「汽笛一声新橋を…♪」の「鉄道唱歌」にあるように、日本の鉄道は明治5年(1872年)の9月に、新橋~横浜間に開通したことになっています。しかし、鉄道史を厳密にたどると、現実は少しだけ異なるようです。
「品川~新橋」間の工事が予定より遅れ、明治5年5月の段階で「品川~横浜」間が先に開業していた。当初は途中駅がなかったので、名誉ある日本最初の駅は、つまり「品川駅」と「横浜駅」だったということです。
そういう意味で言えば、海辺の宿場町品川は、文明開化の当時からまさに首都東京へのゲートウェイだったといえるかもしれません。
それから150年の月日を経て、隣接する高輪ゲートウェイ駅の開業とともに変貌する品川駅近辺ですが、実はこの陸蒸気が出発した初代品川駅は現在の場所(港区高輪)にはなく、400メートルほど南の八ツ山橋の手前にあったとされています。
そこはまさに江戸時代からの品川宿の北の端で、同駅から北はしばらく海上に築堤をして新橋まで線路を敷いたということです。
さて、日本で最初の駅である品川駅周辺は、2003年に東海道新幹線の品川駅が開業して以降、再開発により大規模なオフィスビルや高層マンションを中心とした超高層ビル街へと大きく変貌しました。
駅自体も大きく回収され、もはや(台風のたびに高輪口と港南口をつなぐ地下通路が水没した)以前の面影はありません。中でも、現在の品川駅を(全国的に)イメージづけているのは、中央コンコース自由通路の左右に掲げられた44台のデジタルサイネージの大画面といえるかもしれません。
朝夕のラッシュ時、オフィスに向かう多くのサラリーマンの姿と、両側にずらりと並んだ液晶ディスプレイ。その視覚的なインパクトは大きくメディアにもたびたび取り上げられていることから、品川駅を訪れたことのない人でも一目でそれとわかることでしょう。
さて、10月4日、そのデジタルサイネージをジャックする形でディスプレイに大きく浮かび上がった黒文字のメッセージ広告がネット上で炎上し、その他のメディアも含めて物議を醸したのは記憶に新しいところです。
問題となったのは、「株式会社AlphaDrive」がソーシャル経済メディア「NewsPicks」と事業統合し開始する、法人向け事業のリブランディング広告です。
この広告は、企業の人材育成や組織の活性化を支援する同社の事業をアピールすることを目的に、「今日の仕事は楽しみですか。」との書き込みを通路の両側にずらっと並べる形をとりました。
しかし、この光景が「社畜回廊」としてネット上にアップされると、このメッセージをうつむいて歩く出勤途上のサラリーマンの姿との対比の中で読み取った人々から、「ディストピア感がある」「上から目線」「働く人をバカにしている」「時代と合っていない」などの多くの批判が寄せられたということです。
結局、広告主は10月4日から始めた掲示を5日午前にわずか1日で取りやめ、「配慮に欠く表現となっておりましたことをお詫び申し上げます」との謝罪を広告を打つに至りました。
しかし、こうした顛末・対応がまた(「ポリティカル・コレクトネスの濫用」「行き過ぎたキャンセルカルチャー」などと)話題を呼び、多くのメディアで広く取り上げられたところです。
世間をにぎわしたこうした事態について、10月19日のPRESIDENT Onlineでは、ライターでラジオパーソナリティの御田寺圭氏が「炎上→即謝罪"を歓迎するSNS社会の末路」と題する一文を寄せています。
氏はこのコラムにおいて、「広告掲載→SNSで炎上→掲載中止→謝罪」という一連の流れ自体には特に真新しさはない。SNSでひたすら繰り返され、令和になって加速度的にその件数を増やしてきた「キャンセル」の典型例だと話しています。
しかし、この程度の(刺激性のある)表記で、「傷ついた」とか「取り下げろ」といった非難の嵐が起きること、またそれにすぐさま応じてしまう企業側の弱腰が(いまどきは)珍しくないとしても、両者が二人三脚でこの社会の「息苦しさ」「閉塞感」を加速させていることはここではっきりと指摘しておかなければならないと氏は続けます。
ありとあらゆる人にとって「侵襲的でない」「不快感のない」コンテンツなど存在しえないし、全員が笑顔になれる「満額回答」に満ちた社会ほど恐ろしいものはないというのが氏の認識です。
国家権力からもぎとった「表現の自由」を、精神的な脆弱性や性急に処断を求める思慮の浅さによって(自分たち自身で)損なうような真似をするようでは、せっかくの「表現の自由」も意味がなくなる。そのようなふるまいを厭わない未成熟な者たちにとって、近代社会の「自由」という概念は過ぎた代物だったと言わざるを得ないということです。
SNSによって統合された「市民の感情」は、ときには個人的な問題を政治的な問題にまで昇華させる力となることもあれば、個人の社会的生命を完全に破壊する獰猛な姿を見せることもあると氏はしています。
個としては脆弱で、これまで自分ひとりでは社会になんの変化を及ぼすことのできなかった名もなき人びとが今、SNSによって社会に大きな変化を及ぼす力を得た。そして今、人びとはその力によって、喜び勇んで無邪気に「世直し」をしているということです。
スマートフォン越しに(感情に任せて)けしからん人物や事象に制裁を加え、「今日の自分はとてもよいことをした」と満足しながら眠りにつくようになったと氏は話しています。
個々人の様々な感情がこうして無秩序に沸き立っているネット社会において、私たちはどうしたら、自立した個人としての冷静な自我を保つことができるのか。
今回の事件(?)は極めて小さなできごとではあるけれど、このような現実に何も疑問を持たない人びとの有様にこそ「ディストピアの気配」を感じるとする御田寺氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。
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