MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯29 フロンティアとは何か(その3)

2013年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 フロンティアにはまた「辺境」という意味もあります。中央ではない隅っこの方。中央から追いやられた人達が、中央からの影響を受けつつも自らの力で社会制度を整え独自の暮らしをしている場所、そんな感じの所です。

 思えばアメリカ合衆国は、その成り立ち自体がヨーロッパを追われた清教徒たちの手によって創始されたまさに辺境の国です。

 メイフラワー号で知られるように、新天地を求めて新大陸に渡った移民たちが宗主国との関係を断ち切り自らの手で理想国家を建国する。そしてそのフロント・ラインを拡大することによって自分たちの生活習慣をスタンダードとする領域を広げていった(そしてそれが、現在のグローバルスタンダードへとつながっていくわけですが)という、人類史上でも極めて特異な国家であると言えます。

 一方、アメリカとはずいぶん状況を異にしますが、世界的な視点に立ては、日本人もある意味で辺境に生きてきた国民であると言えます。

 東アジアには中国を中心とした巨大な社会・文化圏があります。17世紀の半ばくらいまで、この地域が世界の中心であったと言って過言ではないでしょう。長い歴史と高度な文化や社会制度、そうしたものから少し外れた所にある島国で、四方の海に守られながら、大陸の文化や制度をちょっとずつ拝借しながら、私達の祖先は独自の社会システムを作り上げてきました。

 しかし、同じ辺境の民でもアメリカ人と日本人ではずいぶんメンタリティが違います。日本人は常に中央にある中国(そして現在ではそれが「アメリカ」にとってかわられていますが…)を強く意識しながら自らを相対化して評価し、また状況に対応することを習慣化してきた民族です。

 日本人には日本の国土や文化を「神々から与えられたもの」とは感じることはできても「勝ち得てきたもの」であるとは到底認識することはできません。日本人も多くの戦(いくさ)をしてきましたが、そのほとんどが同じ言葉を話し、同じ習慣を持つ親戚のような者同士のコップ中の争いです。日本人には、日本を形作るその出発点としてのフロンティアが無かったと、そのように言えるのかもしれません。

 さて、アメリカ大陸におけるフロンティアは、先住民であるインディアンから見れば異民族による侵略と殺戮と屈辱の現場にほかなりません。入植が本格化して以降、合衆国政府軍を中心とした強引な入植地の拡大が3世紀近くも続きました。

 しかし、そういった行為に対する後ろめたさのような感覚は、現在でもあまりアメリカ国民は感じていないのではないかと思います。

 アメリカ合衆国の国民性という観点でいえば、インディアンとの戦闘から広島・長崎への原爆投下に至るまで、フロント・ライン拡大のための争いに対する屈託はほとんど見られないと言ってもいいでしょう。アメリカという社会への信頼と純粋な理想主義。驚くような人の良さや恭順する者への寛容さなどは、アメリカの開拓史に共通する感覚です。

 理由はよくわからないけれども、とにかくアメリカ人は自国の成り立ちと歴史と、そして何よりフロンティア・スピリットに誇りと自信を持っている。…日本人にとってはこう考えるのが一番腑に落ちるのかもしれません。

 楽観主義とシンプルさを旨とする多少お節介なアメリカの倫理観は、辺境に張り付いてきた日本人にはどうにも理解に苦しむ所があるようです。



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