MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2714 Z世代の結婚へのハードル

2025年01月16日 | 社会・経済

 こども家庭庁が今年7月、15歳から39歳の2万人を対象に実施した結婚に関する調査(「若者のライフデザインや出会いに関する意識調査」)によれば、既婚者に結婚相手との出会いのきっかけを尋ねた設問に対し、4人に1人にあたる25%が「マッチングアプリ」と答え、最も多かったということです。 因みに、2位は「職場や仕事関係」で21%、3位が「学校」の10%、そして「友人などからの紹介(9%)」、「パーティーなど(5%)」と続いています。

 調査を行ったこども家庭庁では、この結果を「若い世代を中心に出会いの場は多様化し、SNSの影響が増している」と受け止め、アプリを安全に利用できる環境整備を図るなどSNSを通じた出会いの支援を強化する方針と伝えられています。

 昭和生まれのオヤジとしては、「おいおい、いくら何でも(官民そろって)ネットを信じすぎじゃないの?」とも思いますが、(そもそも)そうした不安や懸念自体を感じないのが「Z世代」の特徴なのでしょう。

 前述の調査によれば、結婚のメインの年齢層である25-34歳の独身女性は、結婚のハードルとして「出会いの機会がない」を最も多く挙げている由。職場の人間関係が濃密だったり、おせっかいな人たちがお膳立てしてくれたりして提供されていた「出会い」の場が、アプリを手繰って求人をしなければ得られなくなったという事でしょうか。

 少子化の前提となる「若者の未婚化」が進む現在の状況と対策に関し、マーケティングディレクターでコラムニストの荒川和久氏が、11月26日のYahoonewsに『若者の結婚のハードルの男女差「出会いがない」というが、出会えれば誰でもいいわけではない』と題する一文を寄せていたので、概要を小欄に残しておきたいと思います。

 先ごろ、「未婚の約7割 相手を見つけたくても何をすればいいのかわからない」というNHKのニュースが話題となったが、1980年代までは「わからない」状態でも、周囲のお膳立てやプレッシャーやお節介の中で「わからないまま結婚していた」からこそ皆婚が成立していたという見方もある。「わからないから結婚できない」のではなく、わからないからこそ結婚できた。まさに、樹木希林さんの名言「結婚なんてものは若いうちにしなきゃダメなの。分別がついたらできないんだから…」そのものだと、荒川氏はコラムの冒頭に綴っています。

 15-39歳までの全国未婚男女を対象に、今年7月にこども家庭庁が行った「若者のライフデザインや出会いに関する意識調査」では、結婚のメインの年齢層である25-34歳の女性が「結婚のハードル」として①「出会いの機会がない」、②「自由や気楽さを失いたくない」、③「結婚しているイメージができない」などを挙げる中、同じく25-34歳の男性は、①「経済力がない」、②「出会いの機会がない」、③「結婚資金が足りない」を挙げている。男性にとっての結婚のハードルは、女性と比べて明らかに経済的要因が多いと氏は話しています。

 これらは如実に現状の「未婚化」の姿を写している。つまり、男性の経済問題は結婚への大きなハードルであり、女性は自分の生き方の志向が結婚とは逆方向に進んでいるというのが荒川氏の認識です。

 「出会いの機会がない」との答えは確かに少なくないが、それはどちらかというと女性側の問題で、より正確にいえば「出会っているが、私がいいと思う相手に出会えてない」という意味でしかない。当たり前だが「相手は誰でもいい」というわけではなく、「私がいいと思う」条件の中に「相手の経済力」は大きな比重として存在しているというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 もちろん、一方の男性も「出会いの機会がない」ことに違いはないが、そこには「たとえ出会ったとしても経済力の査定でことごとく落とされる」という問題が大きい。それが続くから、男たちは「どうせ…」と学習性無力感に陥ってしまうと、氏は事情を説明しています。

 要するに、問題の本質は「出会いがない」のではなく、「男の経済力」が問題となっているということ。(言い換えれば)こうした問題の本質を無視して、「出会いの機会を増やせばいい」とか「婚活支援をすればいい」というのでは、いかにも短絡的すぎるというのが氏の見解です。

 実態として、妻より夫の方が所得の高い「妻の経済上方婚」比率は7割、同額婚が2割、妻の方が夫より高い「妻の下方婚」はわずか1割に過ぎない。しかも、その1割も大部分は夫無収入だと(2022年就業構造基本調査・20代妻子無し夫婦の場合)氏は指摘しています。

 ちなみに、前述こども家庭庁の調査でも、25-34歳既婚女性において「配偶者の年収は自分より上が望ましい」と回答した人は81.7%に及ぶ。仮に、「私は相手の男性の年収なんか気にしない」という女性がいたとしても、自分の年収より大幅に低い相手と知れば、恋愛はしても結婚は断るというのが(この日本では)一般的だということです。

 しかし、だからといって「女性は自分より年収の低い男性と結婚すべき」などと無謀なことを言っても仕方がない。現実的にそうなるはずもなく、自分より稼げない男と結婚するくらいなら、それこそ「自由さを失いたくない」と、女性は結婚を選択しないと氏は言います。

 もちろん、「金があれば男は結婚できる」とは言わない…が、間違いなく「金がない男は結婚できない」。おまけに、20代は30年近く額面給料があがっていない上に、社会保険料などは上昇し、物価高もあいまって実質可処分所得は減っている有様だということです。

 少子化の大きな原因の一つに「未婚化」があることは、既に人く知られているところ。本当に若者の婚姻増を支援したいのであれば、「出会いの機会」以前にこの経済問題をクリアしないとならないだろうと論考を結ぶ荒川氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2713 バズワードで見る現在の中国

2025年01月15日 | 国際・政治

 1970年代末に鄧小平政権が打ち出した「改革開放政策」以降続いてきた「高度成長」から、「低成長」時代に足を踏み入れたとされる中国経済。新型コロナウイルスの封じ込めやバブルの抑制、ネット産業の締め付けなど政府の統制強化が相次ぐ中、少子高齢化の進展なども足かせとなって中国の社会自体が変容の兆しを見せているようです。 

 そうした変化が一番先に、そして如実に表れるのが「若者の文化」なのでしょう。ネット社会が進んだ近年、SNSへの書き込みには社会問題を端的に示した造語が溢れ、若者による数字やアルファベットを使った言葉遊びも各所に見られると昨年11月22日の日本経済新聞が伝えています。(「寝そべるか競争突破か バズワードで見る中国」)

 例えばその一つが「宅男」というもの。日本語の「オタク」に由来する言葉だそうで、日本同様(主にインドアで)アニメやゲームなどの趣味を追求する男性を指すということです。中国でもコンテンツ産業は急成長中であり、宅男ももはや「変わった」存在ではなくなりつつある由。因みに「宅女」は女性のオタクに対する呼び方で、日本語で行けば「腐女子」といったところかもしれません。

 若者の生態の傾向は日本も中国も変わらないもの。そう言えば少子化の進む中国には「単身狗」というバズワードもあるそうです。直訳すれば「ひとりものの犬」といったところでしょうか。独身で恋人もいない男女を指し、もちろんそこにはからかいと自嘲のニュアンスが含まれるとのこと。「適齢期で結婚すべき」という観念が根強いとされる中国社会ですが、経済の低迷により以前のように安定した生活基盤が築けない若者が増えており、結婚の機会を見いだせない自身を卑下して使われるケースが多いということです。

 そうした厳しい環境の中でも、親の期待というのは大きいもの。何事も競争社会の中国では「鸡娃」というワードもバズっているとされています。直訳すれば「鶏の子ども」。厳しい両親が子の成功を夢見て勉強や習い事の予定を詰め込み、プレッシャーをかけて育てることを指しているということです。かつて中国では、鶏の血を注射すれば精神的に興奮して元気になると考えられていた由。鶏の血を注射するくらいのことをしてでも勉強させ、有名大学に進学させたい親の必死さを示していると記事は説明しています。

 一方、そんな中国でも、競争社会の厳しさにそっぽを向き「見ないふり」を選択している若者も多いようです。そんな彼らを表すのが「躺平」という言葉。直訳は「寝そべり」で、就職難や住宅価格の高騰で不安をかき立てられ、将来を高望みしないこと。企業や大学の成果至上主義に嫌気が差し、殻にこもる草食系の生活スタイルを指しているということです。

 そして、それが進んで「セルフネグレクト」の状態にまで荒むと、「摆烂」という状態になるということです。直訳すると「ボロボロのまま放置する」という様子。なかなか定職にも就けず、もうどうしようもないからと「自暴自棄」や「やぶれかぶれ」になる若者を指していると記事は解説しています。

 さて、そうしたバズワードの中で最後に紹介したいのが、「国潮」という近年の中国を象徴するようなキーワードです。記事によれば、中国の伝統と現代のトレンドを融合させた食や衣服、化粧品などの消費のほか、中国文化や習慣を楽しむ行為を指す言葉とされています。

 この言葉自体は、大手通販サイトが中国ブランドを集め宣伝するキャンペーンを打ち火が付いた、言わば「官製」のようなものとのこと。「ディスカバージャパン」ではありませんが、「自分対地の国の素晴らしさを見直そう」というムーブメントを促すもので、「偉大な中国」「中国の夢」を掲げる習近平政権の方針によりそう動きと考えられます。

 最近では、自動車大手の比亜迪(BYD)が電気自動車(EV)の車種名に中華民族の王朝名を付け、この「国潮」の流れにも乗った由。米国の「MAGA(Make America Great Again)」のように、国威発揚の道具として政治的に使われている感もあります。

 いずれにしても、若者言葉やバズワードは時代を映す「鏡」のようなものなのでしょう。特に人々の本音や生の声を聴きにくい中国では、こうした言葉のニュアンスの端々に人々の思いが込められている場合も多いはず。引き続き注目していきたいと、記事を読んで改めて感じたところです。


#2712 タワマンの後始末

2025年01月14日 | うんちく・小ネタ

 最近の首都高速道路を車で走ると、川沿いや臨海部のウォーターフロントを中心に(まさしく)林立するタワマンに目を奪われます。以前の日本ではあまり目にすることのなかった光景だけに、「ああいった場所に住んでみたいなぁ…」と思う若い人たちの気持ちもわからないではありません。

