東京の、暑い夏のオリンピックが始まりました。
テレビカメラの向こうでは多くのアスリートの熱戦が繰り広げられ、エアコンの効いた部屋の中での応援にも思わず力が入ります。
チャンネルを次々に変えながら、水球だとかホッケーだとかテコンドーだとか、普段あまり見慣れないスポーツに様々な発見をすることも、オリンピックの楽しみ方の一つだと改めて気づかされたところです。
新型コロナをはじめとした多くのトラブルを抱えながらも、始まってしまえばもう誰にも止められない。そうした「成り行き」というか「開き直り」というようなものの中でも、競技スケジュールは様々なドラマを生み出しながら進んでいきます。
開催自体に疑義を唱えていた各種メディアも、気が付けばオリンピックの熱気に乗っかって、(何事もなかったかのように)金だ銀だとハイライトシーンの再放送を繰り返し伝えています。
スポンサーと世間の動きにはかなわない。あぁやっぱりこの人たちはなんて調子が良いのだろうと、改めて感じているところでもあります。
思えば開会式直前まで、今回のオリンピックのガバナンスは大きく揺れ動き続けてきました。
開催するのかしないのか、観客を入れるのか入れないのか。「バブル方式で安心・安全」のはずの選手村からは連日何十人と言う感染者が生まれ、迎える都内の一般市民の感染者数もうなぎ上りの状況です。
開会式をめぐっては、音楽責任者が学生時代のいじめを巡って辞任したり、演出担当者が過去のコントに(ナチスドイツの)ホロコーストを揶揄する内容があったとして解任されたりと、差別や歴史認識など日本人の人権意識に関する問題がクローズアップされる事態も生じています。
そうしたこともあってか、結局無観客で行われた開会式の評価はいまひとつで、国内外のメディアからは「中途半端」「おざなり」といった声も聞かれるところです。
そもそも、「たかがスポーツ大会なのだから、別に観客が入らなくてもいいじゃないか」「開会式なんてただのアトラクション。(競技の)「おまけ」みたいなもんだろう」とも思うのですが、(オリンピックへの機会が大きい人たちには)なかなか許してはもらえないようです。
なぜそうなるのかと言えば、そこに大きなお金が投じられているから。一人一人の納税者が承知したわけでもないのに、総額で1.6兆円と言われる(誰が負担するのかも、何に使われたのかもよくわからない)巨費を投じた結果がが「こんなもの」であるのなら、「金返せ!」と言いたくなるのも郁子なるかなと思います。
もとより、アスリート個人の領域に属するスポーツが、いつの間にやら選手とは知り合いでも何でもない「私たち」のものとして語られ、勝利の栄誉はあくまでアスリート個人のものであるはずなのに、あたかも「自分たち」の勝利のように祀り上げられている。
そして、気が付けば「近代オリンピック」というイベントが、(戦争に代わり)国の威信をかけて戦う場と化している現状を、多くの人はあまり不思議とも思っていないようです。
開会式の終了後、メディアは国立競技場の周辺で繰り広げられた「オリンピック何が何でも反対派」と「せっかくだから楽しもう、がんばれニッポン派」の小競り合いを面白おかしく報じています。
集まって密になるのが問題のはずなのに、マスクもせずに罵り合う人々の姿は、テレビの画面を通しても私たちを(「滑稽」を通り越して)少し悲しい気持ちにさせるのに十分なものがありました。
多くのものを犠牲にしながら、こうして始まったオリンピック。それでも日本の、いや世界の何億と言う人たちが、(おそらくは)コロナのことはしばし忘れて純粋に競技を楽しんでいることでしょう。
それは勿論、アスリートたちが真剣に競技に臨んでいるから。そのリアルな姿から希望をもらい、明日を生き抜くための力をもらっているからであって、それ以上でもそれ以下でもないはずです。
オリンピックは政治や経済や主義主張とは違うもの。どうせ無観客で、批判を覚悟で開催するのであれば、そう割り切って一人一人のアスリートの姿をごくシンプルに丁寧に追いかけ、スポーツがもたらす「新しい世界観」を表現する機会にもできたのではないかと、ひとしきり残念に思った次第です。
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