きものの華・友禅染③ 宮崎友禅斎(2)
「白繻子の袷に秋の野を狩野雪信に描かせ、この絵に因んだ古歌を公卿衆八人に寄書きしてもらって」と西鶴の好色一代男にあるように、画家に直接きものに柄を描くことは贅沢とはいえ、すでに当時広まっていたようです。そして天和3年(1683年)の奢侈禁止令によって金銀箔で刺繍を施した「金紗」「刺繍」「総鹿の子」の三品が禁じられましたが、美しいきものが欲しいという女性たちや作り手、売り手の思いがあって、さまざまな試行錯誤の末に「友禅染」が誕生しました。井原西鶴は「扇面絵師の友禅に、ある呉服屋が小袖模様の図案を依頼したことから、友禅は着物の図案に手を染めるようになった」と書いていますが、いままでは宮崎友禅斎が「友禅染の技法を開発した創始者」と伝えられていましたが、扇絵師という職業柄、顔料に親しんでいた友禅斎が染め方もアドバイスした可能性はありますが、最近の研究では宮崎友禅斎は革新的な意匠デザイナー、という説が一般的です。
*最新説は武蔵大学教授・丸山伸彦氏の著作「江戸モードの誕生」(角川選書)に詳しいので一読をお勧めします。
扇面絵師として花鳥画や源氏物語の名場面を鮮やかに書いた扇絵が通人に受け、名声を博した友禅斎に注目して図案を依頼し、友禅斎は扇絵の手法を応用した小袖模様をデザインしたようです。最初に描いた小袖模様は、竹や梅、四季の草花を丸の中に描いた丸模様で、丸模様は古典で友禅斎の創作ではありませんが、衣装に大胆に取り入れたデザインは、革新的で、古典の雅さと伸びやかで華やかな絵画的なデザインは大評判となり、アッという間に一世を風靡しました。