 しかし、例えば災害時の対応や停電の影響、荷物の受け取りからエレベータ渋滞に至るまで、その使い勝手についてはまだまだ不安の残るところ。そのうえ、100年後に建て替え時期を迎えた際に取り壊しに法外なお金がかかると聞けば、(特にシニア世代が)二の足を踏むのも致し方ないことかもしれません。

 そんなことを感じていた折、11月13日のビジネス情報サイト「ビジネス+IT」に、不動産ジャーナリストの榊 淳司(さかき・じゅんじ)氏が、『湾岸タワマンは将来「負の遺産」確定?麻布エリアに「永遠に勝てない」悲しすぎる理由』と題する論考を寄せていたので、(引き続き)指摘の一部を残しておきたいと思います。

  寿命がおよそ100年と言われるRC造のタワーマンション。しかし榊氏によれば、今のところ日本のタワマンで取り壊されたケースは、(氏の知る限り)九州・福岡に1件だけしかないということです。

 その際どれほどの解体費用が掛かったのかは不明だが、このタワマンのケースは異例で、2015年に発覚した耐震偽装ゴム事件の対象物件だった故に築20年程度で取り壊されたもの。しかもこのタワマンは賃貸で、いわゆる「ワンオーナー」。所有者が「ひとりもしくは1社」であるので、オーナーの意思決定のみで解体が可能だったと氏は説明しています。

 一方、分譲型のタワマンの場合には、所有者数は数百人以上であるのが普通のこと。今の日本の法制上では、(解体するには)そのほぼ全員が解体に同意し、かつ費用分担に応じなければならならず、現実的に考えれば区分所有法に従っての解体は非常にハードルが高いということです。

 しかしそれでも、(いくら遠い未来とはいえ)タワマンにも建物としての「終わり」の時は必ずやって来る。なのに、日本にある多くのタワマンは、その「終わり」まで想定されているとは言い難いというのが氏の懸念するところです。

 極端な話、東京の港区や千代田区で山手線の内側にあるタワマンは、建物の「終わり」がやってきても解決策はある。老朽化した建物を取り壊して、建て直せばいいと氏は説明しています。

 例えば、港区の麻布エリアにある500戸のタワマンが築60年を迎えたとする。タワマンの場合、容積率は一杯一杯なので、再建築する新たなタワマンも元の住戸数と同じ500戸しか作れない。ただ、港区の麻布エリアにある500戸のタワマンなら、管理組合は数年の議論を経たとして、も取り壊しての再建築を可決できるはずだと氏は話しています。

 その理由は「コスト」にある。1戸当たりの取り壊し費用はおよそ1,000万円。それに、再建築のためのコストが3,000万円かかるし、3年程度の仮住まいの家賃を2,000万円くらいは見込む必要があるかもしれない。しかしそれでも、500戸のオーナーは喜んで賛成し、合計6,000万円の費用を負担するだろうと氏は言います。

 なぜかと言えば、再建築されたタワマンの1住戸の資産価値が2億円程度に見込まれるから。総額6,000万円の費用負担と3年の仮住まいで、2億円のタワマン住戸が手に入るのであれば、このプランに賛成しないオーナーはいないということです。

 でも、これは港区の麻布エリアという、日本でも最高レベルに不動産価格が高いエリアだからこそ叶うシナリオだというのが氏の指摘するところ。さらに、不動産の資産価値評価や建築コストが現状のままであったら…ということが前提の話だというのが氏の見解です。

 さてそれでは、今盛んにタワマンが建設されている東京の湾岸エリアで、再建築されたタワマンの資産価値が6,000万円に満たない場合はどうなるのか。日本の人口は減少過程に入っている。このトレンドは今後何十年と変わらない。かつ、少子化で大きな人口増も期待できず、東京の住宅価格が現在のように上昇し続けることはあり得ないと氏は指摘しています。

 そんな中、東京という街が膨張し続けることを前提に開発されている湾岸エリアで、半世紀先でもタワマン1住戸が今の貨幣価値にして6,000万円を超える資産価値評価を得ているかどうか。湾岸埋め立てエリアが人気を保ち続ける未来が待つ保証は、現時点ではどこにもないということです。

 タワマンというのは、あくまで「限られた敷地に多くの住戸を作る」…ということに建設する意味(とコスト上のメリット)があると氏はこの論考の最後に記しています。確かに、それは通勤に便利で建物や街も新しくてきれいだからこそ。いくらウォーターフロントの眺望が良くても、実際に住むのに不便であれば(同じ価格帯なら)多くの人が麻布や青山、せいぜい高輪や品川辺りを選ぶでしょう。

 そう考えれば、現在の湾岸エリアにおけるタワマン建設の集中は、「まとまった土地がない」という開発事業者の都合に過ぎないと氏は言います。確かに、人口の減少や急激な高齢化が確実視されている現在の日本で、(例え東京都内とは言え)いつまでも今までのような不動産神話が続くとは考えにくのも事実です。

 都内の各所で次々と建ち上がっていくタワーマンション。確かに短期の「投資物件」としては魅力的かもしれませんが、未来の不動産評価が危うい埋立地で、(ただ「売れるから」という理由で)多くのタワマンを建設し分譲すること自体、子供たちの未来に「負の遺産」を残すことにもなりかねないのではないかと警鐘を鳴らす榊氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2711 タワマンの未来

2025年01月13日 | うんちく・小ネタ

 昨年6月、名古屋市内のタワーマンションに暮らす住人が、隣接地に建設された別のタワマンに眺望が阻害されたとして提訴したことが、不動産関係者の間で話題となりました。

 名古屋地方裁判所に提訴したのは、地上42階建てのタワーマンションの住人3人。大手不動産販売の積水ハウスなどに対し、同社が隣地で開発を進めるタワーマンションのうち30階を超える部分の建設中止を求めて訴えを起こしたということです。

 これを、「お金持ちの(独善的な)権利主張」と捉えるかどうかは別としても、地域の景観や文化、都市機能などに大きな影響を与えるのは大規模住宅開発の宿命のようなもの。特に、大都市圏を中心に超高層マンションの建設計画が次々と進められていく状況を見れば、今後は同様のトラブルが各地で発生してくる可能性は否定できません。

 こうした状況の中、11月13日のビジネス情報サイト「ビジネス+IT」に、不動産ジャーナリストの榊 淳司(さかき・じゅんじ)氏が『湾岸タワマンは将来「負の遺産」確定?麻布エリアに「永遠に勝てない」悲しすぎる理由』と題するちょっと心配な記事を寄せていたので、参考までに(2回に分けて)概要を小欄に残しておきたいと思います。

 いわゆる「タワマン」は、その人気ぶりから現在も次々と新築が続いている。2024年以降に完成を予定している20階建て以上の超高層マンションは全国で321棟、11万1645戸に上り、そのうち首都圏が194棟、8万2114戸で全国シェアの約7割を占めていると、榊氏はその人気ぶりを解説しています。

 タワマンをはじめ、日本で「マンション」と呼称している集合住宅は、ほぼ「鉄筋コンクリート造(以下「RC」)という構造を採用している。RCとは、鉄筋の周りをコンクリートで固めた構造物を、建物の躯体に採用する建築手法のこと。一方、この手法を用いて高層建築物が盛んに建設され出したのはここ80年程度で、世界を見渡しても建築されてから80年以上のRC高層建造物はほとんどないと氏はこの論考で指摘しています。

 そして氏によれば、RCはほかの構造の建物と比べ耐久性に優れているとされているが、それでも、やはり建築物として寿命があり、その耐久性は約100年と言われている由。RC構造の基本は鉄筋とコンクリートでできており、(コンクリートはおそらく数百年の耐久性がありそうだが)内部の鉄(Fe)には「酸化」し得る…つまり錆びる可能性があるということです。

 RCの基本を成すコンクリートはアルカリ性。通常はこのアルカリ性が、コンクリートに囲まれた鉄筋に「不動態被膜」という膜を生じさせて鉄筋の腐食を防いでいると氏は説明しています。

 しかし、長い年月を経て、大気中の二酸化炭素に触れてコンクリートがアルカリ性から中性へ変化したり、塩害によってコンクリート中の塩化物イオンの濃度が高まることなどにより不動態被膜が破壊されたりした場合には、鉄筋が錆びて酸化鉄腐食が進むことがある。鉄が酸化(錆びる)すると、その容積が膨張し、周囲のコンクリートを破壊。RCの躯体構造にひび割れなどが生じて(そこからさらに)空気や雨水が入り込み、強度が保てなくなるということです。

 つまり、いくら丈夫と言っても、RC構造で建造されたすべてのマンションは、鉄筋の酸化(錆び)によっていずれ寿命を迎え得るということ。言い換えれば、RCのマンションとは長く見ても寿命が100年程度の期間限定の集合住宅だというのが専門家としての氏の認識です。

 一方、外国に目を向ければ、築100年以上の建物に現在も人が住むことは決して珍しくない。たとえばパリでは、今でもナポレオン時代に建設された石造りのアパルトマンが健在で、集合住宅として機能していると氏は言います。ローマでは、カエサルの時代から続く石造の集合住宅に今でも人が住んでいる。(説明すれば)これらの建物は石造もしくは煉瓦造で鉄筋が使われていないため、錆びないから何百年でも存在し続けることができるということです。

 しかし、日本のRCマンションではそうはいかない。日本は世界に冠たる地震国であり、石造や煉瓦造の高層住宅は現実的ではない。現に、1923年の関東大震災では東京・浅草の遊園地にあった12階建ての「凌雲閣」が倒壊。およそ10人の死者が出たが、この建物は煉瓦造であったと氏は話しています。以降、この日本では、煉瓦造の高層建築は事実上「ご法度」になった。もちろん、現行の建築基準法でも認められていないということです。

 さて、(そういうことで)今の日本で高層建築を作る場合は、事実上RC一択とならざるを得ない。もちろん、日本の法的な建築基準は世界最高水準の耐震性を定めており、その分安全性は非常に高いと氏は指摘しています。

