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作家の橘 玲(たちばな・あきら)氏が、自らのメールマガジン「世の中の仕組みと人生のデザイン」の11月13日(配信)号において、日本人の戦争責任の「自覚」に関する興味深い指摘を行っています。
先の大戦について日本と東アジアの国々との間で起こっている歴史認識に対する議論の擦れ違いは、単なる外交問題としてだけでなく、国内社会においても昨今の嫌中論や嫌韓論の隆盛やヘイとスピーチの問題などのさまざまな影響を呼び起こしています。
橘氏は、こうした動向について、中国人や韓国人から「過去の歴史」を批判されると激高する日本人がいるのは、それが(中・韓政府などに仕向けられた)歴史の改竄や偏狭なナショナリズムに基づく「理不尽ないいがかり」だと感じるからだと考えています。
氏は、そうした日本人の感情の裏側にあるのは、突き詰めれば程度の差こそあれ彼ら(中・韓)の批判には理があるとわかっているからであり、そこには「侵略戦争」や「植民地主義」自体は「悪」であるという肌感覚が私たちの間にもあるからだと説明しています。
「保守派」と呼ばれる人たちは、実際、そうした立ち位置から欧米諸国によるアジアの侵略や植民地化を声高に批判している。一方、そうなると日本の近現代史も「悪の歴史」になってしまうため、「日本は中国を侵略したのではなく、欧米の植民地支配からアジアを解放しようとした」とか、「朝鮮の植民地化は、当時はすべて合法だった」という論理のすり替えが起きているというのが橘氏の認識です。
当然、こうした方便としての歴史観は中国や韓国の人々に理解できるものではない。日本の中で、日本語でしか通用しない理屈では、国際的には誰からも相手にされないというのが、この論評における橘氏の立ち位置です。
もちろん、保守派の主張がすべて間違っているというわけではないと橘氏も述べています。
「東京裁判史観」のように、現在の基準から「平和に対する罪」や「人道に対する罪」など戦争以前にはなかった概念を裁くことへの批判は、法律論争としては一定の意味を持っている。しかし、(日本人にはあまり理解されていないようだが、)こうした批判を侵略戦争の責任を免責するための方便として使ってはならないと、橘氏はここで指摘しています。
国際社会というのは異質な価値観を持つ他者によって構成されるグローバル空間であるため、予め(原則として)定められたルールに従わず、ローカルなルールに固執しそれを振り回しても結局排除されるだけだと橘氏は言います。
例えば、欧米などにおいて19世紀の半ばまで(当たり前のこととして)公然と行われていた黒人奴隷の制度について、「奴隷制も当時は合法で、現在の基準で過去は裁けないのだから白人には何の責任もない」と主張する人間がいたとすれば、欧米社会において社会的に抹殺されることは間違いありません。
少なくとも現在の国際社会では、人権という普遍的な権利に対する侵害はその責任も法(や時代)を超えて普遍的に責任を追及されるべきものと位置付けられており、現在のリベラルな社会において、奴隷の合法性を公的に主張する「自由」は「政治的な正しさPolitically Correctness」の観点から許されていないというのが、橘氏の主張するところです。
さて、橘氏はこの論評において、第二次世界大戦の悲劇(惨禍)を象徴する出来事として世界中の人々に認識されている「ホロコースト」と広島・長崎への「原爆投下」について、アウシュヴィッツとヒロシマは両国にとってまったく異なる意味を持っていると説明しています。
ユダヤ人の大量虐殺を行ったドイツ人にとって、アウシュヴィッツはいうまでもなく「加害」の記録です。それに対して日本はアメリカの原爆投下によって多数の一般市民が死亡したり重い原爆症に苦しんだりしたヒロシマ・ナガサキは、日本人にとって「戦争被害」の歴史ということができます。
しかし戦後日本(人)は、戦勝国アメリカによる原爆投下の「加害」を責めることはせず、(国民的な論理的飛躍を行い)これを一種の「天災(天罰)」と受け止めたのではないかと橘氏は指摘しています。そしてこのことは、(どこまで日本人が意図していたかは別として)きわめて巧妙な戦略であり、ヒロシマは国際社会から「人類史的な悲劇」と見なされることになったということです。
戦後の日本人は、このことにより無意識のうちに「加害」と「被害」(の意識)を相殺したというのが、この論評における橘氏の主張の眼目です。
「たくさん殺したかもしれないが、たくさん殺されたのだから、お互い様だ…」。こうした論理は(日本人にとっては)心理的にごく自然な反応かもしれません。しかしここで問題なのは、「加害」の相手と「被害」をもたらした相手が異なるところにあると橘氏は指摘しています。
中国が日本から侵略を受けたことや、韓国が日本に植民地化されたことは厳然とした事実であり、彼等にとってその被害意識や屈辱感は日本人が原爆により何人犠牲になろうと変わるものではありません。橘氏は、中国が「南京大虐殺」を、韓国が「慰安婦問題」を執拗に持ち出すのは、ある意味、日本人にとって都合のいいこうした「罪の相殺」の意識に対する異議申立てではないかと考えています。
戦争の「痛み」をめぐる橘氏の見解には様々な意見があるでしょう。しかし、例え70年も前のことであっても、朝鮮半島を植民地していたこと、満州地方を中心とした中国大陸に出兵し武力を背景に彼の地に入植していったことが、そこに暮らす中国の人々や朝鮮半島の人々にとっては未だにリアリティーを持った「経験」として認識されていることは間違いありません。
日本人がそうした(蹂躙された側の)人々の「思い」を理解し、寄り添った言葉で語らなければ決して相手には伝わることはないと、橘氏はこの論評で指摘しています。
立場の違う人々に対して「伝わる言葉」で話すことの大切さを、この論評から私も改めて感じたところです。
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