表する音声は、アオウエイの五大父音である。宇宙の根本の造化作用は、要するに至祖神の一霊四魂の運用の結果なのである・・・。」と述べています。
◇ 出口王仁三郎の言霊学を学んでゆくと、その複雑さと共に、王仁三郎の言霊の力をすることができるはずです。
母音を霊的なものとするシュタイナーが語る弥勒菩薩の特長を、王仁三郎が存分に発揮していたことは明らかです。
*高度の霊的感覚器官によって世界の進化を知覚することによって、三千年後に弥勒仏が説く教えを知ることができます。
その説法は、象徴的な形で語られますが、人類はまだ十分に成熟していないので、弥勒仏が語るような言葉を語ることはまだできません。
仏陀は、正しい意見、正しい判断、正しい言葉、正しい行為、正しい見地、正しい努力、正しい記憶、正しい確認の八正道という形で、偉大な智を与えています。
弥勒仏の語る言葉には霊力があり、それを聞いた人の中に「道徳」的衝動が喚起されます。
聖ヨハネがキリストについて「そして言葉は肉となった」と書いたのに対して、弥勒仏の福音は「そして肉は言葉となった」と記されるでしょう【9】。
■【9】弥勒仏の福音は「そして肉は言葉となった」と記されることについて
◇ シュタイナーは、弥勒菩薩ではなく、3000年後に弥勒仏と存在の福音について述べているのでこの言葉の真意は、その時が来るまでは解らないのかもしれません。
◇ 出口王仁三郎は、大本の言霊学で「新約聖書のヨハネ伝首章には、言霊の秘事を漏しあり。」
として、「(要約すれば)宇宙万有の主宰の全大主神は、言霊を以って天地を創造し、経綸を創めたことから、万民の安堵せしめる神国を招来するためには、軍事や教育、政治、宗教では絶対に不可能であり、天津神の八咫の鏡、すなわち言霊の妙用に他ならないのである。」と述べています。
◇ 以上の王仁三郎の言葉は「言葉は肉となった」という解釈とは異なるものの、肉体を持った人間が善言美詞を常とすることによって、万民が安堵できる神の国(ミロクの世)を招来するために必要不可欠であることが解ります。
それは、ある意味では、霊的次元への上昇であり、肉が言葉になることではないでしょうか?
* 弥勒仏の説法は、キリストの力が浸透したものです。
弥勒仏の生涯はキリストの生涯と同じ型をとるであろう、ということが霊的な探求の結果から明らかにされています【10】。
■【10】弥勒仏の生涯はキリストの生涯と同じ型をとることについて
◇ この内容は、上記【6】のパンディラのイエスを参照していただければ、いっそう深い理解が得られると思います。
◇ 大本では、1921年2月12日に第一次大本事件が起り、1924年2月に蒙古に向かい、1927年5月17日に第一次大本事件が免罪となっています。
王仁三郎はこれを『ミロクミロク』と題して、「大本事件初まって満三年にして蒙古に行き、又満三年を経て無罪となる、前後七十二ヶ月、即ち三十六ヶ月と三十六ヶ月、ミロク、ミロクである。」と語っています。
さらに、王仁三郎は蒙古に行き、そこで十字架に縛り付けられ、キリストの『型』を示します。そして、九死に一生を得て帰国するのです。
◇ つまり、これは、シュタイナーの語る「キリストの型をする弥勒仏」の見解と、「蒙古で十字架に架けられることを『型』として示した」という出口王仁三郎の見解という、双方の主張する弥勒仏の姿と、その『型』が見事に一致してるのです。
*古代に於いて、人類の師となるべき偉大な人物が世に現われると、その人物は若い頃から特別の才能と魂の資質を現したものでした。
とはいえ、人生のある時期に至って、人格を一変させるような導師も存在します。
そのような人類の導師の自我は、人生のある時期に肉体の外皮から去り、別の存在の自我がその肉体に入るのです。イエスはこのような導師の典型です。
イエスが三十歳の時、彼の自我は肉体から離れ去り、代わって、キリスト存がイエスの内部を占領しました。
弥勒菩薩はどの転生に於いても、この型の生涯を送ることになります【11】。
■【11】弥勒菩薩はどの転生に於いても「三十歳頃に別の自我が入る」型の生涯を送ることについて
◇ 出口王仁三郎は、京都府亀岡市の穴太の農家に生まれ、13歳で小学校を中退し代用教員となり、22歳で園部の牧場で働き、25歳の時穴太で精乳館を開業します。
そして、27歳の時に高熊山に導かれ、一週間の修行をし、その後に床縛りなどで霊界の全貌を知悉すると共に、自己の使命を自覚するようになってゆきます。
28歳で初めて綾部の出口直を訪問し、29歳の時に再び綾部に行き、30歳で出口直の末娘である出口澄と結婚します。この頃、王仁三郎にはスサノオの使命を担うようなります。
そして、長らく誤解と非難を経て、15年後の45歳になってはじめて王仁三郎がミロクの大神様であることが、大本で認められることになります。
◇ 王仁三郎は、27から28歳の頃、極めて深い霊的体験を繰り返し、30歳前後からスサノオノ尊という(シュタイナー云う)「別の存在の自我」が肉体に入り、その『型
(弥勒菩薩論【C】につづく)
(1911年9月21日 ミラノでの講義)
【『仏陀からキリストへ』ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 書肆風の薔薇 P96弥勒菩薩】より
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