ギブスをはめていた一年間、私が毎日どんな風に暮らしていたか、のお話で今回はおわりにします。
戦争中から戦後4、5年間店は閉めて父は郵便局に勤めていました。
その店から中に入ってくると、すぐにあるのが台所と呼んでいた小さな部屋。その奥に中の間と呼んでいたお仏壇のある部屋があります。
その左側に座敷があり、縁側がありました。
その3つの部屋と縁側を私は重いギブスをつけたまま這いずり回って暮らしていました。
亀が甲羅を背負って歩いているようなものです。不自由さで言えば、亀よりもひどかったかな?お蔭で手はよく鍛えられたと思います。普通より手だけが長いような気がしてました。
その頼りの手が後にリウマチに侵されることになるなんて・・・
畳はギブスでこすれてザラザラにささくれ立ってしまうのですが、父は仕方がないと思ってくれていたようです。小さい頃の事って、覚えていることははっきりおぼえているけど、さて、細かい色々なことを思い出そうとすると、結構あいまいなものですね。
なんか私の通り道にゴザのようなものを敷いてくれていたのか、そうでなかったのか、思い出せません。
座敷の壁際に石炭箱?リンゴ箱?(直方体の木箱です。)を置いてくれて、そこには自力で座れました。
トイレは下駄を履いて一旦外に出なければならないので自分では行けず、縁側の隅っこにオマルを置いて貰って用を足していました。
ちょうど、昔の年代物の木のオマルがあったのです。絵に描こうと思ったけれど、前述のごとく細部が思い出せなくてあきらめました。少し高さがあって、ふたもついてて、持ち手もついてて、何とか座れたのです。それも結局、最後の始末は母にして貰うしかないのですが・・・
その頃は本を読むことしか楽しみはありませんでした。
お涙頂戴の少女小説ばかり読んでいました。その頃、偉人の伝記などを読んでいたら、もう少し、しっかりした人間になったかもしれませんね
でも読む本がなくなると、活字ならなんでも!という感じで、家にあった本、あまり大した本はなかったのですが、片っ端からむさぼり読んでいました。父が落語全集(全部で2巻かな?3巻あったかな?)を持っていたのも読んだので、今でも「寿限無」は空で言えます
今なら図書館という手もあるのに・・・
それと、母に刺繍を教えて貰って、たまには刺繍も少しやったけれど・・・
友達も2回ほど家に来てくれたけれど、二人できて、二人できゃあきゃあ遊んでいるだけで、私は仲間に入れないので、父には不評でした。でも外の空気が伝わってくるので私はイヤじゃなかったけれど・・・
隣のYちゃんは、2歳年上だったけれど、おじゃみやおはじきに丁寧に付き合ってくれて、父はとても喜んでいました。
それくらいのことしか覚えていません。
ギブスを外した後もしばらくは立つことも出来ず、裏の隠居と小さな庭の間に引き粉小屋(燃料に使うおがくずを入れていた部屋)があって、そこに板を置いて貰って日向ぼっこをしていた時、よろよろ、フラフラながら、初めて立てた時、兄が興奮して「おかあちゃ~ん!○○が立った~」と大声で母を呼びに行った声は今でも忘れる事が出来ません。
その後、兄のバットを脇にはさんで杖代わりにしたりしていた時期もありました。
4年生の5月から学校を休んで、あくる年の2学期から一年遅れて学校に復帰しました。