 しかしその一方、こうした安全性との裏返しで、RCは建物が寿命を迎えた後の「始末」、つまり解体に手間がかかるというのが氏の懸念するところ。特に、高層建築物であるタワマンの場合、建築的に寿命を迎えて解体する場合には、通常タイプのマンションに比べて恐ろしく高額の費用も発生すことが予想されるということです。

 100年先はどうせ生きていないのだから、取り壊しや建て替えなんて「知ったこっちゃない」と言ってしまえばそれまでですが、不動産を「投資物件」ではなく「資産」として残そうと思えば、そうも言っていられません。

 後世の誰かが「ばば」を引くことになるかもしれない物件を、(今節税できるからと言って)子孫に残そうというのも何とも無責任な話。確かに、解体技術は今後100年で進むかもしれませんが、(解体困難とされる)原威力発電所の例もあるところ。少なくとも購入に関してはもう少し慎重に考える必要もあるのかなと、改めて感じている次第です。(→「#2712 タワマンの後始末」に続く)


#2710 平等幻想がもたらす残念さ

2025年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 将棋棋士の羽生善治氏は著書『決断力』に、「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている」と記しています。

 「頑張れば何とかなる」と思ってやってきたのに、発射台の違いは如何ともしがたい。「親ガチャ」という言葉があるけれど、気が付けば先行者との差は開くばかりで、追いつく気力もなくなりそうだという若者の声も聞こえてくるところ。それでもモチベーションを維持していけるかが勝負だと言えるのは、やはり若くして七冠を独占した羽生善治氏が稀代の天才だからなのでしょう。

 そう言えば、「お笑い怪獣」の異名をとるタレントの明石家さんま師匠は、10年ほど前のラジオ番組(MBSラジオ「ヤングタウン土曜日」)で、「努力が報われるなんて絶対に思っちゃいけない」と語っているということです。(『明石家さんま「努力報われると思うな」発言の深さ』2024.5.30 東洋経済ONLINE)

 番組中、ゲストのアイドルが「努力をしていれば必ず誰かが見てくれていて、報われることがわかりました」と発言すると、「それは早くやめたほうがええね。この考え方は…」とバッサリ。その理由について師匠は、「こんだけ努力してるのに何でっ?てなると腹が立つやろ。人は見返り求めるとろくなことないからね。見返りなしでできる人が一番素敵な人やね」と諭したということです。

 もともと期待するから裏切られる。最初からそんなことを気にせず、ただ目の前のことに尽くせる人こそが真の「天才」だということでしょうか。(まあ、どちらにしても)不平・不満ばかりを口にする人が「カッコ悪い」のは誰もが認めるところ。短い人生、少しはカッコよく生きたいと強がってみるのも悪くはないかもしれません。

 そんな(なかなか思い通りにならない)人生を、心穏やかに過ごすにはどうしたら良いのか。11月8日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に、精神科医で作家の片田珠美氏が『「自分はこんなに優秀なのに…」日本社会で根強い「平等幻想」が生み出す「大きな不満」』と題する一文を寄せていたので、参考までにその指摘の一部を残しておきたいと思います。

 戦後の驚異的な経済成長により、たとえ一時的であっても「一億総中流社会」を実現したこの日本で浸透した、「平等幻想」というファンタジー。しかし、その後格差が拡大するにつれこの幻想を持ち続けるのはきわめて困難になり、現在ではもはや風前の灯といっても過言ではないと片田氏はこの論考に綴っています。

 一方、皮肉なことに、戦後の民主教育によって「みんな平等」と教え込まれ平等幻想が浸透したからこそ、(その後遺症として)ちょっとした差に敏感になったという側面も否定できない。「みんな平等」という考え方が浸透するほど、「同じ人間なのに、なぜこんなに違うのか」という思いにさいなまれ、歯ぎしりせずにはいられなくなる。「あいつはあんなに恵まれているのに、なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのか」と怒りを覚えることもあるはずだということです。

 歯ぎしりも、怒りも、「みんな平等」という考え方が浸透し、他人と自分の間に残る違いにより敏感になったことによって一層激しくなった。江戸時代のように歴然たる身分の差があった時代なら、違いがあってもそれほど気にならなかった。いや、より正確には、あきらめるしかなく、気にしてもいられなかったろうと氏は言います。

 ところが、世の中に平等思想が浸透すればするほど、ちょっとした違いにも敏感になる。もともと別の世界の「違う人間」だと思えば違いがあっても腹が立たないのに、現代の我々は「同じ人間」だと刷り込まれているので、少しでも違いがあると許せないということです。

 特に、かつて「一億総中流社会」を築き上げた日本では、その頃に浸透した「みんな平等」という意識がいまだに根強く残っている。もちろん、それ自体は悪いことではないが、(現在のように)「みんな平等」とはいえない現実を思い知らされる機会が増えれば増える程、「平等なはずなのに、なぜこんなに違うのか」と不満を抱かずにはいられなくなると氏はしています。

 こうした不満は、羨望を生み出しやすい。だから、羨望で胸がヒリヒリするような思いをしながら、羨望の対象が転げ落ちるのを今か今かと待ち構えるようになる。ところが、現実はなかなかそうならないのでしびれを切らし、羨望の対象を少しでも不幸にするために不和の種をまいたり、根も葉もない噂を流したりする人も出てくるということです。

 とりわけ、自身を過大評価していて、「自分はこんなに優秀なのに、能力を正当に評価してもらえない」「自分はこんなに頑張っているのに努力を認めてもらえない」など、承認欲求をこじらせている人ほど「なぜこんなに違うのか」と不満を募らせやすいと氏は指摘しています。

 羨望の対象が周囲から認められ高く評価されているのは、元々の能力に加えて本人の努力のたまものだったとしても、そういうことは彼らの目には入らない。結果として、「努力しても報われない」「頑張ってもはい上がれない」などと思い込み、地道な努力をコツコツと積み重ねようとはしなくなるということです。

 さて、野球の大谷翔平選手だってパリで活躍したオリンピアンたちだって、その技術は日ごろの血の滲むようなトレーニングに裏打ちされたもの。闇バイトで一攫千金を狙うような感覚では、光る成果が得られないのは言うまでもありません。

 努力もせず不平ばかり漏らしていても、承認欲求が満たされるわけがない。だから、ますます腐ってしまうと氏は言います。そうなると、陰で他人の足を引っ張るようなふるまいを繰り返すわけで、こうした悪循環に陥ったらなかなか抜け出せるものではないと話す氏の言葉に、私も改めて自らを省みたところです。


#2709 あなたの隣の「闇バイト」

2025年01月11日 | 社会・経済

 メディアからは「トクリュウ」などと呼ばれる「匿名・流動型犯罪グループ」を首謀者とする犯罪が増加、凶悪化していると伝えられています。「闇バイト」などを募って集められた実行役による強盗殺人なども頻発するようになり、警察当局も重点的な捜査、取り締まりを強化しているようです。

 匿名のアカウントを巧みに使い分け、勧誘役から指示役、実行役に見張り役、運搬役など複数の人物が入れ替わりながら犯行を行う手口は、もはや組織犯罪と呼ぶべきもの。しかしその実態は犯罪素人の寄せ集めで、(後先考えない現場の行動も含め)それだけ杜撰さや粗暴さが目立ちます。最近では住宅街の一般住宅までもがターゲットとなり、窓を割って押し侵入した後の殴打や死亡、在宅女性の拉致・誘拐など、犯行の内容はもはや「世界一安全」と言われた日本のものとは思えない乱暴さです。

 こうしたトクリュウによる犯罪の摘発が難しいのは、犯行を計画する指示役にたどり着くのが難しいところを捕まえるのが非常に難しいとされています。2023年に特殊詐欺で逮捕・書類送検した2455人のうち、その組織・犯行の中心に近い人物「中枢容疑者」は49人(2.0%)にとどまった由。一方、特殊詐欺の受け子は「SNSによる応募」が約42%を占めているとされ、求人サイトやネット掲示板からの応募を含めると約半数に上るということです。

 例えお金が欲しかったとしても、なぜこんな(割に合わない)危ない仕事にほいほいと乗っかり、犯罪に手を染めてしまう若者が多いのか。その理由についてライターの武藤弘樹氏は、経済情報サイト「DIAMOND ONLINE」に寄せた一文(『息子・娘が「トクリュウ」になる理由、ネット募集から始まる“危険な誘い”の実態とは』2024.10.26)において、「若い世代の(ネットへの)オープンさが、そのまま付け入る隙になっている」と話しています。

 情報化が進んだこの日本でも、30代以上の世代はネットに対して一定の警戒心や緊張感、もっと言えば決して拭い去れない猜疑心を持っている。ネットショッピング全盛のこの時代にあっても「怖いからネットを通じて買い物をしたことは一度もない」という昭和世代も多いということです。

 一方、そうした猜疑心を、(Z世代と呼ばれる)若い世代は持ち合わせていないと氏は言います。確かに、(我々の世代には信じられないことですが)イマドキの若者たちの間では「マッチングアプリ」が結婚相手との出会いの主流と聞けば、そうした感覚を疑う余地はないでしょう。

 いずれにしても、ネット情報に対してピュアでオープンマインドである点は彼らの美徳だが、そこが闇バイト募集が付け入る隙にもなりえてしまっているというのが氏の認識です。闇バイトの募集は、大抵の場合「時給でなく“1件〇万円”といった高額報酬」「“ホワイト案件”など仕事の内容に具体性がない」「連絡はDMで」といった(ある意味いい加減な)条件で若者の注意を惹こうとする。少し気をつければ見極められるはずだが、それでも若者たちは引っかかってしまうと氏はしています。

 実際にDMしてみると最初の反応はものすごく丁寧で、「登録のために個人情報を送ってください」などと言われる。そこで言う通りにすると、今度はその個人情報をもとに「仕事を断れば家族に危害を加える」などと脅し、犯行の加担を成立させるのが一般的な手口だということです。

