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私の話も、あなたの話も

11月は私の人生①

2006-11-03 19:43:29 | 花日記 
11月になりました。私には特別な月です。
妹がなくなった月でもあり、彼女の結婚記念日でもあります。

妹は小さい頃から息が止まるほどの喘息で
幼稚園も学校も半分くらいしか行けない子でした。
もともとは元気で、負けず嫌いで、誰からも
かわいがられていました。

その妹が体のことで反対する私たちにはじめて
逆らうように結婚したのは11月。
懸命に頑張って、頑張りすぎて空回りし始め
やがて彼との関係が難しくなって行きました。

彼が別居し、家を出てからです。
妹が20才からしていた過食を人知れずはじめていたのは。
結婚によって封印されていた物でした。
はじめて自分が好きになった相手が私を好きになって
くれた。それが彼だった。
いつか必ず戻ってきてくれるとどこかで信じていた。
そう言っていました。

小さい頃から思い通りにならない体とたくさんの能力や
強い意志をもてあまして、無為に時間を過ごす事が
多かった妹。布団の中でも横になれずに座椅子で身体を
起して寝ることが習慣になっていました。

気がつけば心はどんどん内側へ向かっていました。
隠すのがうまかった妹がついに摂食障害を隠す事ができ
ないほどに体重を落としたとき、彼女は誰にも会わず
どこにも出ない引きこもりになっていました。

お酒、過食、嘔吐、絶食、1人の夜を地獄めぐりのように
過ごしながら、昼間は元気に振舞ってあちこちに電話を
かけていたようです。
次第に意識が朦朧となる日も出てきて、混乱して泣いたり
わめいて母を責めたり、元に戻って落ち込んで謝って、
今度は病院に絶対に行くよ、という相手の一番望む言葉を
かわいい顔で約束しては、次の日にはまたそれを反故にする
そんな繰り返しになって行きました。

精神科、精神衛生相談、保健所、訪問診療、生活保護課、
専門医の電話相談・・・挙句民間救急車による強制輸送
などを試してみても、
あちこち訪ね歩く日々を母と送って見またものの、答えは
いつもひとつでした。

「強制入院は制度の関係でできません。是非ご家族で
診察に来られるように説得してください。」

重症で、かたくなな拒否があり、喘息などの疾患も合わ
さった妹は、もう一般の人間や気の弱い母が説得できる
ほど簡単なものではないと誰もがわかっていながら、
そういう他ないのです。
精神科医も、「ここまでやせていると、回復に失敗しない
自信がありません。」とささやきました。

両方の中間の立場にいる関係者でもある私は、職員の
「お力になれずすみません」
の意味を知っていました。

ある日、彼女は立てないような身体でフラフラと自転車を
漕ぎ出して行きました。母には買いたいものがあるといって
出たそうですが、後から聞けば自殺をするつもりで車の正面
に進んでいったのだそうです。
小さな農道のような道です。車は急ハンドルでよけたので、
妹は軽い接触で自転車ごと道端に倒れ、全身を打ちました。
守るべき筋肉がほとんどないので、痛みがひどくて体の上の
自転車をよける事も出来ず、ただ横たわったまま、何時間か
解らないほど長い時間が過ぎたそうです。

やがて雨が降ってきました。夜暗くなっている中を、
どう帰っていたのかも解らなかったそうですが、それ以来
立ち上がることは出来なくなっていました。
事故と信じている母は、懸命に身の回りの世話を焼き、
診察を促しましたが、死ぬ事に失敗した妹の耳にはもう
何も言葉は入らなかったようです。

私が妹と毎日電話をすることにしました。
精神的に不安定な時、混乱で錯乱している時、機嫌のいいとき
不安が強くなって1人でいられないとき、
時には言い合いをし、時には懐かしい思い出話をしながら。

彼の去ったあと結婚記念日はその後の妹の誕生日、クリスマス、
新年と続く楽しいイベントがあればあるだけ妹の心を苦しく
傷つけて行きました。
時には何時間も。年末年始は家族を実家に帰して、死にたいという
妹のために受話器を持ち続けました。

それが依存だと、私も良くわかっていました。
妹は自殺が出来ないから何年も苦しんでいるのです。でも狂言では
ありません。勇気がなかったのです。
何度も説得しました。苦しくない生活だって選べるはずだ。
それだけ強い意志があるなら、自分を痛めつけない反対の方向へ
行く事が出来るはずだ。お姉ちゃんの手を引くほうに一緒においで。と。

