物事を経済的な側面からとらえる経済学では、「環境」はいわゆる「公共財」のひとつとして位置付けられています。
少し面倒な説明になりますが、「公共財」とは、経済用語で言うところの「非排除性」を有する「財(←一定の価値を持つ有形物)」の総称で、たとえその財に価格が付されておりその対価を支払わない者があっても、便益享受から排除できないという性質を備えた財を指します。
言い換えれば、公共財を一人の消費者に提供しようとしてもそのほかの消費者もこれを消費することができるため、コスト的に第三者を排除することができない財を指す言葉だということです。
つまり、公共財は全ての人が価値の恩恵を消費する(共有する)がゆえに、その財の総量を維持するためのコストについては、これを広く公共的(制度的)に負担する(させる)ことが求められている財と考えることもできます。
さて、今年1月に入り、日本経済新聞の連載「やさしい経済学」では、京都大学教授の植田和弘(うえだ・かずひろ)氏が、こうした「環境」という財の経済における考え方について解説をしています。
豊かな自然や清浄な環境は、人間の生存や生産・消費活動のためになくてはならない生存の基本となるストックであり、人間はそこから多くの有用な便益をフローとして受け取っているというのが植田氏の認識です。
ところが、現実に人は人工資本を蓄積するために大規模な自然破壊を繰り返してきてしまった。そうした中で、人は、それまでに蓄積した人工資本の価値よりも、(将来にわたって)さらに大きな価値を持つ「自然資本」を既に失ってしまっているのかもしれないと、このコラムで氏は懸念を示しています。
植田氏によれは、環境は、皆が共同で消費する財であるため、たとえば大気汚染や水質汚染、土壌汚染などが進めば進むほど、清浄な空気や水、土地などは希少なものとして人々に認識され、公共的に厳しく管理されるべき高価な「共通財」として価値づけされていくということです。
加えて、放射能汚染などの、極めて長期にわたって人体に深刻な影響を与えることが想定される重大なリスクへの配慮・対応なども、当然相当のコストとしてこれに加わって来ることになるでしょう。
つまり、人間による経済活動による環境への影響が拡大する中、これまで積み上げてきた社会資本と社会そのものを安定的に維持していくためには、これから先、現在の環境(条件)を保全(維持)していくために要する莫大なコストを、「誰か」がきちんと管理し負担していく仕組みを確立しておく必要があるということになります。
二酸化炭素の排出権が初めて市場で取引されるようになってから、既に四半世紀以上の歳月が過ぎようとしています。また、世界の多くの先進国において、「環境税」「炭素税」の名目で、環境維持のためのコストを排出者に負担させる動きが加速されています。
応分のコストを財やサービスの価格に上乗せする。言いかえれば「(将来の)環境をお金で買う」という、そんな時代が、我々の生活の向上と引き換えに当然のこととしてやってきつつあるということです。
そうした中、こうした(環境への)投資を始めるタイミングが早ければ早いほど、ストックを維持するための最終投入額が安く済むことは論を待ちません。
当然ながら経済は、将来にわたる持続可能な発展を前提として制度設計されていく必要があります。そしてこれこそが、長期的な視点での「環境維持コスト」の管理が急務となっている所以ということになるのでしょう。
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