真の徳を備えた人の在り様はひたすらに「道」に従うばかりである
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私の大和ごころを志しての旅は「ミロク文明」ミロクの世を地の上に現す方向性。
・老子「道徳経と伊勢白山道」 道経
第二十一章 *老子を英訳 http://mage8.com/magetan/roushi03.html
・原文 「書き下し文
孔徳之容、唯道是從。「 孔徳(こうとく)の容(よう)は、ただ道にこれ従う
道之爲物、惟恍惟惚「 道の物たる、これ恍(こう)これ惚(こつ)。
恍兮惚兮、其中有物。「 恍たり惚たり、その中に物有り。
恍兮惚兮、其中有像。「恍たり惚たり、その中に像有り。
窈兮冥兮、其中有精。「窈(よう)たり冥(めい)たり、その中に精有り。
其精甚眞、其中有信。「その精甚(はなは)だ真、その中に信有り。
自今及古、其名不去。「 今より古えに及ぶまで、その名は去らず。
以閲衆甫。「以(も)って衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何以知衆甫之然哉、以此。「吾れ何を以って衆甫の然(しか)るを知るや、これを以ってなり。
現代語訳
真の徳を備えた人の在り様はひたすらに「道」に従うばかりである。
「道」というものは、ひたすらにぼんやりとして捉えどころが無い。
ぼんやりとして捉えどころが無いのだが、確かに何かが存在している。
ぼんやりとして捉えどころが無いのだが、確かに何かが見えるのだ。
奥深くてほの暗くて、その中に何か精気が存在する。
その精気はひたすらに純粋で、その純粋さは最も確かなものである。
はるか大昔から今に至るまで、その「道」は存在し万物の始原である。
何故私が「道」が万物の始原であるか解るかと言えば、以上の様な理由からである。
英訳文
A person who has true virtues just follows "the way". "The way" is vague and obscure. It is vague and obscure, but it surely exists. It is vague and obscure, but I can see its form. It is deep and dark, and there is a spirit. The spirit is absolutely genuine, and it is sure existence. From ancient times to the present day, "the way" exists and produces all things. Why can I understand this? From the above facts.
*物事の「流れ」を見ることが大切 2012-10-11 伊勢ー白山道 記事全文 https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20121011
老子の言葉 第二十一章
(独自の超訳)
真に徳を備えた人の生活とは、ひたすらに「道」(自然な流れ。生活の中の真理)に従うだけです。
生活の中の自然な流れとは、ただぼんやりとして目には見えません。
ただ、ぼんやりとして目に見えなくても、「生活の流れ」の中には何かが存在しています。
ぼんやりとして目に見えなくても、「生活の流れ」の中には確かに形があるのです。
それは奥深くて見えないモノなのですが、精気を宿しています。
その精気が存在することは本当に真実であり、それは本当に信頼できるモノなのです。
その精気は、はるか太古から今に至るまで実在しています。
この精気の御蔭により、すべての社会は生まれ、そしてまとまっているのです。
どうして社会が精気の御蔭で成り立っているのかを私が知っているのかと言いますと、
流れ(道)を観察しているから分かるのです。
原文
「孔徳之容、唯道是從。道之爲物、惟恍惟惚。恍兮惚兮、其中有物。
恍兮惚兮、其中有像。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。
自今及古、其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉、以此。」
(感想)
この章では、老子が非常に重要なことを説明しています。
よく言われますのが、「神様と言うものは本当に存在するのか?それは目に見えるのか?」
これは古来から社会で問われていることであり、今でも同じです。
すると老子は、古来から継続する社会を見なさい。歴史を調べなさい。
ほんとうに謙虚な視線で、白紙の気持ちで、その流れを見なさい。
そうしますと、その「流れ」の中に