妹は、喘息で学校に行かない間、いつも母と一緒にいました。
今考えると母は自我形成にすこし問題があったのではないかとおもえる
エピソードがたくさんありました。
まず、体の接触を極端に嫌い、子供あまり抱かない。不潔に対する
強い嫌悪感、不安神経症的性格、話をちゃんとしても、その通り受け取れ
ないコミニュケーションの問題。
その偏った価値観で常に妹は翻弄されていたのかもしれません。
父の愚痴、姉の悪口を聞かされて、「パパとおねえちゃんはママの敵」
という考えを刷り込んでしまったのでしょう。

結局 母の精神的な支配から逃れて私と本当にちゃんと向き合って関係
取れるようになったのは死ぬ1年半位前からだと聞かされ、それまでは
完璧に妹の役を演じながら私をだましていたという言葉にも驚きつつ
どこかでそれを理解していた所はありました。

最終的に私は言ってはいけないと誰もが思うことを望みどおり言いました。

「本当に死にたいという選択が自分の意思で、望みならそれをお姉ちゃんは
認める。死んでもいいよ。」と。

もう妹は自力で死ぬ事は出来ません。ただ今の状態ではいつ死んでも
おかしくないといわれてから1年以上がたっていました。
もう胃の中にまで食べ物が降りていく事が難しくなっています。
ですからそれは、意識がなくなって病院に運び、蘇生したり点滴して生き返らせ
生かされ続けることをしない、ということでした。
その代わり、好きなものを食べる事。自分に苦しみを与えない事。
人も自分も責めないで、もう色んなことを許してあげようよ。といいました。

そしてそれは、妹がそう長くないという事を意味していました。
これはすごく長いスパンの自殺ほう助かもしれません。
依存症の共依存といわれても仕方がありませんが、私は何度も
振り返っては立ち止まり、いつも考え続けました。
人の生と死と、生きる意味について。
私自身は妹に一日でも長く生きて欲しいと思っていました。

妹が本当の心をはじめて見せて、気持ちが通じ合ってから、
少し落ち着いた日々を送れるようになっていました。
吐くことも止めていたので、時間つぶしになればと
預けておいた布と刺繍糸を使って妹は小さな手仕事を始めました。
もともと器用な子ですからすぐにかわいいものをたくさん作りました。

その中でも掌に入る小さなのんのんさまは、その顔の表情をみると、
厳しい状況の肉体のその奥にある水晶のような彼女の魂の美しさを
覗き込んだような気持ちになるのでした。

そして秋の寒さが部屋に忍び込むようになった11月
私は今年の今のように仕事のイベントに忙しく、ちょっと妹の電話も
疎遠になっていた矢先の事でした。
本当は電話で話す事が出来たんだと、今でも残る携帯の留守電の
何本かのメッセージを聞くたびに思います。

でも妹は、最後は誰にも見られずに、猫のように人知れず逝きたい
という望みどおり、静かに眠って行きました。
母から突然の知らせを受けて病院に着いたとき、母は子供のように
私にしがみついて泣きました。まず母を落ち着かせてからちいさな
ベットにさらに小さくなって丸まるように横たわる妹のところへ
行きました。

本当の自分を出せるようになった最後の頃
「お姉ちゃんの子供に生まれたかったな。いっぱい抱っこしてもらって
いっぱい喧嘩して。そしてお姉ちゃんと幸せになりたかった。」
母との関係が最後までうまく行かずに苦しんだ妹の搾り出すような
願いでした。
時々はお別れに「お姉ちゃん抱っこして。」といわれて抱いてあげても
あちこちを痛めて体のきつい妹を、思う存分抱っこしてあげる事は
生きている間には出来ませんでした。

今、痛みからも解放されている妹を私はしっかり抱っこしてそっと話
かけました。
「今度生まれてくるときは、必ず間違えずにお姉ちゃんの所に
生まれて来るんだよ。いっぱい抱っこして、たくさんオッパイ飲んで
たくさんたくさん甘えさせてあげるからね。」

妹はかすかに頷いているように、目にうっすらと涙を溜めていました。

これを人はかわいそうな子というでしょう。残酷な最後と思う
かもしれません。でも私は、自分の生を妹なりに精一杯生きた戦った
姿だと思っています。
最高の対応でもないし、誇れる事ではありません。
色んな後悔がないわけではありません。でもこのことは、やはりいつか
時期が来たら外へ出さなければと思っていました。

ごく普通の姉妹のように、それぞれに家庭をもち、子供や夫の愚痴をいい
年を取ってきたらあちこちを旅行して歩く。
そんなありふれた幸せが、私にはかなわぬ夢になりました。
日々忙しくすごせば悲しみは少しずつ薄らいでも、失った私自身の寂しさは
引き換えに大きくなっていくことを感じています。

それでも私は今日も元気に生きていきます。
私は人生においても仕事においても、たくさんの人生を見送る運命が
あるのかもしれません。
先に旅立ったひとりひとりに、恥ずかしくない生き方をしなければ
と毎朝思うのです。安らかでありますように。