 社会経験が少なく窓口が丁寧というだけでコロッと騙されてしまう点、家族をダシに使われて冷静な判断を奪われてしまう点は、特に現代の若い人にとっての「弱点」となっているようだと氏は話しています。闇バイトの脅威は他人事でもなんでもなく、我々の日常生活のすぐ隣にあるということ。増加・凶悪化の一途をたどるトクリュウの犯罪に対して、警察は新たな体制構築による取り締まりの強化や、広域的な操作連携の強化などの施策を行っているが、現行法の枠組みの中では捜査や規制が及ばない面もあるのは否めないということです。

 まずは、若い世代それぞれが、(人生を破綻に導く)トクリュウによる犯罪や闇バイトのリスクを強く意識し、警戒心をもって情報に当たること。何より「一件〇万円…」といった楽して稼げる「うまい話」など、この世の中にはないことをしっかり自覚する必要があるのでしょう。

 「浜の真砂は尽きるとも…」とはよく言ったもの。次々と現れる新しい犯罪の形態は、一つ一つつぶしていくしかありません。私たちの日常生活において、トクリュウがこれまでにない新たな脅威であることは間違いない。よって、(これまでにない)「新たな対策」もまた取られるべきだと話す武藤氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2708 銀行の貸金庫は「パンドラの箱」

2025年01月10日 | ニュース

 昨年暮れのニュースで話題になったのが、三菱UFJ銀行の40代女性行員が東京都内の支店の貸金庫から顧客の金品を繰り返し盗んでいた事件。東京都内の2支店で営業課長などを務めていた彼女は、スペアキーを使って無断で金庫を開錠し中に入っていた顧客の現金を自分のものにしていたということです。

 被害者は少なくとも60人にのぼり、被害額も分かっているだけで10億円に上る由。現金を1円単位で厳しく管理している銀行でこれまで発覚しなかったのは、現金を盗み出した貸金庫に顧客が訪れた際には、他の顧客の貸金庫の現金を一時的に補塡し帳尻が合っているように偽装していたからとのこと。私自身は「貸金庫」というものを使ったことはありませんが、あらためてその存在の「危うさ」と、管理の(意外なまでの)杜撰さに驚いた人も多かったのではないでしょうか。

 そもそも、(話には聞いていた)銀行の各支店などにある「貸金庫」とはどういう存在で、どんな人が利用し、中には何が入っているのか。12月13日の「東洋経済ONLINE」(「三菱UFJ銀行「貸金庫事件」が開けたパンドラの箱」)がその辺りの事情も含め分かり易く伝えているので、この機会に少し勉強してみたいと思います。

 事件に関する三菱UFJ銀行の(これまでの)発表によると、貸金庫からの資産の窃取は練馬支店、玉川支店の2カ店で管理職だった女性行員が行っていたもの。被害者は約60人、被害総額は十数億円に上ると記事はその冒頭に記しています。

 関係者によれば、元行員が盗み取った多くは「現金」だった由。同行は、貸金庫に格納できる対象を規約に例示しているがその中に「現金」はなかった。しかし一方で、格納できないものとして「危険物や変質、腐敗のおそれがある等、保管に適さないもの」が挙げられているだけで、そこにも「現金」の文字はなかったということです。

 普通、「金庫」と言えばお金を入れるもの。しかし、こと貸金庫に関しては、「現金」を入れないことがデフォルトとされていた。でも、どこにも明確に「ダメ」とは書かないことで、いわば「大人の了解」「グレーゾーン」として扱われていたということでしょうか。

 もちろん、(被害の状況からも判るように)多くの顧客はそれを承知の上で貸金庫を利用していたのでしょう。そしてこれは件の三菱UFJ銀行に限ったことではなく、全国津々浦々の金融機関の支店で同じような使われ方をしていることが予想されます。

 さて、そう考えれば今回の事件では、元行員が行った窃取という犯罪行為以外にも、もう一つ問われるべき視点があると記事は指摘しています。

 それは、「なぜ銀行の貸金庫に現金を格納するのか」という根本的な疑問です。当然ながら銀行には、預金窓口もあればATMもある。貸金庫の契約者は口座を持っていることが前提なので、現金をわざわざ貸金庫に入れる必要がどこにあるのか?

 この合理的とは言えない行動から浮かび上がるのは、貸金庫の中にあったのが「表に出せない金」ではなかったのかという疑念だと記事はしています。実際、多額の現金が窃取されたにもかかわらず、被害届があまり出ていないとのこと。貸金庫の中を覗いて「あれ?」と思っても、入れてはいけない場所にあってはならないお金を隠していた身としては、なかなか言い出せないのも頷けます。

 一般的には公正証書や不動産の権利書などを入れている事例が多いと考えられる貸金庫ですが、記事は「相続時の資産をごまかすため、あるいは現金での報酬など課税対象となる所得をごまかすために格納しているケースはあるかもしれない」と話す関係者の声を伝えています。

 今回の事件の舞台となったのは、わずかに都内の2カ店のみ。しかし、わずか2カ店の、それも一部の貸金庫に十数億円近い現金があったことを考えれば、全国の銀行支店の貸金庫にはいったいどれほどの現金が潜んでいるのだろう。仮に巨額の「脱税マネー」が全国の金融機関の貸金庫に潜んでいるのであれば、それ自体、見過ごすことはできない問題だと記事は指摘しています。

 記事によれば、現在、三菱UFJ銀行に対し銀行法24条に基づく報告徴求手続きを進めている金融庁が、(今回の事件を踏まえ)貸金庫業務を営む全国の金融機関に対し利用実態の調査に乗り出す可能性も高いとのこと。もちろん、貸金庫に対する税務当局の視線も厳しくなることでしょう。

 実際のところ、銀行にとっての貸金庫業務は、年間数万円の利用手数料を徴収できる一方で、厄介な問題を抱えるようになっていると記事はしています。

 例えば、貸金庫の存在について「本人以外に通知不可」とする契約を結んでいる場合、本人が認知症などになった際には「開かずの扉」となってしまう。「開かずの扉」となった貸金庫では本人の所在がわからないケースも珍しくなく、さらに「中身が何かわからないものを銀行が預かっていいのか」というコンプライアンス上の問題も大きくなっているということです。

 金利が上昇した現在、貸金庫のような手数料ビジネスよりも、貸し出しや有価証券運用などにリソースを割くほうが収益性は高まる。金融庁などの要請により管理の手間が大幅に増すようなことになれば、貸金庫業務から撤退する金融機関が出てきても不思議ではないと記事は最後に指摘しています。

 しかし一方で、金融機関が相次いで業務から撤退し、金融庁の監督権限が届かない民間企業が貸金庫ビジネスの主体となれば、それこそ脱税や犯罪収益の現金が潜む温床となりかねないとの懸念も残る由。様々な課題や問題をあぶり出すことになった今回の貸金庫事件だが、三菱UFJ銀行の女性行員が開けたのは(何が出てくるかわからない)「パンドラの箱」だったのかもしれないと話す記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2707 グリーンランドは誰のもの?

2025年01月08日 | 国際・政治

 世界地図で見ると、カナダの右上に大きな存在感を見せているのがグリーンランド。子供の頃に教室の壁に貼られていた(メルカトル図法の)地図ではアフリカ大陸に匹敵する巨大な面積で描かれていたため、子供心に「デンマークって国はこんなに広い国土を持っているんだ…」と羨ましく感じたのを思い出します。

 グリーンランドの実際の面積は約2,166,000 km²。アフリカ大陸の30,370,000 km²には遠く及びませんが、日本の約6倍の広さを持つ世界最大の「島」であることに間違いはありません。

 内陸部を中心に島の85%ほどは年間を通じ氷冠に覆われているとされ、氷床のない沿岸部を生活圏に暮らす人々はおよそ約5万7,000人(石川県七尾市と同じくらい)。世界でもっとも人口密度の低い地域として知られ、実際1 km²あたりの人口密度はわずか0.026人(日本は337.2人)に過ぎないとされています。

 985年ごろにバイキングによる入植がはじまったグリーンランドは、15世紀を境に一旦西洋の歴史から消えていましたが、16世紀半ばに「再発見」。1917年にデンマークの支配が全島に及んで同国の植民地となり、(政治的には)1953年には本国の県と同様の自治権を得たということです。

 現在、国際的にはデンマークの「自治領」との位置づけで、2009年には「投票」を通じて独立を主張できる権利を獲得しているとのこと。2023年には自治政府として初めて作成した憲法草案を公表しているとWikipediaにあったので、(経済的・政治的に可能かどうかは別にして)民主的な手続きを経て宣言をすれば、国家として正式に独立することもできるということなのでしょう。

 さて、なぜ急にグリーンランドの話をするのかと言えば、今年に入って米国のトランプ(次期)大統領が同島の購入に強い意欲を示している旨の報道があったから。デンマークが(自治領としての)所有権を手放さなければ高い関税で対応する構えを示したというニュースに、驚いた人もきっと多かったことでしょう。

 トランプ氏は1月7日の記者会見で、グリーンランドに関し「アメリカの国家安全保障と世界の自由のために必要だ」と改めて強調。「人々はデンマークがグリーンランドの何らかの法的権利を持っているかどうか知らない。もし、持っているのなら放棄すべきだ。それは、国家安全保障のために私たちがグリーンランドを必要としているからだ」と話したと伝えられています。

 報道によれば、トランプ氏は会見で、「グリーンランドを獲得するためなら、軍事的、経済的措置に踏み切らないとは保証できない」とまで言及した由。マンガ「ドラえもん」に登場するジャイアンも「かくや」という、金と力に物を言わせて脅すその理不尽さには(常識的な)人を呆れさせるだけのインパクトがあります。

 まあ、実際のところ、北極海を望むグリーンランドが安全保障上の戦略的要衝にあり、またウランや金、レアアース(希土類)などの地下資源に恵まれているのもまた事実。トランプ氏が2019年にもグリーンランドの購入を主張し、デンマーク政府に拒まれた経緯も広く知られています。

 当時のデンマークのメッテ・フレデリクセン首相は、トランプの申し出を「ばかげている」と一蹴したと伝えられています。また、今回の動きに関しても、デンマークの国防省はトランプ氏がグリーンランド購入の意向を公に示した直後、グリーンランドの防衛費を大幅に増額することを発表したということです。