「何事がおわしますかは分からないが」、大いなる意志=精気が実在すると考えるほうが科学的だと言っているのです。
数学的にも偶然が「継続する」確率を考えますと、見えない精気=意志が実在すると考えるほうが賢明なのです。
これは私たちの人生や生活におきましても、その「流れ」を見ることが重要なのです。
もし自分が迷った時は、
(1)自分が出来る努力をしながら、
(2)過去から今までの、その流れを見てみること。
(3)今の流れを静観して見ること。
このようにしますと、知恵や何かが見え出すのです。
もし自分が、流れの中に没入して居ますと、何も見えずに不安なまま慌ててしまいます。
このような大きな視点で流れを見る習慣を自分が身に付けるだけでも、その人の人生は改善します。
物事の真実というものは、その中に入ってしまいますと、逆に見えなく成ってしまうことが多いのです。
もし外部から全体を見ることが出来ますと、進むべき方向が分かります。
だから親の言うことには、一理は有るのです。
子供は物事の最中である限りは、自分自身のことが見えなくて分からないことが多いのです。
会社でも中に入ってしまいますと、自社の冷静な評価をすることが出来ません。他社を知らないからです。
自分の霊体(魂)も肉体の中に居る間は、その姿を見たり自覚することが出来ません。
さらに逆に言えば、
自分の心に居る大いなる存在(精気。内在神)に気付くためには、人生での苦労や悩み、相反する自我(ワレヨシ)も必要なのです。
大いなる存在=精気=内在神の中に居る間は、その有り難さに気付けないので、私たちは時間限定でコノ世に生まれ出た意味も有るのです。
そして心が成長して、また母なる大いなる精気の中に戻って行くのです。
全員が同じ大いなる、たった1つの「精気の中」に戻って行くのですが、今生での自分の気持ちによって、戻る部屋が多少違うだけです。
大いなる精気の母の中に、全員が戻るのは間違いはありません。
流れを観察しながら、思いっ切り精一杯に生きて見ましょう。
誰もが時間限定ですから、何も問題はありません。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
*神様は、行為・行動に宿り住みます 2017-11-08 老子の人生論
伊勢ー白山道 記事全文https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20171108
参考記事:老子の言葉 第二十一章「物事の「流れ」を見ることが大切」
「 老子の人生論」第二十一章
善徳の形とは、何だろうか?
何をすれば、善徳だと思いますか?
それはただ、自分の良心と善意に従って、道(人生)を歩いて行けば、善徳に成るのです。
でも、善意の道と言われましても、何をもって善意とするのか?
誰にも、よく分からないものです。ぼんやりとしていて、決まりが無いのが善意の道です。
しかし、善意の道は、確かに社会の中に在るのです。
社会は、目に見えない無数の善意によって成り立っています。
それはまるで、善意の精気という生き物が、見えない善意の形として存在するかのようです。
社会の中に、交換条件の無い与える一方の純粋さを持つ善意が確かに存在するのです。
この善意の生き物の善徳の御蔭で、はるか太古から人間の社会は生かされています。
どうして私がこのようなことが分かるのか?
それは以上のような善意の形が、善徳の道となって社会に続いていることが見えるからです。
(感想)
狭い道路が使用出来るのも、誰かが早朝に掃除をしているからかも知れません。
多くの人々が暮らす社会には、誰かの与える一方の善意からの「見えない」行為が隠れているものです。
老子は、
・ これが「善意の形」であり、
・ これが継続すれば、「善徳の道」に成る。
これを多くの人々が社会で繰り返せば、
・ 善意の精気という生き物に成る。
そして大昔から、この善意の精気により、人々は社会で生かされている。
このように老子は指摘しています。
善意からの見えない行為は、家庭内でも、会社でも学校でも在ります。
この行為(善行)こそが、人間を育て、人を生かす、と言えます。
この項での重要な指摘は、
* 多くの人々が社会で、無意識に善行を繰り返せば、善意の精気という生き物に成る。
多くの人々が繰り返す行為は、エネルギーを持ち、蓄積し、生き物に変わると示唆しています。
これは霊的に有ることであり、信仰にパワーが生まれる、「見えない力」を持ち始める事実と合致します。
どんなことでも、駆け引きの無い、無償の、善意からの行為には精霊(神様)が「行為に宿る」ということを知って置いてください。
建物や神棚に神様が居るのではありません。
行為に、神様は宿り住むものなのです。
榊の水を交換する行為に、人が感謝をする行為に、神様は住むのです。
行為に、どうして神様は住むことが可能なのか?
