MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯450 人を幸せにする会話の力

2015年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム


 交差点の赤信号。ふと見たバックミラーの中に、後ろの車の助手席の女性が嬉しそうに運転席の男性に話しかけている姿がありました。歳の頃なら30歳前後の、笑顔がとても魅力的な女性です。

 おそらくは、今日会った人の様子や出来事を、彼に面白おかしく話しているのでしょう。顎を少しだけ上に上げ、身振り手振りを交え表情も豊かに何かを一生懸命に伝えてようとしています。

 運転席の男性も、おそらく同じくらいの年恰好でしょうか。もしかすると二人は、夫婦のような(すっかりとなじみきった)関係とはちょっと違うのかもしれません。彼の横顔に浮かんでいるのは、彼女の生き生きとした姿を本当に愛おしいものとして受け止め、楽しげに相槌を打っている風情です。

 思えばそうした幸せな光景は、もしかすると(男性であれば)誰しもが、記憶のあちらこちらに刻みこんでいるものなのかもしれません。「それで、それで?」「で、どうしたの?」「へー、そうなんだ…」。こうした会話の端々が、いくつもの(時には甘酸っぱい)記憶とともに蘇ってくる諸兄も多いのではないでしょうか。

 それにしても、ひとりの男性として言えば、日常の何気ない出来事を(今まさにそこで起こっているかのように)臨場感を持って伝え、聞き手を楽しませてくれる女性のコミュニケーション能力は、正に驚嘆に値する存在です。

 昔から男性同士の会話と言えば、仕事の愚痴か自慢話か、昔の思い出話と相場は決まっています。たまに最近の出来事の話になったとしても、(自分がどう感じたかという部分が煩しくて、)女性が話をするようなあっけらかんとした明るさを、中々そこに見出すことはできません。

 例えば、昨日見た映画やテレビの話であっても、大抵の男性はそれを面白おかしく相手に伝えることはできません。

 ストーリーの大枠を話すことはできるかもしれませんが、それを支える登場人物の会話の機微や場面のディテールが伴わないため、その場のリアリティとの間にいまひとつの距離感が生じてしまう。彼と一緒に(彼が感じた)世界へ入り込むには、多くの場合相当の困難が伴います。

 さて、そこで思い出したのですが、私が十代の時分ですから1970年代になりますが、淀川長春という映画評論家が「ラジオ名画劇場」というラジオ番組を持っていました。

 「サヨナラ、サヨナラ…」のあのおじさんです。淀川さん自体、1909年生まれということですから、当時でも既に70歳近い「おじいさん」だったかもしれません。

 ナイターの中継がない毎週月曜日の夜8時から1時間、淀川さんはポータブルラジオの向こう側で(主に昔の)映画の話をしてくれます。チャップリンの「街の灯」、ジョン・ウェインの「駅馬車」、ジェームス・ディーンの「エデンの東」など、恐らくは若き日に見た名画の隅々を、まるでさっき初めて観て感動したばかりの少女のように生き生きと話してくれるのです。

 決して「立て板に水」といった流暢な話ではないのですが、リスナーは、ラジオから流れる淀川さんの声だけを頼りにその光景のひとつひとつに思いを馳せ、淀川さんと一緒に映画館の座席に座っているかのような時間を過ごすことができました。

 また、その記憶をもとに後から名画座で実際にその映画を観てみると、淀川さんの話から浮かんでいたイメージとぴったりの光景が、次々とスクリーンに現れてくることに本当に驚かされたものです。

 聞く人を思わず引き込む会話の力。そうした能力は、「誰にでも」授けられているというような性格のものではないかもしれません。しかし、本当に感動したことを一生懸命に伝えたいと努力すれば、きっとその思いは相手の胸にしっかりと届くのでしょう。

 今日会った出来事を、時系列に沿ってことこまかに話してくれる女性の会話を、多くの男性は(場合によっては多少は鬱陶しいと思いながらも)、もしかしたら女性が思っているよりも意外にしっかり聞いているものです。

 時に他愛のないコミュニケーションであったとしても、そうした時間がしっかりと人生を充実させてくれることを、バックミラーに映った楽しそうな二人の姿から改めて思い返したところです。



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