 さて、世界がその推移を見守る中、(それでは)人口僅かに5万7000人を代表する当のグリーンランド自治政府はどのような反応を示すのか。デンマーク自治領グリーンランドのエーエデ自治政府首相は住民に向けた1月3日の演説で、デンマークからの独立を目指す意向を強調し、従来の姿勢を大きく転換したと報じられています。

 トランプ氏がグリーンランドを購入への関心を表明した昨年末、エーエデ首相は「グリーンランドは売り物ではなく、決して売らない」と拒否したと伝えられていました。しかし(エーエデ首相は)今回の演説ではトランプ氏に言及せず、「我々の未来は我々自身で行動を起こし、形作っていく。だれと緊密に協力するか、だれがわれわれの貿易相手なのかに関してもそうだ」と述べ、他国との協力を強化したい意向を示したということです。

 グリーンランドのデンマークからの独立に関しては、デンマーク当局が1960年代にグリーンランドで強制産児制限を行うなどの非道な行為を行っていた事実などが明らかにされ、近年、独立の機運が高まっていたとされています。エーエデ首相自身も「歴史と現在の環境は、われわれのデンマーク王国への協力が完全な平等の創出につながらなかったことを示している」と話し、諸外国との協力に障害があるのは「植民地主義の手かせ」だとして障害を取り除く行動を起こす必要性を訴えたと報じられています。

 さて、極北の地に広大な国土と多様な資源を持つグリーンランドが「誰のもの」かは正直よくわかりませんが、歴史的な経緯を踏まえても、まずは現在その地に暮らす人々が自ら判断すべきことであるのは間違いないような気がします。

 一つ間違えば、超大国の狭間で世界を大きな混乱に巻き込むことにもなりかねないグリーンランドの行方。住民の中には(米国の)アラスカ州やハワイ州のように、世界一の超大国の一員として安定した立場を望む声もあるでしょう。

 報道などによれば、グリーンランド住民5万7000人の過半が独立を支持している由。しかしその一方で、例え「独立」したとしても、この人数と経済規模で(大国の助けなく)広い国土や生活水準、インフラなどを維持していくにはかなりの困難が伴うことも予想されます。

 トランプ氏の「思い付き」によって、降ってわいた購入騒動。住民の皆さんには「いい迷惑」とは思いますが、個人的には(この際)当事者となったグリーンランド自治政府が合衆国と対等に渡り合い、(これでもかというような)条件闘争を繰り広げるくらいの「したたかさ」を発揮してほしいと考えるのですが、それではあまりに無責任すぎるでしょうか。


#2706 米国の政権交代と民主主義の衰退

2025年01月08日 | 国際・政治

 2024年11月の米国大統領選で当選したドナルド・トランプ氏。今年1月20日の就任式を機に、大統領に返り咲くことが決まっています。世界の大富豪や経済人が(トランプ氏が滞在する)フロリダのパームビーチに秋波を送る中、東京商工リサーチが行った調査によれば、トランプ氏が米国大統領に就任することで業績面に「マイナス」の影響があると回答した日本企業は28.1%で、「プラス」と回答した企業の8.6%を19.5ポイント上回ったということです。

 産業別では、10産業すべて「マイナス」の回答が「プラス」を上回り、特に、「マイナス」回答率では、農・林・漁・鉱業が43.5%、製造業が34.5%と際立った由。関税政策では、すでに中国への追加関税や、各国一律10~20%程度の関税を課すことを主張しているトランプ氏に不安を感じている企業は多いようです。

 もっとも、そうした影響自体がトランプ氏の狙いとも言えるところ。就任前から各国の政治や経済に揺さぶりをかけ米国の影響力を最大限に発揮させようという戦略は、既に半分成功していると言えるかもしれません。

 「何をしでかすかわからない…」世界が抱くそんな警戒感を踏まえ、エール大学教授で哲学者のジェイソン・スタンリー氏が12月18日の日本経済新聞(特集「トランプ再び」)に『「一党独裁」3千選否定できず』と題する論考を寄せ(トランプ氏を思いっきりこき下ろし)ているので、参考までに小欄でその内容を紹介しておきたいと思います。

 トランプ氏は権力を1人で牛耳る「パーソナリスト(独裁者)」。次期政権はワンマンな一党独裁のようなものになるだろうと、スタンリー氏はこの論考の冒頭で予言しています。

 イデオロギーがないから「ファシスト」ではないとの意見もあるだろう。しかし、移民や性的少数者(LGBTQ)が国家や家族を脅かすと扇動し、「救えるのは自分だけ」と主張するのはファシスト的で、トランプ運動の中核だと氏は言います。

 世界一の経済大国で多くの貧困や極端な富の格差を目にし、現状に強烈な不満がある米国の有権者には、互いに譲り合う制度である民主主義が弱々しく見える。民主主義が(実際に)人々を幸せに豊かにしない限り、人々は強い独裁者に投票するというのが氏の指摘するところです。

 一方のトランプ氏はマフィアのボスのようなもので、人々に望むのはまず「忠誠心」。第1次政権で登用した有能な人材は最後に「彼は独裁者だ」と背いたが、同じ過ちを繰り返さぬよう、不祥事など問題がある人々を味方につけるだろうと氏は言います。なぜなら、(脛にそうした傷があればこそ)相手をコントロールできるから。能力より忠誠心で部下を選ぶとは、そういうことだということです。

 いずれにしても、トランプ氏の最終目標は刑務所に入らず、自分と家族を裕福にし、死ぬまで権力の座に居座ることのはず。我々は初代大統領ジョージ・ワシントンが任期2期で退く英雄的な決断をしたと習ったが、「英雄ではない人」は2期で退くだろうか。我々は、今後、彼が居座ることなどないと思い込もうとしているだけだと氏は続けます。

 合衆国憲法は「大統領職に2回を超えて選出されることはできない」と定めるが、おそらくトランプ氏は気にしない。事業家としても法律など気にしていなかった。こうした人物を打ち負かすのは非常に厄介だというのが氏の認識です。

 (トランプ氏が主導した)外国人やLGBTQを排斥する政治が成功した背景には、現状の失敗があるとスタンリー氏は述べています。米国の人々は「民主党は偽善的」との怒りを抱いている。リベラルなエリートに恥をかかせ、苦しめたいというのがトランプ氏と支持者の共通の願望であり、「報復」として顕在化したのが今回の選挙結果だということです。

 共和党は(その手段として)真実と虚偽を「区別」する仕組みを意図的に壊した。メディアは双方の意見を平等に伝えようとし、それがまた逆に真実を潰す。そして、言論の自由を利用して虚偽を含めたあらゆる意見が同等になると、人は何を信じていいのか分からなくなると氏は言います。

 世界が米国の現状にいまさら驚くことすら既になくなった。米国がイスラエルのネタニヤフ政権を全面支持し、パレスチナ自治区ガザで膨大な犠牲を出していることで、すでに米国の国際的評価は深く傷ついている。民主化の推進や人権問題に対する圧力は、今やほとんど期待できないということです。

 スタンリー氏はこの論考において、民主主義の最大の問題は「人々が暴君に投票すること」だと厳しく指摘しています。そして、暴君に投票させないように不平等を解消するには、(残念ながら)多くの時間がかかるということです。

 人々はウソをつくトランプ氏を偽善的と思わず、偽善的な政治家の集まりで弱々しい民主主義を敵のように見る。古代ギリシャのプラトンが民主主義は専制政治に転落すると考えた理由もそこにあると話す政治哲学者としてのスタンリー氏の言葉を、私もこの論考で大変興味深く読んだところです。


#2705 なぜ「粉飾倒産」が増えているのか?

2025年01月07日 | 社会・経済

 赤字決算を黒字に偽ったり売上の過大な水増しや資金由の不正流出などを隠ぺいする(いわゆる)「粉飾決算」の発覚による倒産が急増していると、昨年10月8日の「東京商工リサーチ」が報じています。記事によれば、特にコロナ禍の業績悪化を隠ぺいし事業再生を目指す企業で目立つ由。2024年度上半期(4-9月)だけで11件(前年同期比120.0%増)と、前年度同期の2.2倍に達しているということです。

 タイミングとしては、(いわゆる「ゼロゼロ融資」などによる)コロナ禍の資金繰り支援で隠れていた粉飾決算が、事業継続を求めて金融機関などに支援を要請する際に発覚したり、粉飾決算を告白したりするケースが目立つとのこと。「粉飾決算」による倒産の多くは負債1億円以上で、10億円以上が8割以上(同81.8%)に達するなど、既に「手のつけようがない」状態で発覚するケースが多いのが特徴のようです。

 因みに、業歴でみると最も多いのは「創業30年以上」の実績のある老舗企業とのこと。コロナで傷んだ会社をなんとか復活させたい…という気持ちが強い余りにコンプライアンスに触れる行為に走ってしまったのでしょうが、その見返りは厳しいものだということでしょう。

 企業倒産を巡るこのような状況に対し、経済評論家の加谷珪一氏が「10月30日の総合情報サイト「Newsweek日本版」に、『日本で「粉飾倒産」する企業が増えている理由...』と題する論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 粉飾決算が発覚して倒産・廃業するケースについては以前から一定数存在していた。しかし、(近年は)コロナ危機によって政府の手厚い支援策が実施されていたことで、経営不振が表面化しにくい状況だったと加谷氏はこの論考で説明しています

 しかし、コロナからの景気回復に加え、金融正常化に伴う金利の上昇で銀行のスタンスに変化が生じ始めた。企業の資金繰りをめぐる環境が変わり、今後は粉飾決算の表面化や倒産がさらに増える可能性があるというのが氏の指摘するところです。

 一口に「粉飾」と言っても、企業が不正会計を行っていても、資金調達環境に大きな変化がなければそう簡単には外部に発覚することはない。粉飾決算を行う企業はどう変えれば外部から疑われないか熟知しており、取引先や金融機関側が不正の存在を前提に動かない限り表面化しにくいのが現実だと氏は言います。

 ではなぜ、このタイミングで粉飾が発覚するケースが増えたのか。政府は20年、コロナ危機への緊急対策として、実質無利子・無担保で融資を行う、「ゼロゼロ融資」と呼ばれる支援策を実施した。氏によればそれは、パニック的な倒産を回避するという点で一定の役割を果たしたものの、経営が行き詰まっている企業を抜本的に救済するための仕組みではなかったということです。

