MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2554 こうしてコミュニケーションはどんどんデリケートなものになっていく

2024年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム

 シニア世代にはにわかに信じがたい話ですが、若い世代はLINEなどのチャット越しの「会話」に句点「。」があると、そこに「怒りの感情」を読み取ってしまう(らしい)という記事が週刊「AERA」の1月22日号にありました。

 言葉の端々から伝わる微妙なニュアンスを大切にしなければならない対話のキャッチボール。そうした中で日本人は、できるだけお互いの話を切らずに続けていくことに腐心してきたと記事はしています。

 例えば、バイト先の店長に「ちょっと週3日のシフトはきついんで、2日にしていただきたいんですけども…」など、接続助詞を使い余韻を残しつつ、できるだけ話の終わりを「結論ぽくなくする」のは、良好なコミュニケーションのための知恵だということです。

 一方、これを「週3日は私にとってきついんです。2日にしてください。」と終止形で切ってしまうと、高圧的で怒っているかのように伝わる可能性が高いとのこと。しかして、若者たちへのLINLEの返信に(うっかり)「わかりました。」などと「。」を打ってしまうと、「店長、怒ってるよ…(^^;)」などと誤解されることにもなりかねないということです。

 言葉の端々にまで「そんなデリケートでどうすんのよ」…といった声も聞こえてくるところ。マナーと言われればそれまでのことですが、私自身、誰彼構わず平気で「。」を打ちまくってきただけに、結構の驚きのニュースとして受け止めました。

 相手の気持ちに(それこそ)一喜一憂するナイーヴな若者たち。しかし、SNSやチャットを媒介とする会話におけるこうした傾向は、実は日本ばかりのことではないようです。

 1月31日の情報サイト「Newsweek日本版」に、在米ジャーナリストの冷泉彰彦氏が『「No, thank you.」の消滅......アメリカは日本化しているのか?』と題する一文を寄せているのを見かけたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 日本の若者がLINEなどのメッセージで「句点(。)」を一切使わないということが話題となった。句点無しの短い文章を区切りながら繰り出すことが定着する中で、句点を使うことは(逆に)「威圧感、怒りの感情」の表現として受け取られるようになっていると冷泉氏は冒頭に記しています。

 実は、私(←冷泉氏)の暮らすアメリカでも状況は変わらない。短いメッセージをどんどん繰り出してリアルタイムの交信をする場合にはピリオドを使わず、反対に、あえてピリオドで切ると、そこには「納得していない」という拒絶や怒りのニュアンスで受け止められるようになっているというのが氏の指摘するところです。

 英語の場合は、少しバリエーションがあり。二人称の you について、いつもは「Y」などの略語で書いているのを「You」とフルのスペリングで書くと、同じように怒っているというニュアンスを持つようになる。絵文字もそうで、普段なら略語や絵文字を使う局面をキチンとした英語で書くと、「かなり怒っているな」という印象を与えることになるということです。

 このように、日本語と英語の表現が似通ってきたものとしては、「No, thank you.」の消滅ということがあると氏は続けます。アメリカに限った話かもしれないが、どうしても言わなければならない場合には、「No, thank you very much.」という感じに丁寧表現を足して何とかしたりする。近年では、それもかなり消滅気味で、その代わりに断りの表現として、「I'm fine.」とか「I'm good.」が定着しているということです。

 こうした現象は、日本の若者言葉で(断りの表現が)「いいえ、結構です」から「大丈夫です」に変化したのと、かなり似通っていると氏は説明しています。違いと言えば、日本の場合、若者の「大丈夫」が「イエス」なのか「ノー」なのか中高年には判別が難しいこと。アメリカの場合は、「No, thank you.」から「I'm fine.」への変化は、既にかなり広範な世代に普及しており、もはや普通に通用する慣用句になっているということです。

 いずれにしても、日米に共通するのは、明確な「No」を嫌うという変化波が押し寄せているということ。これはやはり、ネットを介した「情報量の少ないコミュニケーション」の場合には、関係性を悪化させないような知恵が必要ということなのだろうと氏は解説しています。

 明確な論理でビジネスや政治を先へ進める一方で、オープンでポジティブな態度をデフォルトとしてきたのが20世紀までのアメリカの流儀。しかし、そんなアメリカ文化の特徴もデジタル化の進行とともに急激に薄まってきていて、良くも悪くも日本化しているということかもしれないというのが氏の見解です。

 いくら気のいいアメリカ人だって、いつまでも「大らか」ではいられない時代がやってきたということでしょうか。意志を小出しにしながら相手の出方を探る。論理や理念よりも関係性が気になり出していて、しかも良好な関係性はデフォルトとして100%期待できないので、少し努力と警戒が必要ということだろうと話す冷泉氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。

 



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