義母が手術をすることになったので説明を聞きにいくと、
術後3日間は付き添いをお願いしますと言うことだった。
それが病院のシステムであれば当然私はするのだが、
その制度は確か廃止になったはず・・・
大学病院が7対1看護を採用し、準・深夜勤共に最低4人が
配置される今の時代に、1病棟に夜勤として2人しかいないとは!
父が闘病していた昭和の国立病院と同じではないか。
あれからもう30年近い月日がたっているというのに。
これが保険点数制度の中で行われている同じ看護であれば
患者は本当に不公平だと思う。もちろんそれは、量が質を
補うものであると言うことではないけれど。
タイムスリップしたような古ぼけた建物と制度は本当に私を
あの時代に押し戻した。
父は自分にも人にも厳しい人だった。
私は生涯にほめられた記憶がほとんどない。そして男に生まれな
かった私を、経済力ある男のように育てるつもりだったようだ。
「お前は俺たちの老後の面倒を見るために作った子供だ。」
と言うようなことをはっきり口にする人でもあった。
ハウスメーカがしのぎを削っていた時代、病を隠して仕事をし続け
ついに手遅れになって入院した時に私は14でもうすぐ受験だった。
妹は小学生。
それまで会社の幹部として重要なポストとにいた父であっても
長期入院のために仕事を失い、私たちは家を売らなければならなくなった。
(その頃ローンには保険をかけない時代だったからだろうか・・・)
一気に貧しくなっていく我が家に娘2人を残して、父を愛するあまり
母は父に付き添って病院から戻ってこなくなってしまった。
私は妹の面倒を見ながら受験勉強をし、買い物をして夕飯を作った。
本当ならば母が私にあれこれと世話を焼き、勉強の心配をしてくれる
はずだった年齢だった。
「パパに死なれたらママも死ぬ。」
と言われたら、私は何もいえなかった。ただその毎日をやり過ごす
ことだけを目標に生きていて、高校の先がどうなるのかも解からない中、
受験勉強に何の意味があるのかと、買い物の袋と学生かばんとを手に提げ
冬の夜の道をたった一人で留守番する妹のために帰って行ったのだった。
受験はもちろん失敗し、私立校に入って学費免除のため毎日勉強に
明け暮れはしたものの私の未来は相変わらず不透明で、大学にいけるのか
いけないのか、全ては父の命にかかっているようなものだった。
そして高校の冬、父は旅立って行く。
古い病棟のベットで、あんなにそばに付き添い続け、愛した母のいない
ほんのわずかな時間の中、私がたった一人そばにいたその瞬間に、
吐ききった息を再び吸うことがないまま・・・
腹水が溜まって苦しいはずなのに、あちこちが痛いはずなのに、一度も
弱音を吐かず、耐えて行った父に私は何も出来なかった。
父の死後、母はみんなで死んでしまおうといった。
ママはパパがいなければ生きていけないと。
私は腹が立った。なぜこんなに弱いのか、なぜ子供の私たちを守って
くれないのか、なぜ自分で幸せになろうとしないのか。
ついに私は
「本当に死にたいなら一人で死ねばいい。生きるなら私がいる。」
と宣言してしまった。
その後、
「あの時死なせてくれたらこんなに苦しくはなかった。」
と言われる度に、妹の苦しみでさえ私のエゴから生み出されたのでは
ないかとつらく思う時もあったのだけれど。
とにかくその日から、私は2人の扶養を抱え、安定した職に就くために
看護の職を選ぶことになったのだった。
もちろん、全く自分の望みとは違う世界ではあったものの、いつも
苦しい思いをしていた父にも、母代わりのようだった伯母の長い闘病に
にも自分が何も出来なかったというジレンマが私の中の決心の種に
なったことには違いがなかった。
義母は長い間私に精神戦を挑んでくるような負けず嫌いで、私は
その刃をよけるだけで精一杯だった。傷つくようなことも度々だった
けれど、私は一度もまともにそれを受けたことがなく、改めて正面から
それを受け止めてみれば、刃は寂しさと弱さに変わっていって、私に
共感の思いだけが残った。
母との関係も、精神的に幼くて愛されることばかり望んでいるその思いが
純粋であること、母なりに一生懸命に母親になろうとして来たことを知れば、
上手く愛されていなかったことは責めることも出来なくなった。
すべては私の中に他人を踏み込ませない必要以上の防御が見せないで
いた真実だったのかもしれない。
それは私を守るために必要なものではあり、かつその防御を取り去る
ことが私に与えられたその後の課題でもあった。
課題を乗り越えてしまえば、私の中に本当につらかったことなんて、
いったいどれくらいあったのだろうかとすら思う。
これまでの経験や、息子である夫の支えがあったからこそ今の私があり、
義母の術後に付き添って何事か助けることが出来る力を得ることが出来た
のだと思うと今はただうれしい。
ひとまず・・・・
中途半端に呆けている母の日常を誰に見てもらおうか、
子供たちの食事、家事、私の仕事、息子の誕生日・・・
明日までにクリアしなければ。
全てはなるようになるでしょう。今日も夕日がきれいだから。
術後3日間は付き添いをお願いしますと言うことだった。
それが病院のシステムであれば当然私はするのだが、
その制度は確か廃止になったはず・・・
大学病院が7対1看護を採用し、準・深夜勤共に最低4人が
配置される今の時代に、1病棟に夜勤として2人しかいないとは!