 (そして2024年に入り)この「ゼロゼロ融資」の返済がスムーズにできず、金融機関に対して返済猶予などを申し入れる企業も増えてきた。そうなると、銀行側は当該企業の経営状況について改めて審査を行うことになるので、その過程で粉飾決算の事例が表面化するケースが目立つようになったということです。

 こうした動きに拍車をかけそうなのが、日銀による金融正常化だと氏は続けます。日銀が利上げを実施したことで、企業に対する貸付金利にも変化が生じている。金融機関が融資条件を変更する場合は「再審査」が行われるケースも多く、今まで審査対象になっていなかった項目もチェックされることになるので、粉飾が表面化しやすいということです。

 しかしながら、一般的には倒産数の増加は問題とされるが、(それ自体は)一定数の企業が新陳代謝によって交代することは市場メカニズムが健全に機能している証左であり、倒産が少ない状態というのは問題が先送りされていることの裏返しでもあると、加谷氏はこの論考の最後に指摘しています。

 経営に行き詰まった企業が倒産し、優良企業がその従業員や営業基盤を引き継ぐことは生産性の向上と賃上げにつながる。幸いなことに今は空前の人手不足であり、企業倒産が増えても失業率が急増するリスクは少ない。粉飾倒産の増加と銀行の融資姿勢の変化は、来るべき時が来たというサインと捉えることもできるということです。

 さて、(無利子無担保で、長い返済猶予期間があった)「ゼロゼロ融資」の返済が始まり、一定数の企業が「借り換え」や(「リスケ(リスケジュール)」などと呼ばれる)「条件変更」に動いているのは広く知られるところ。こうした中でいよいよ、市場において淘汰されるべき企業群が、順次浮かび上がってきているということでしょうか。

 一部の経済アナリストには、「ゾンビ企業を延命させた」と評判の悪かった「ゼロゼロ融資」。その賞味期限を迎え、「正常化」に向けた動きが(まずは)こうした形で表れ始めている(ということ)だろうなと、私も改めて感じているところです。


#2704 自分が死んだ後は別にどうなってもかまわない…

2025年01月06日 | 社会・経済

 バブル経済が崩壊したとされる1991年から2020年代までの期間を指して、「失われた30年」などとする呼び方が定着して久しいものがあります。そして、そこに生み出されたのが、時代の中で「氷河期世代」と名付けられた人々です。

 「氷河期世代」とは、1990年代~2000年代前半にかけて就職期を迎えた世代で、1970年から1982年に生まれた人々のこと。2024年現在、彼らも既に40代中盤から50代のシニア一歩手前、働き盛りの中年期を迎えています。

「就職氷河期」と騒がれた厳しい経済環境の下で世に出た彼らの、現在の就労状況を(2023年の労働力調査で)確認すると、総雇用者692万人に対し、非正規就労者が204万(雇用者の29.5%)にも及んでいることがわかります。実は、この非正規就業者の男女比は、男性30万人に対し女性は175万人ほど。非正規の実に9割近く(85.7%)が女性で、30年ほど前の就職氷河期の影響が特に女性の間に強く残っている状況が見て取れます。

 因みに、1995年に25歳だった(これらの世代の)若者が、50歳を迎えたのは2020年のこと。実はこの年の国勢調査で、50歳時未婚率、いわゆる「生涯未婚率」が男女とも過去最高記録(男28.3%、女17.8%)を打ち立てています。厳しい経済環境の中で結婚できなかった(しなかった)人は男性で約3割を数えることから、(こちらについては)特に結婚に当たって「経済力」を求められる男性に大きな爪痕を残しているようです。

 そして、ここからが「これから」の話。彼ら「氷河期世代」は、この国の社会にどのような歴史を刻んでいくことになるのか。10月16日の経済情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に作家でラジオパーソナリティーの御田寺 圭(みたでら・けい)氏が『「自分の死後はどうでもいい世代」を生み出した日本の末路』と題する一文を寄せていたので、参考までに小欄に概要を残しておきたいと思います。

 ロスジェネ世代(いわゆる「氷河期世代」)の先頭が50代に入り、十数年後には立派に高齢者層の仲間入りを果たす。現在の高齢者層は基本的に皆婚時代を生きた人びとであるが、ロスジェネ世代はそうではない。彼らはこの国において「生涯未婚・子無し単身高齢者」が多く含まれる初めての世代だと、御田寺氏はこの論考で位置づけています。

 子どもを持たない高齢者の急激な増加は、すなわち「資産(≒遺産)を増やして次世代に残さなければならない」という時間的な連続性の意識を持たない人びとの増加を意味する。彼ら単身高齢者層は独り身であるがゆえに次世代に継承する資産形成の動機も持たず、(≒リタイアに必要な資金的ハードルも低くなり)労働市場からの離脱も早くなるというのが氏の認識です。

 彼らは、結婚せず子どもを持たないから将来の消費者(購買層)や社会保障の担い手をつくらない。また、自身の生活コストが低いからそこまで貯金や資産形成をする必要にも迫られず、結果、労働市場のメインストリームから早々に撤退する者が増加するだろうと氏は見ています。そしてこの状況は、社会経済にとってある意味大きなリスクになるというのが、この論考において氏の指摘するところです。

 例えば、自分ひとりが生きていくには困らない程度のストック資産を形成して早期に職から離れた者は、現在の社会制度上は所得が乏しい「経済的弱者」としてカウントされ、公的支援の対象者として捕捉される。冗談のような話だが、現在の社会支援の対象として引退世代(高齢者)を想定しているから生じる(これは)一種のバグだということです。

 言ってしまえば彼らにとっての早期退職とは、若いうちから自分を老人に擬態して税や社会保障の負担から逃れつつ、あわよくば給付を受けることさえ可能にしてしまう一種の「裏技」的な手法だと氏は指摘しています。

 これからバリバリと世のため人のために汗を流してもらうことが期待されている働き盛り世代の大量引退は、人手不足をさらに加速させる。そんな彼らが早々と「隠居し」て給与所得者を辞めてしまえば、名実ともに住民税非課税世帯となって、社会保障や生活インフラに実質的にフリーライドする側へと回るということです。

 ロスジェネ世代は経済的に厳しい状況に置かれている人が多いが、かといって統計的に見れば「ひとりで暮らしていく分」の余裕資金を持てないほどではないと氏は説明しています。しかし、彼らには「老人になるまで頑張って働いて財産を増やす」という「動機」そのものがない。ほどほどに仕事をしながらスローライフを続けていく動機のほうがずっと大きいというのが(同世代に対する)氏の見解です。

 ライフイベントを根こそぎ奪われてきたロスジェネ世代は、「自分のコンパクトな暮らしを死ぬまで続けられればあとのことはどうでもいい」という、現世利益主義的なライフスタイルを内面化。皮肉にもそれは、彼らが世間から散々に言われてきた「自己責任」にアジャストした結果となったということです。

 彼らからすれば、「この国の行く末」とか「将来世代の暮らし」とか、そういう「未来の課題」のことなどどうでもよいこと。なぜならそこに自分が「関与」できなかったからだと氏は話しています。「結婚できたり子どもを持てたりしているということはイコール恵まれている側なのだから、そんな人たちが単身世帯の社会保障やインフラのために余分に稼ぐのは“公平性”の観点から見ても妥当だろう」という主張には、一定の説得力すら出てきてしまっているということです。

 さて、「自分の老後どころか、死んだその先の未来のことを考える」というのが、その国に生きる者として呼吸するのと同じくらい当たり前の営みでなくなり、ある種の“贅沢な思想”になってしまったら、その国はきっと滅びると、御田寺氏はこの論考の最後に綴っています。

 だれもかれもが、顔も名前も知らない未来の人びとのためではなく、いま自分が生きている間の繁栄や快適を望むなら、未来のために残すべき貯えも、いまの快適さを守るために必要なら残さず食べつくしてしまうだろう。これは、決して責めているわけではない。私たちの社会が選んで「歴史的連続性」から切断された人を増やしてしまったからそうなったのだとこの論考を結ぶ御田寺氏の指摘を、私も(「なるほどあり得る話だな」と)興味深く受け止めたところです。

 


#2703 母親になって一人前?

2025年01月05日 | 社会・経済

 NHKが2022年に行った「“母親にならなければよかった”?女性たちの葛藤6000 人アンケート」(対象:全国の18歳から79歳の母親6,528人)によれば、「母親にならなければ良かった」と思ったことがある女性は32%と、回答の三分の一を占めたとされています。

 そう思った理由を聞く設問(複数回答)に対しては、①「自分はよい母親になれないと思うから」が42%、②「子どもを育てる責任が重いから」が40%、③「子どもとのコミュニケーションがうまくいかないから」が39%であった由。一方、「母親にならなければ良かった」という気持ちを口にしたことがあるか…という問いに対しては、「誰にも伝えたことがない」が56%と過半を占め、その理由の1位となったのは「口に出してはいけないことだと思ったから」で、(こちらも過半の)55%の母親がそのように感じていたことがわかります。

 育児・子育てに奮闘する中で様々な困難に直面し、子供を産んだことを後悔する母親たち。そしてそう感じたことを「後ろめたく」感じる母親たちが多くいる中、近年では、敢えて「子供を産まない」という選択をする女性も増えているようです。

 組織コンサルティング会社の「識学」(東京・品川区)が20〜40代の有職で無子の女性150人に対し「子どもを産む予定の有無」を聞いた(「働く女性のこどもに関する調査」2023.6)ところ、「子どもを産みたいと思わない、産む予定はない」と回答した女性は6割に上ったとのこと。その理由の1位は、「子どもが欲しいと思わないため(34.4%)」、2位は「自由がなくなるため(32.3%)」、3位は「子どもを産む・育てる自信がないため(30.2%)」・「自分自身のために時間を使いたいため(30.2%)」と続いたということです。