でも、これは事実であり、時間が無い世界に住む神様を表現するのに最適な言語表現です。
この項の内容こそは、「善意の精気」とは、まさに「行為に宿る神様」のことだと説明していると言えます。
私達も、自分の生活行為こそが、最大に大事だと言うことです。
自分の生活行為に、「神様が宿る」ということが真相なのです。
今日から改めて、自分なりの善意からの行為を継続して行けば、誰でも内在する神様が発露をし始めることでしょう。
すると、どんな環境の中でも、嬉し楽しと生き生きと生きる精気が宿り始めます。
生かして頂いて 有り難う御座います
・老子の人生論 伊勢ー白山道 記事一覧
*伊勢白山道 老子の言葉 記事一覧
*「柔訳 老子の言葉」が完成しました 2013-04-03 伊勢白山道
*伊勢白ペディア「老子(言葉)について」収録内容 記事一覧
*「老子の言葉 写真集 上・下巻」 2013-11-22 伊勢白山道
*老子「道徳経と伊勢白山道」道経「 1章~37章」記事一覧
*老子「道徳経と伊勢白山道」徳経「81章~38章」記事一覧
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孔徳之容、唯道是從。「 孔徳(こうとく)の容(よう)は、ただ道にこれ従う
道之爲物、惟恍惟惚「 道の物たる、これ恍(こう)これ惚(こつ)。
恍兮惚兮、其中有物。「 恍たり惚たり、その中に物有り。
恍兮惚兮、其中有像。「恍たり惚たり、その中に像有り。
窈兮冥兮、其中有精。「窈(よう)たり冥(めい)たり、その中に精有り。
其精甚眞、其中有信。「その精甚(はなは)だ真、その中に信有り。
自今及古、其名不去。「 今より古えに及ぶまで、その名は去らず。
以閲衆甫。「以(も)って衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何以知衆甫之然哉、以此。「吾れ何を以って衆甫の然(しか)るを知るや、これを以ってなり。
現代語訳
真の徳を備えた人の在り様はひたすらに「道」に従うばかりである。
「道」というものは、ひたすらにぼんやりとして捉えどころが無い。
ぼんやりとして捉えどころが無いのだが、確かに何かが存在している。
ぼんやりとして捉えどころが無いのだが、確かに何かが見えるのだ。
奥深くてほの暗くて、その中に何か精気が存在する。
その精気はひたすらに純粋で、その純粋さは最も確かなものである。
はるか大昔から今に至るまで、その「道」は存在し万物の始原である。
何故私が「道」が万物の始原であるか解るかと言えば、以上の様な理由からである。
英訳文
A person who has true virtues just follows "the way". "The way" is vague and obscure. It is vague and obscure, but it surely exists. It is vague and obscure, but I can see its form. It is deep and dark, and there is a spirit. The spirit is absolutely genuine, and it is sure existence. From ancient times to the present day, "the way" exists and produces all things. Why can I understand this? From the above facts.
*物事の「流れ」を見ることが大切 2012-10-11 伊勢ー白山道 記事全文 https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20121011
老子の言葉 第二十一章
(独自の超訳)
真に徳を備えた人の生活とは、ひたすらに「道」(自然な流れ。生活の中の真理)に従うだけです。
生活の中の自然な流れとは、ただぼんやりとして目には見えません。
ただ、ぼんやりとして目に見えなくても、「生活の流れ」の中には何かが存在しています。
ぼんやりとして目に見えなくても、「生活の流れ」の中には確かに形があるのです。
それは奥深くて見えないモノなのですが、精気を宿しています。
その精気が存在することは本当に真実であり、それは本当に信頼できるモノなのです。
その精気は、はるか太古から今に至るまで実在しています。
この精気の御蔭により、すべての社会は生まれ、そしてまとまっているのです。
どうして社会が精気の御蔭で成り立っているのかを私が知っているのかと言いますと、
流れ(道)を観察しているから分かるのです。
原文
「孔徳之容、唯道是從。道之爲物、惟恍惟惚。恍兮惚兮、其中有物。
恍兮惚兮、其中有像。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。
自今及古、其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉、以此。」
(感想)
この章では、老子が非常に重要なことを説明しています。
よく言われますのが、「神様と言うものは本当に存在するのか?それは目に見えるのか?」
これは古来から社会で問われていることであり、今でも同じです。
すると老子は、古来から継続する社会を見なさい。歴史を調べなさい。