父が闘病していた昭和の国立病院と同じではないか。
あれからもう30年近い月日がたっているというのに。
これが保険点数制度の中で行われている同じ看護であれば
患者は本当に不公平だと思う。もちろんそれは、量が質を
補うものであると言うことではないけれど。
タイムスリップしたような古ぼけた建物と制度は本当に私を
あの時代に押し戻した。
父は自分にも人にも厳しい人だった。
私は生涯にほめられた記憶がほとんどない。そして男に生まれな
かった私を、経済力ある男のように育てるつもりだったようだ。
「お前は俺たちの老後の面倒を見るために作った子供だ。」
と言うようなことをはっきり口にする人でもあった。
ハウスメーカがしのぎを削っていた時代、病を隠して仕事をし続け
ついに手遅れになって入院した時に私は14でもうすぐ受験だった。
妹は小学生。
それまで会社の幹部として重要なポストとにいた父であっても
長期入院のために仕事を失い、私たちは家を売らなければならなくなった。
(その頃ローンには保険をかけない時代だったからだろうか・・・)
一気に貧しくなっていく我が家に娘2人を残して、父を愛するあまり
母は父に付き添って病院から戻ってこなくなってしまった。
私は妹の面倒を見ながら受験勉強をし、買い物をして夕飯を作った。
本当ならば母が私にあれこれと世話を焼き、勉強の心配をしてくれる
はずだった年齢だった。
「パパに死なれたらママも死ぬ。」
と言われたら、私は何もいえなかった。ただその毎日をやり過ごす
ことだけを目標に生きていて、高校の先がどうなるのかも解からない中、
受験勉強に何の意味があるのかと、買い物の袋と学生かばんとを手に提げ
冬の夜の道をたった一人で留守番する妹のために帰って行ったのだった。
受験はもちろん失敗し、私立校に入って学費免除のため毎日勉強に
明け暮れはしたものの私の未来は相変わらず不透明で、大学にいけるのか
いけないのか、全ては父の命にかかっているようなものだった。
そして高校の冬、父は旅立って行く。
古い病棟のベットで、あんなにそばに付き添い続け、愛した母のいない
ほんのわずかな時間の中、私がたった一人そばにいたその瞬間に、
吐ききった息を再び吸うことがないまま・・・
腹水が溜まって苦しいはずなのに、あちこちが痛いはずなのに、一度も
弱音を吐かず、耐えて行った父に私は何も出来なかった。
父の死後、母はみんなで死んでしまおうといった。
ママはパパがいなければ生きていけないと。
私は腹が立った。なぜこんなに弱いのか、なぜ子供の私たちを守って
くれないのか、なぜ自分で幸せになろうとしないのか。
ついに私は
「本当に死にたいなら一人で死ねばいい。生きるなら私がいる。」
と宣言してしまった。
その後、
「あの時死なせてくれたらこんなに苦しくはなかった。」
と言われる度に、妹の苦しみでさえ私のエゴから生み出されたのでは
ないかとつらく思う時もあったのだけれど。
とにかくその日から、私は2人の扶養を抱え、安定した職に就くために
看護の職を選ぶことになったのだった。
もちろん、全く自分の望みとは違う世界ではあったものの、いつも
苦しい思いをしていた父にも、母代わりのようだった伯母の長い闘病に
にも自分が何も出来なかったというジレンマが私の中の決心の種に
なったことには違いがなかった。
義母は長い間私に精神戦を挑んでくるような負けず嫌いで、私は
その刃をよけるだけで精一杯だった。傷つくようなことも度々だった
けれど、私は一度もまともにそれを受けたことがなく、改めて正面から
それを受け止めてみれば、刃は寂しさと弱さに変わっていって、私に
共感の思いだけが残った。
母との関係も、精神的に幼くて愛されることばかり望んでいるその思いが
純粋であること、母なりに一生懸命に母親になろうとして来たことを知れば、
上手く愛されていなかったことは責めることも出来なくなった。
すべては私の中に他人を踏み込ませない必要以上の防御が見せないで
いた真実だったのかもしれない。
それは私を守るために必要なものではあり、かつその防御を取り去る
ことが私に与えられたその後の課題でもあった。
課題を乗り越えてしまえば、私の中に本当につらかったことなんて、
いったいどれくらいあったのだろうかとすら思う。
これまでの経験や、息子である夫の支えがあったからこそ今の私があり、
義母の術後に付き添って何事か助けることが出来る力を得ることが出来た
のだと思うと今はただうれしい。
ひとまず・・・・
中途半端に呆けている母の日常を誰に見てもらおうか、
子供たちの食事、家事、私の仕事、息子の誕生日・・・
明日までにクリアしなければ。
全てはなるようになるでしょう。今日も夕日がきれいだから。