 また、雑誌「BIGLOBE」が今年2月に全国の18~25歳の未婚の男女800人を対象に行った調査(「子育てに関するZ世代の意識調査」2023.2)における「子どもはほしくない」の回答割合は、男性で51.3%と過半を占め、女性でも40.2%と4割を超えたと伝えられています。そして、その理由として挙げられたのは「お金の問題」が17%と最も多く、「お金の問題以外」の理由としては、①「育てる自信がないから」、②「子どもが好きではない、子どもが苦手だから」、③「自由がなくなるから」などが挙げられていたということです。

 一方、人口呼応性の少子高齢化による問題が指摘され、国を挙げた「少子化対策」が声高に進められる昨今、「子供を産む・産まない」は個人の問題と(建前では)言いながら、若い女性に対する「結婚→妊娠」へのプレッシャーは嫌が応にも高まっていることでしょう。

 他方、子育てに苦労する母親の姿を見て育ち、自分は「母親にならない」という選択をする女性も増えているとのこと。子育てを終えた上の世代が放つ無責任な言葉の一つ一つが、もっと自由に生きたいと願う(そうした)彼女たちを人知れず傷つけている場合も多いようです。

 10月25日の「NHK出版デジタルマガジン」では、フェミニストとして知られる東京大学名誉教授 上野千鶴子氏の近著『マイナーノートで』(NHK出版)を踏まえ、「子を産むエゴイズムと子を産まないエゴイズム、どちらが大きい?」と題する記事を掲載していました。

 出産適齢期の女性が子どもを産まないと、「子どもはいつ?」「まだ産まないの?」「いいお医者さまを紹介しようか?」と周囲がいちいちうるさい。「未産」は「未婚」と同じ。いずれは産むもの、結婚するもの、という前提に立っていると、著書で上野氏は語っています。

 氏によれば、「母になって一人前」の日本の社会では、結婚しているかどうかよりも、母であるかどうかのほうが女の価値を決めているとのこと。結婚・出産が「女の上がり」であることにいまでも変わりはなく、例えシングルマザーであっても、「母であること」で「女の証明」を済ませたことになるというのが氏の感覚です。

 既婚の女が子を産まないと周囲から冷たい目で見られるし、「妊活」しなければ「なぜ努力しないの?」と責められる。親になることが人格的成長と結びつけられてきたために、子のない女はたんに生物学的に欠陥品であるだけでなく、人格的にも欠陥があると思われてきたふしがあると氏は言います。

 氏によれば、「子どもを産んで初めて人生の何たるかがわかったわ」と(知ったようなことを)言う女性にもしばしば出会う由。上野氏自身、「子どもを産んだことのないあなたに、女の何がわかるのよ」と正面から難詰された際、「ああ、おそらく多くの人びとが(口には出さないが)そういう目で「おひとりさま」の女を見ているだろう」ことがよくわかったということです。

 さて、長い間、(ある意味「無責任」な)男として生きてきてしまった私には、「女は母親になって一人前」といった女性たちの感覚は正直よくわかりませんが、ママ友同士の話などを聞いている限りでも、独身バリキャリに対しての「あの人、ちょっと違うのよね…」という空気は感じるような気がします。

 自らの名前を失い、「〇〇ちゃんのママ」として生きる女性たちが幸せであればそれでも良いと思うのですが、社会通念のようなものがそれを(母親となった)彼女たちに強いているとしたら、それはそれで悲しいことでしょう。

 それにしても。日本の社会は「母性」をこれほどまでに持ち上げておきながら、(よくもまあ)実際に母になった女には「ペナルティ」と言ってよいほどの犠牲を押しつけつづけているものだと、氏はこの著書で語っています。

 氏によれば、OECD諸国のなかでも「子育てを楽しめない」という女性の比率はダントツに高いとのこと。不幸な母に育てられるのは、子どものほうも不幸だということは断言できる。日本の母親が幸福になれば、母になりたいと思う女性も増えるだろうかと話す上野氏の指摘を、私も心して読んだところです。


#2702 「働かないおじさん」が大量発生するわけ

2025年01月04日 | 社会・経済

 少し前の調査になりますが、2022年の10月に弁護士ドットコム株式会社が雇用労働者767人を対象に行った調査によれば、職場に「働かないおじさん(おばさん)」が「いる」と回答した人は58.7%。(面白いことに)「自分がそうだ」という自覚アリの回答も4.2%あり、合計では6割を超えていたということです。

 因みに、「働かないおじさん(おばさん)」の実態についての設問に対する回答は、「いつもパソコンを眺めているだけ」「時代遅れのプランを裏付けもなく非論理的に主張する」「いつも仕方ない感を出していて、人に仕事を任せる」などと辛辣そのもの。彼らの分まで仕事を押し付けられる若い人たちの、きびしい視線が目に浮かびます。

 一方、「自分がそうだ」と回答した人からは、「やってもやらなくても、給料はさほど変わらない」「そろそろ若い者に仕事を任せて、自分はルーティンワークに徹したい」などの回答があった由。いくら頑張っても、給料や待遇で評価されなければやる意味がないと考える年配社員の諦念も、(同じ世代の人間として)わからないではありません。

 どこの職場でも見かける「やる気」のないおじさんたち。そんな話に「耳が痛いな」と感じた人もきっと多いことでしょう。10月29日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に、リクルートワークス研究所研究員の坂本貴志(さかもと・たかし)氏が、『なぜ日本で「働かないおじさん」が大量発生するのか…意外と知らない「シンプルな理由」』と題する一文を掲載していたので、その内容をちょっと覗いてみたいと思います。

 実のところ、定年後の問題は、定年前から既に始まっていると坂本氏はこの論考の冒頭に記しています。例えば管理職に就く人の実態を見ると、部長職については、30代後半から少しずつ増え始め、若い人では40代前半から後半にかけてその職に就く。そして、部長職の構成比率は50代前半で26.6%、50代後半で26.9%と50代でピークを打った後に急速に減少し、60代前半には8.8%、60代後半には2.7%まで数を減らすということです。

 特に、大企業においては、部長職にまで上り詰めることができる人は同期の中でもごく一部。そして、その(ごく一部の)人も年齢を重ねる中でその役職を降りることを余儀なくされる。課長職ではさらに状況は厳しく、60代前半でその職に就いている人はわずかに2.9%。60代後半はそれも0.5%に落ち込むなど、50代後半以降、多くの人は役職定年や定年を経験して役職をはく奪されると氏は説明しています。

 60歳を過ぎて、部下を多数有する常勤の役職者で居続けることが、多くの日本企業で不可能になっている現実は、こうした数字が物語っているところ。なぜ日本企業では、年齢によって役職を引き下げるのか。氏はその理由の一つとして、多くの企業で中高年が急速に増える中で、現場で顧客の最前線に立って成果を生み出すプレイヤーが不足し、管理だけを行う人材へのニーズが低下していることを挙げています。

 年齢構成のひずみの拡大に応じて、企業としても役職適齢期を迎えている中堅層を十分に処遇しきれなくなっている。もちろん、これまで企業のために尽くしてくれた従業員に対して職位で報いることができなければ、中堅層のモチベーション維持に困難が生じるのも「致し方ない」というのが氏の見解です。

 定年前の中高年のモチベーションの低下が問題視されて久しい。しかしその一方で、近年では一社員として現場で利益を上げ続けられる社員であれば年齢にかかわらず確保したいというニーズも、企業内において急速に高まっていると氏は指摘しています。「働かないおじさん」問題などが話題になることがあるが、中高年の仕事観に何が起きているのか。

 落ち込みの谷が最も深いのが50代前半。この年齢になるとこれまで価値の源泉であった「高い収入や栄誉」の因子得点もマイナスとなり、自分がなぜいまの仕事をしているのか、その価値を見失ってしまうと氏は言います。

 定年が迫り、役職定年を迎える頃、これからの職業人生において何を目標にしていけばいいのか迷う経験をする人は少なくないとのこと。そう言えば私の周辺でも、50代になろうとするタイミングで早期退職を決意したり、すっかりやる気をなくしたりしていた同世代の姿をよく見かけました。

 データから明らかになるのは、50代が大きな転機になるということ。定年後をどうするかは、50代の(ターニングポイントを)どう生きるか…という問題であるかもしれないとこの論考を結ぶ坂本氏の指摘を、私も少し寂しい気持ちで読んだところです。


#2701 長生きの質も金次第

2025年01月03日 | 医療

 「誰でも、いつでも、どこででも」…支払い能力に応じて保険料を納めれば、重い負担なしに一律の料金で医療サービスを受けられる健康保険制度。日本で国民のすべてが健康(医療)保険証を持つ「皆保険」体制が整ったのは1961(昭和36)年の4月の話で、それまでの日本は自営業者を中心に、総人口の3分の1が健康保険証を持てない時代だったとされています。

 厚生労働省の推計(2017年度)によれば、現代に生きる日本人が一生涯に使う医療費は、男女平均で2,724万円に上る由。その金額を考えれば、普段は「随分高いな…」とは感じている社会保険料も、「まあしょうがないか…」くらいの気持ちにはなってくるというものです。

 特に、(この)生涯医療費の概ね半分は70歳以降で使うということなので、老後の不安を抱えずに生きていけるのはありがたい話。2008年(平成20年)度からは75歳以上対象の「後期高齢者医療制度」が独立する形で創設され、4割の支援金を(現役世代の)全保険制度からもらいながらなんとかやりくりをしているようです。

 とはいえ、社会の超高齢化に加え医療の高度化やコスト高による医療費の高騰が続く中、いつまでも現役世代に頼っているわけにはいかなくなっているのもまた事実。健康保険制度の新たな見直しも模索されているところです。

 50年、100年先の未来は別にして、現代を中堅世代として支える高齢者予備軍たちは、今後迎える高齢期をこのまま逃げ切ることができるのか。

 5月15日の総合ビジネスサイト「現代ビジネス」に、医師で作家の奥 真也氏が、『近い将来、資産が「長生きの質」を左右する…日本の保険制度が「危なくなる時代」に備えるダンドリ』と題する一文を寄せているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 奥氏によれば、医療技術が発達した現代では、病気になったときの治療の選択肢が昭和の時代と比べて格段に増えているとのこと。そしてこの日本では、国民皆保険制度のおかげで、国民全員が安い医療費で高度な医療を受けられるようになっているということです。