ほんとうに謙虚な視線で、白紙の気持ちで、その流れを見なさい。
そうしますと、その「流れ」の中に
「何事がおわしますかは分からないが」、大いなる意志=精気が実在すると考えるほうが科学的だと言っているのです。
数学的にも偶然が「継続する」確率を考えますと、見えない精気=意志が実在すると考えるほうが賢明なのです。
これは私たちの人生や生活におきましても、その「流れ」を見ることが重要なのです。
もし自分が迷った時は、
(1)自分が出来る努力をしながら、
(2)過去から今までの、その流れを見てみること。
(3)今の流れを静観して見ること。
このようにしますと、知恵や何かが見え出すのです。
もし自分が、流れの中に没入して居ますと、何も見えずに不安なまま慌ててしまいます。
このような大きな視点で流れを見る習慣を自分が身に付けるだけでも、その人の人生は改善します。
物事の真実というものは、その中に入ってしまいますと、逆に見えなく成ってしまうことが多いのです。
もし外部から全体を見ることが出来ますと、進むべき方向が分かります。
だから親の言うことには、一理は有るのです。
子供は物事の最中である限りは、自分自身のことが見えなくて分からないことが多いのです。
会社でも中に入ってしまいますと、自社の冷静な評価をすることが出来ません。他社を知らないからです。
自分の霊体(魂)も肉体の中に居る間は、その姿を見たり自覚することが出来ません。
さらに逆に言えば、
自分の心に居る大いなる存在(精気。内在神)に気付くためには、人生での苦労や悩み、相反する自我(ワレヨシ)も必要なのです。
大いなる存在=精気=内在神の中に居る間は、その有り難さに気付けないので、私たちは時間限定でコノ世に生まれ出た意味も有るのです。
そして心が成長して、また母なる大いなる精気の中に戻って行くのです。
全員が同じ大いなる、たった1つの「精気の中」に戻って行くのですが、今生での自分の気持ちによって、戻る部屋が多少違うだけです。
大いなる精気の母の中に、全員が戻るのは間違いはありません。
流れを観察しながら、思いっ切り精一杯に生きて見ましょう。
誰もが時間限定ですから、何も問題はありません。
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*神様は、行為・行動に宿り住みます 2017-11-08 老子の人生論
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「 老子の人生論」第二十一章
善徳の形とは、何だろうか?
何をすれば、善徳だと思いますか?
それはただ、自分の良心と善意に従って、道(人生)を歩いて行けば、善徳に成るのです。
でも、善意の道と言われましても、何をもって善意とするのか?
誰にも、よく分からないものです。ぼんやりとしていて、決まりが無いのが善意の道です。
しかし、善意の道は、確かに社会の中に在るのです。
社会は、目に見えない無数の善意によって成り立っています。
それはまるで、善意の精気という生き物が、見えない善意の形として存在するかのようです。
社会の中に、交換条件の無い与える一方の純粋さを持つ善意が確かに存在するのです。
この善意の生き物の善徳の御蔭で、はるか太古から人間の社会は生かされています。
どうして私がこのようなことが分かるのか?
それは以上のような善意の形が、善徳の道となって社会に続いていることが見えるからです。
(感想)
狭い道路が使用出来るのも、誰かが早朝に掃除をしているからかも知れません。
多くの人々が暮らす社会には、誰かの与える一方の善意からの「見えない」行為が隠れているものです。
老子は、
・ これが「善意の形」であり、
・ これが継続すれば、「善徳の道」に成る。
これを多くの人々が社会で繰り返せば、
・ 善意の精気という生き物に成る。
そして大昔から、この善意の精気により、人々は社会で生かされている。
このように老子は指摘しています。
善意からの見えない行為は、家庭内でも、会社でも学校でも在ります。
この行為(善行)こそが、人間を育て、人を生かす、と言えます。
この項での重要な指摘は、
* 多くの人々が社会で、無意識に善行を繰り返せば、善意の精気という生き物に成る。
多くの人々が繰り返す行為は、エネルギーを持ち、蓄積し、生き物に変わると示唆しています。
これは霊的に有ることであり、信仰にパワーが生まれる、「見えない力」を持ち始める事実と合致します。
どんなことでも、駆け引きの無い、無償の、善意からの行為には精霊(神様)が「行為に宿る」ということを知って置いてください。
建物や神棚に神様が居るのではありません。
行為に、神様は宿り住むものなのです。
榊の水を交換する行為に、人が感謝をする行為に、神様は住むのです。
行為に、どうして神様は住むことが可能なのか?
でも、これは事実であり、時間が無い世界に住む神様を表現するのに最適な言語表現です。
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私達も、自分の生活行為こそが、最大に大事だと言うことです。
自分の生活行為に、「神様が宿る」ということが真相なのです。
今日から改めて、自分なりの善意からの行為を継続して行けば、誰でも内在する神様が発露をし始めることでしょう。
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