MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2135 叱っても人は育たない

2022年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 職場におけるハラスメントの防止を規定する「改正労働施策総合推進法」が2020年6月に施行されたことを踏まえ、経団連は昨年の12月に広域的な「職場のハラスメント防止に関するアンケート調査」を実施しています。

 公表されている調査結果によれば、パワハラに関する相談件数について「増えた」と回答した企業が44.0%と最も多く、「減った」とした企業(16.3%)を大きく上回りました。一方、セクハラに関しては、相談件数が「増えた」と回答した企業は11.5%に留まり、「減った」は28.8%となっています。

 セクハラに関しては、1999年4月の男女雇用均等法の施行によって「女性労働者に対するセクハラ防止のための配慮義務」が定められて以来既に20年以上が経過しており、それなりに認知が進んでいるということでしょう。一方、パワハラに関してはハラスメントの定義をすることが難しく、法律に明文化されるまでにかなりの年月が費やされてきており、その分理解も遅れていると言えるかもしれません。

 「教育のつもりでやっただけ」「本人のためを思ってのこと」…これらは、パワハラで訴えられた人がよく口にする言葉だとされています。確かにこうした訴えにも嘘はないのだと思います。しかし、指導的な立場にある者が、もっと頑張ってほしいという思いを込めて口にする「こんなこともできないのか」「ほかの人の足を引っ張るんじゃない」といった言葉の一つ一つが部下を傷つけ、やる気を奪い、精神的に追い込んでいくのもまた現実と言えるでしょう。

 「競争社会で勝ち残っていくために」「真剣さが足りない」と叱っていく手法が、世の中的に受け入れられなくなっている。相手の人格を考えず、「努力と根性で頑張れ」と叱咤することができた時代は、もはや遠い昔のことだということです。

 しかしそれでも、自分の子供や部下のミスを(例えそれが常軌を逸したものではないとしても)「叱らずにはいられない」、そういう人は必ずいるものです。保護者や教員、上司など人を支援したり指導したりする人たちは、結局「叱る」ことから逃れられないということでしょうか。

 総合経済誌「月刊東洋経済」の3月12日号に、「叱っても人は育たないが叱る側はドパーミンが噴出」と題する、(一社)子ども・青少年育成支援協会代表理事で臨床心理士の村中直人氏へのインタビュー記事が掲載されていたので、参考までに小欄に残しておきたいと思います。

 記事によれば、村中氏は、長年、発達障害の人たちへの支援活動に携わる中で、「叱る」ことの意味や効果を研究してきたということです。

 実際、発達障害の子供は、物心ついたころからものすごく叱られ続ける。しかし、ほとんどの場合、「叱る」という行為は何の役にも立っていないばかりか、事態を悪化させるばかりだと氏は言います。

 あまり知られていないが、そもそも「叱る」という行為にほとんど効果がないことは科学的に証明されている。苦痛を感じている人の脳は苦痛の回避を優先し防御システムを働かせるので、叱った時点で学びや成長は期待できないというのが氏の指摘するところです。

 一方、「叱る」ことで効果があるのは、危機管理と抑止などの一定の条件下にある時のみで、その行為が本人や周囲の人に危険を及ぼす場合はバシッと叱ってすぐに止めさせることが効果的な対応となるということです。

 ストレスが優位な状況では、人の脳には防衛システムが働き知的能力が下がることがわかっていると氏は言います。(こうした状況下で我々は)意図的に考慮、熟慮するメカニズムを低下させることで、生物としての反射的な反応を活性化させる。しかし、これが長期にわたると脳の発達にダメージを与え、知的思考の発達が阻害されてしまうということです。

 加えて「叱る」に関する問題は、(どうやら)「叱られる」側ばかりあるわけではないようです。

 人が人を叱ると、処罰感情の充足が脳の報酬回路を刺激して、快楽物質であるドーパミンが放出されると氏は話しています。苦しい状況にある人が、ある種の物質や行為から逃れられなくなることを「依存」と呼ぶが、そこにはまさに「叱ることへの依存」とも呼ぶべき状態が生まれるということです。

 人は「叱る」ことから逃れられない。「叱る依存」状態にある人にとって「叱る」を手放すのは決して嫌なことではないが、そこには「取り上げられたらどうしたらよいのかわからない」という恐怖が付きまとうというのが氏の見解です。

 さて、結局のところ、いくら叱っても人は育たないということ。腹立たしい感情が残っている限り、思いは永遠に相手の心に届かないということなのでしょう。

 さらに言えば、相手のためと思って行った(さっきの)「叱る」が、実は単純に自分の欲求を満たすためのものだった可能性もあるということ。人を叱るのは極めて疲れる行為ですが、(我が身を振り返っても)そこに叱らずにはいられない気持ちの動きがあったことは確かに否定できません。

 「怒る」と「叱る」は、受ける方にとってはそんなに変わらない。声を出すに至るまでの感情の動きを、(その都度)振り返ってみる必要があるのだろうなと、記事を読んで改めて考えさせられたところです。

 



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