 国内には、患者自身が国内にある医療機関の中から自由に選んで受診できるフリーアクセスの制度もある。しかし、これらの制度がこれから先も続くかどうか…今のように誰もが自由に病院にかかり、治療を選べる状態は長く続かない可能性もあるというのが氏の懸念するところです。

 国の医療費は年々増加している。2022年の医療費は46兆円となり、過去最高を更新した。医療の進歩によって新薬や新しい医療機器、医療技術が登場して診療報酬も増額され、さらに団塊の世代が全員75歳以上となる2025年以降には益々医療費が膨らむ(だろう)と氏は見ています。高額医療製品は増え、それを使う人が増えているので医療費は増える一方。現在の公的医療制度を維持し続けることがかなり難しくなっているのは疑いようがないということです。

 そうなると、次に起こるのは、個人の医療費負担の増額ということになる。保険が適用される病気も少しずつ限定されていくかもしれないと氏は言います。治療しなければ患者さんが死に至る確率が極めて高い「致死的な病気」については国(や保険)が面倒を見るが、そうでない病気については面倒を見ないという傾向が強まっていく。「致死的な病気」、例えば心筋梗塞、脳梗塞、脳出血、がん、結核などは別にして、花粉症、皮膚炎、虫歯、骨折、軽度の心不全や狭心症などは保険適用から外される未来もないとは言えないというのが氏の認識です。

 もちろん国も、保険適用される病気が減らないよう努力を続けてはいくだろうが、いつかは減らさなければ国家財政が立ち行かなくなる時も来る。その際、非致死的な病気を治療するのは全て自己負担になるということです。

 さて、そうなった場合、日本の高齢者はどんな環境の中で生きていくことになるのか。非致死的な病気の治療が自己負担になった未来では、その治療方法は侵襲性(身体に傷害を与える可能性)や予後(病気の経過についての医学的な見通し、あるいは余命)のよしあしによってランク付けされることになると氏は予想しています。

 そして、ランクの高いほうから「特上」「並」と2種類あった場合、お金のある人は「特上」を選び、そうでない人は「並」を選択せざるを得ない。「特上」の人は身体的負担が軽く、入院日数は少なく、退院後の回復も早く、いち早く日常生活に戻れる術式となるが、「並」の人は従来と同じで、退院までにある程度の時間を要する開腹手術になるということです。

 「並」は「並」なので、それなりに身体的負担が大きくリハビリもしなければならず、退院後の回復にも「特上」より時間がかかる。「特上」の人も「並」の人も、手術は受けて永らえることに変わりはありませんが、その後の生活の質に差が出てくるというのが氏の指摘するところです。

 このように、同じ「長生き」でも、お金持ちの長生きとそうでもない人の長生きでは、その「質」に大きな違いが出てくるようになるだろうと氏は話しています。

 主に民間の医療保険が適用されるアメリカなどでは既に当たり前の状況なのでしょうが、「地獄の沙汰も金次第」というも(何とも)世知辛い話。(とりあえず今のところ)医療的な「平等」が当たり前となっている日本に生まれてよかったなと、改めて感じた次第です。


#2700 格差は何故拡大するのか

2025年01月02日 | 社会・経済

 「米国第一」を掲げるトランプ次期大統領が高関税の発動など保護主義政策の乱発を予告し、かつて国際協調をリードしていた超大国の面影はすっかり消えた。とりわけ懸念されるのは、自国最優先の米国に振り回され、世界経済が抱える「格差と分断」の問題が一段と深刻化する事態だ…と、12月5日の毎日新聞が伝えています。(『「米国第一」と世界経済 格差と分断、「負の連鎖」懸念』)

 実際、米国における上位1%および下位50%の所得が国民所得に占める割合は、1980年には上位1%が1割強、下位50%のが約20%だったのが、2019年における上位1%の所得の割合は約19%以上で下位50%はわずか約13%と、40年間でほぼ逆転している由。(資本主義の副作用ともいうべき)こうした状況を是とする「米国流」が蔓延すれば、格差は全世界の倣いになるということでしょうか。」

 そもそも、こうしたとんでもない格差はなぜ生まれるのか。総合経済誌『プレジデント』の11月1日号に明治大学教授の飯田泰之(いいだ・やすゆき)氏が、『日本人は「豊かな3割」と「生活が厳しい7割」に二分される…欧米とは異なる「不気味な日本の格差社会」』と題する興味深い論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 1980年代から2000年代にかけて、経済学やメディアの多くは、「格差」の問題をやや軽視していたきらいがある。特に90年代以降のアメリカ経済の持続的な発展の中で人々の関心はもっぱら「成長」に集まり、「格差」の議論は古い話題という感覚があったと飯田氏はこの論考に記しています。

 そんな中、格差というテーマに正面から取り組み格差のメカニズムを明らかにしたのが、トマ・ピケティが著した『21世紀の資本』。歴史的なものも含め経済データをとにかく地道に集め、複雑な分析手法も使わずただグラフ化して見せることで大きな注目を浴びたということです。

 ここでピケティが導き出したのが、有名な「r(資本収益率)>g(経済成長率)」という不等式。「資本収益率」とは、不動産や金融資産などのストックから得られる利益率。一方、「経済成長率」は平均所得の成長率とほぼ等しく、労働者の収入の伸びと同義だと氏は説明しています。そして、その(不等式の)意味するところは、「資産家の財産の伸び率」は「賃金労働者の収入の伸び率」よりも大きく、何もしなければ格差は必ず拡大していくことだということです。

 それまで経済学の常識は、経済成長が進むと労働力が不足して賃金が上がり、どこかをピークにして格差が縮小していくという理論(「クズネッツの逆U字仮説」)というもの。戦後から80年代初めまでの経済データを見ると、この理論はしっかり当てはまっており、信頼されていたと氏は話しています。

 ところが、もっと長い数百~数千年の歴史の中で見ると、経済成長とともに資産家と賃金労働者の格差は拡大しており、戦後の数十年間はむしろ例外でしかなかった。ピケティはそのことを(理論ではなく)現実のデータで示したということです。

 では、この問題をどのように解決すべきか。ピケティは単純に資産税や累進税を導入し、経済的弱者の生活を支えるべきだと唱えたと氏はしています。60年代から80年代にかけて格差が縮小したのは、今よりもずっと強力な累進課税や相続税やインフレがあり、それを経済的弱者に再分配していたから。それだけ課税しても経済は成長したし、各国が協調して課税強化すれば、富裕層の流出も起きないというのがピケティの考えだという事です。

 さて、飯田氏によれば、『21世紀の資本』では、ヨーロッパ型とアメリカ型の2種類の格差が取り上げられている由。そこでは、ヨーロッパ型の格差は相続資産のある資産家と一般人の格差(ストックの格差)、アメリカ型の格差は年収何十億円のようなスター経営者と一般労働者の格差(フローの格差)に基づくとされています。

 一方、日本については、アメリカやヨーロッパとは事情が異なるというのが飯田氏の認識です。さまざまな経済指標を見ても、日本は欧米の主要国に比べて格差が小さい。ピケティのレポート(2022年)を見ても、上位1%の富裕層が国内の富の何%を持っているかを示す「1%占有率」は、日本では24・5%に過ぎず欧米諸国に比べ(かなり)低めだということです。

 ともあれ、日本の格差の(一般的な)要因の一つに、日本でまだまだ根強い年功序列型の賃金体系があると氏はここで指摘しています。特に会社勤めの場合、20代と50代の間で給与に差があり、それが計算上は格差として表れてくる。ただ日本において、これは「不当な格差」というより、一般的な雇用慣行として受け止められることが多いということです。

 その一方で、日本には「豊かな3割と厳しい7割」とでも言うべき格差が存在すると氏は話しています。イメージとしては、「持ち家あり・親を支援する必要なし・年収800万円」の世帯と、「不動産なし・親は低年金・本人は非正規ないしは賃金が低くて年収300万円」の世帯の差というもの。欧米型格差と異なり、極端な富裕層の存在が貧困層を苦しめている…とは言いづらいが、差は小さくとも、むしろ差が小さいからこそ(これは)深刻な格差として受け止められるというのが氏の指摘するところです。

 日本型の格差に、「再分配すれば問題が解決する」という話はない。世帯年収が1000万円に届かない世帯まで税の累進性を高め、それを再分配するという方法はなかなか正当化されないし、日本型格差を是正する方法は慎重な検証が求められると氏は言います。とはいえ、「豊かな者がより豊かになる」という現象は、この日本でも起きている。近年の東京では、1部屋100億円などと言った法外なプライスタグを付けた超高級マンションまで売り出されているということです。

 さて、『21世紀の資本』の発売から約10年。氏によれば、ピケティが指摘した資産家と賃金労働者の格差は、今なお拡大プロセスにあるということです。しかしその一方で、ここにきてそれがまた反転し、格差の縮小が起きる可能性も見えてきたと氏はこの論考の最後に記しています。

 その大きな要因は、「グローバル化の反転」というもの。1960年代から80年代にかけて欧米諸国で格差が縮小したのは、各国が今よりずっと強力な再分配策を(高所得層を含む世論が許し)実施していたから。その背景あったのが、当時のソビエト連邦を中心とした社会主義/共産主義諸国との対抗関係だったと氏は説明しています。

 そして現代、ライバルとしての中国の台頭は、西側諸国の人々が再分配というテーマに改めて目を向ける大きな契機になってもおかしくないと氏は言います。中国との関係が対立的になる中で西側諸国が製造業の国内回帰を進めれば、各国で人手不足が起き、賃金が上がっていく。そこを契機として、60年代から80年代にかけて「クズネッツの逆U字仮説」を支えたメカニズムが、再び動き出すかもしれないということです。

 先の選挙で大勝したトランプ新大統領の唱える「MAGA」や「米国一国主義」が(もしかしたら)雇用者の大幅な賃金の上昇を招き、所得の再配分が進んで格差の縮小につながることもあるという事でしょうか。

 にわかには信じがたい話ですが、もしもそんなことになれば、この日本もそうした波に乗り遅れることなく(政界財界を挙げて)さらにしっかり賃上げを進められるよう政策展開していく必要があるのだろうなと改めて感じたところです。