2019年の7月に起きた京都アニメーション放火殺人事件。青葉真司被告への裁判はこれまでに「動機と経緯」「責任能力」についての審理が終わり、いよいよ「量刑」に関する審理が始まったと報じられています。
11月27日、検察は改めて冒頭陳述を行い、「筋違いの恨みによる類例なき凄惨な大量放火殺人」と指摘。「被害者も多く、遺族らにも精神的苦痛を与えるなど被害は重大だ」と述べました。一方、これまでの裁判で心神喪失を理由に無罪を主張している弁護側は、「死刑は人を殺すことなのに、なぜ認められているのか考えながら審理してほしい」と陳述したということです。
実に36人が亡くなったこの比類のない放火殺人事件。それでも「責任能力」がなければ「罪に問われない」とされているのは一体何故なのか。11月29日の「弁護士ドットコムニュース」に、『相次ぐ「心神喪失」の無罪判決、ホントに「やられ損」で「野放し」になる? 法が罰しない理由を深掘り』と題する記事が掲載されていたので、(少し長文になりますが)参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。
刑法39条1項は「心神喪失者の行為は、罰しない」と定めている。なぜ心神喪失だと無罪になるのか。それは、講学上「責任能力」がないからだと記事は説明しています。
それではこの「責任能力」とは一体どんな能力を指すのか。日本の刑法学は、ドイツ刑法学の影響を強く受けている。そのドイツ刑法学では、「①構成要件」「②違法性」「③責任」という3つの要素がそろって初めて「犯罪」とする理論があり、日本でもこの考え方が判断の基本となっていると記事は言います。
①の「構成要件」というのは、その行為が刑罰法規に触れているかということ。殺人罪でいえば、「人を殺した」(刑法199条)に該当するかどうかを判断する。に次に②の「違法性」は、「類型的に悪いといえるか」ということ。例えば、正当防衛に当たるのであれば、類型的に悪いとはいえず無罪になるということです。
そして、③の「責任」にはその本質からしてさまざまな説がある。例えば、自分の意思でやったのだから非難されるという理論(道義的責任論)や、行為者に危険性が認められるなら責任があるとする理論(社会的責任論)などがあるが、おおむね「適法行為がで『できるはず』なのに違法行為をした」という法秩序の期待を破ったことが「責任」(規範的責任論)と捉えられていると記事はしています。
そう考えた場合、「責任」が認められるための能力、「責任能力」とはいったいどのようなものになるのか。
(嚙み砕いて言えば)人が人を非難するとき、その非難の源には「悪いことだとわかっていたのにやった」ということがあると記事は言います。それは逆に言えば、悪いことだとわかっていなかったら「適法行為を期待できない」ということ。自分のやろうとしている行為が「悪いこと」なのかどうかを判断する能力(事理弁識能力)がなければ行為者を非難できないというのが、根底にある論理な根拠だということです。
一方、悪いことだと理解してやった行為であればすべて非難できるかといえば、そうとも言えない。例えば脅されるなどして、例えば自分を守るために、自分ではどうしようもなかったとした場合に非難は免れるのではないかと記事は話しています。
こうして、悪いことだとわかったらそれを思いとどまる能力(行動制御能力)が2つ目の肝となる。つまり、責任能力とはこの「行動制御能力」と(前述の)「事理弁識能力」の2つの能力によって構成されているというのが記事の説明するところです。
そして、日本の刑事裁判では、「心神喪失」(若しくは「心神耗弱」)か否かを判断する際、このうえにさらに「精神の障害」(精神疾患など)が条件として加わると記事は指摘しています。精神障害があって事理弁識能力か行動制御能力が全くなければ、(非難できないので)心神喪失として無罪。事理弁識能力か行動制御能力のどちらかが著しく減退していれば、(非難しにくい状態なので)心神耗弱として刑の軽減が考慮されるということです。
さて、こうした責任能力の判断を行うため、実際の刑事裁判では、精神科医(鑑定人)と法律家の協同で調査が行われると記事はしています。責任能力判断の中で、専門家が入る主な場面は以下のとおり。
まず、起訴する前に検察の手で行われるのが、いわゆる「起訴前鑑定」というもの。これ自体、数カ月単位で延長されるなど、身柄拘束が長期化する一因となっていると記事は説明しています。
感覚的には、①殺人事件のうち精神疾患の入通院歴があるか事件自体に異常性があるもの、や②放火事件の場合(因みに、放火と衝動障害には強い関係性が見られる場合がある由)などで、起訴前鑑定に付されるイメージが強いとのこと。一方で、弁護人が求めても認められないことや鑑定資料は捜査機関側から提供されること、鑑定人も捜査機関側が推薦していることなどから、取り扱いの公平性について懸念を示す向きもあるようです。
そして、起訴された後、裁判所が認めると鑑定が行われることになる。これが「50条鑑定」などと呼ばれるもので、実態としては起訴前鑑定が行われていないと50条鑑定も認められないことのほうが多いということです。
特に、起訴前鑑定に関し他の専門家から疑義を呈された場合や、超重大事案の場合などに50条鑑定が認められる傾向があるとのこと。50条鑑定が認められなくても、弁護人が独自に専門家の意見を聴取し証拠として出すこともなどもあるとされています。
さて、話は少し飛んで、それでは「心身喪失」の状態にあったとして無罪なるケースというのは一体どのくらいあるのか。データでいえば、1審判決で心神喪失を理由に無罪となった事件は、2020年中で5件、2021年中で4件だったということです。つまり、年に数件無罪になるだけで、(裁判では)ほとんど認められてないということ。実は、こうした事件の多くは、刑事裁判になる前に「不起訴」という形で処理をされていると記事は指摘しています。
それでは、そうした経緯を経て不起訴になる(まれに無罪になる)と、そのまま社会に出されてしまうのか?…不起訴等により刑法で罰せられることはなくなるが、「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」(医療観察法)に基づき、検察官の申立てにより医療に繋げる手続きが用意されているというのが記事の説明するところです。
例えば2021年には、不起訴や執行猶予を含めた310件が医療観察法上の審判申立てがなされ、うち237件に入院決定が行われた。なお、医療観察法上の入院期間には上限が定められておらず、実態としては年単位の入院が中心だということです。
以上のように、裁判では心神喪失がほとんど認められておらず、(例え無罪になっても)そのままでは社会に出せないケースでは、任意入院や医療観察法上の入院などの受け皿となって、必要に応じ医療につないでいる」という現在の体制はひとつのありうる形だと記事は説明しています。
さて、(実態はともかく)いずれにしてもこの「責任能力」を議論するうえでは、誰からみた非難かという視点も重要だというのが記事の指摘するところです。被害者からみて非難できるかどうかであれば、責任能力が否定される場面は限定的になっていくのは必至とのこと。一方、社会防衛の観点から見れば、再犯防止のためには医療への陽性が高まり責任能力が否定される場面は広がるかもしれない。
刑事裁判に「何を求めるか」ということにもつながるこうした責任能力の議論について、制度や運用のあり方は社会全体で議論すべきであると話す記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます