cobaのきまぐれブログ

私もやってみようかな?と
かる~い乗りでブログを始めてみたのですが・・・

シーズン到来

2013-09-10 | Weblog

夏の間休止していたので、昨日は久しぶりのグラウンドゴルフです。

前日まで降っていた雨もすっかりあがり、快晴

大勢の人だったけれど、そんなに影響なくすんなりと回れました。

草がよく伸びててボールがなかなか転がらない。

ボツボツ草刈りを始められてるようで、最終回(たった2回しか回ってないけど)の最終ホールは今草刈りが終わったばかりのところをお初でやらせて貰いました。

折角きれいに刈って貰ったけれど、そんなに旨く飛ぶわけもなく・・・申し訳ない思い

昨日はただ一人MちゃんがホールインワンでしたMちゃんは81歳!

私もその年まで元気でやれるように頑張らなくちゃ!

久しぶりのGG楽しい一日でした。みんなに元気を貰って又明日からがんばれます!


ブレーキとアクセル

2013-09-08 | Weblog

今日は朝から

掃除の日だけれど、多分中止でしょう。

町内のグラウンドゴルフも多分中止になるでしょう。最初何も考えず申し込んだものの、月曜日に私達のグループのGGの予定があるのをすっかり忘れていました。この年になると、その上、使っている薬のことなど考えると連日動き回るのは、やはり心配なのでキャンセルしてしまったので関係はないのですが・・・日を変えて行われるのなら参加したい・・・とも思います。

でもキャンセルしたり、又参加したいと言ったり・・・は主催者側には迷惑だろうな?

 

最近ブレーキとアクセルの踏み違えによる事故をよくニュースで見ます。それも高齢者が多いとか・・・

私も大概高齢者もいいとこだけれど、ブレーキとアクセルの踏み間違いは絶対ないだろうと思っていました。

でも先日息子の車に乗ったとき思ったのです。

息子の軽自動車に乗ってみると、ブレーキとアクセルの間がとても狭い、と。

実際測ってみるとそんなに違わないかもしれないけれど、私の車は結構余裕があると思います。微妙な感じだけかもしれませんが・・・

履物によっても影響されるほど・・・の感じを受けました。

だから車によっては、そういうこともあり得るかも?・・・

と考えが変わりつつあります。

やはり乗り慣れた車に乗っているのが一番安全。高齢者は特に!

もし違う車に乗るときは先ずブレーキとアクセルの位置関係を充分確かめてから乗るようにしたいとあらためて思いました。


通院

2013-09-05 | Weblog

しばらく思い出に浸ってしまいましたが、先週の木曜日は病院へ行って来ました。

今回は7時半に家を出て、道も快調、駐車場もすんなりと地下の入口に近い場所に納める事が出来ました。

受付のある1階に上がって行くと・・・待合室に人がいっぱいいるのに動きがない??? 

まだ受付は始まっていなかったのです。受付は8時半から・・・

8時半前に着いてしまったのでした。

私もその辺の空いた席を見つけて座ったものの、時間が迫ってきてもあまり立つ人がいない。

そこで初めて気付きました。

番号札があったことを・・・

慌てて番号札を取ったものの、もう終わり近く、そこで大分ロスしてしまいました。

機械での受付をすませ検査室のある2階に上がっていくと、ここも長蛇の列。

でも受け付ける人も何人もおられるので案外早く進みました。

そして、今回は予約時間よりも少し早めに呼ばれました。早く来た甲斐があったというものです。

「先週は注射も、週末の薬も中止したわりには痛くないんです」と言ったら・・・

週末の薬止めてみましょうか?と言われ、そのかわり、感染症の予防になる薬を処方されました。土、日、と火曜日の薬がなくなって、今度は月、水、金曜日飲む事になります。

今まで週末のんでいた薬は、当初から極端な食欲不振になった薬です。それがなくなることは大歓迎!大分慣れてきたとはいえ、きつい薬と言う思い込みがあって、気持ちに負担がかかっていた薬でした。

私、その薬が始まって以来、ほかの物は食べられても、寿司、刺身系統が一切ダメになってしまっていたのです。

それがなくなったら、又、お刺身も食べられるようになるかなあ?

少し期待しています。

それと、センターでスポーツ教室が始まるので、しかもそれが木曜日なので、今まで木曜日にやっていた注射を火曜日に変えてもいいか聞いてみたら、OKを貰いました。

やっぱり注射をした日は、静かにしていたいものね!

これで心置きなくスポーツ教室に参加できます。

 

風邪もすっかり陰を潜めたので、昨日久しぶりにプールへ行って来ました。

なまりきった体にはしんどかったぁ


ついつい・・・おまけ

2013-09-04 | Weblog

新しく一学年下の人と同級生になった私は、一年の違いの大きさを感じました。

初めての授業のとき、先生が「ここ読める人!」といわれた時、ほぼ半数以上が「ハイ!ハイ!」を手を上げたのです。これにはびっくり!

今までのクラスでは、先生が「読める人、手をあげて!」と言われても、誰一人手を上げる人はいませんでした。私は読むのは結構得意だったので、手を上げたくてうずうずしていたけれど、誰も、手を上げないので、よう手を上げる事が出来ませんでした。

この違いは何?!

卯年と辰年の違い?!それもあったかもしれない。

それとも戦後の教育の違い?たった一年だけれど・・・

結局私も勢いに乗って手を上げて・・・

当てて貰えました

私の一年生の時は、一年間カタカナ。二年生になって初めて平仮名を習いました。

でも、後の同級生は一年生の時から平仮名で始まったのです。

混乱期だったのでしょう。一年の間に大分教育方針も変わったようです。

でも辰年の同級生はみんな本当に元気だったのは事実です。

干支って結構影響あるのかな?

 


思い出はおしまい

2013-09-03 | Weblog

ギブスをはめていた一年間、私が毎日どんな風に暮らしていたか、のお話で今回はおわりにします。

戦争中から戦後4、5年間店は閉めて父は郵便局に勤めていました。

その店から中に入ってくると、すぐにあるのが台所と呼んでいた小さな部屋。その奥に中の間と呼んでいたお仏壇のある部屋があります。

その左側に座敷があり、縁側がありました。

その3つの部屋と縁側を私は重いギブスをつけたまま這いずり回って暮らしていました。

亀が甲羅を背負って歩いているようなものです。不自由さで言えば、亀よりもひどかったかな?お蔭で手はよく鍛えられたと思います。普通より手だけが長いような気がしてました。

その頼りの手が後にリウマチに侵されることになるなんて・・・

 

畳はギブスでこすれてザラザラにささくれ立ってしまうのですが、父は仕方がないと思ってくれていたようです。小さい頃の事って、覚えていることははっきりおぼえているけど、さて、細かい色々なことを思い出そうとすると、結構あいまいなものですね。

なんか私の通り道にゴザのようなものを敷いてくれていたのか、そうでなかったのか、思い出せません。

座敷の壁際に石炭箱?リンゴ箱?(直方体の木箱です。)を置いてくれて、そこには自力で座れました。

トイレは下駄を履いて一旦外に出なければならないので自分では行けず、縁側の隅っこにオマルを置いて貰って用を足していました。

ちょうど、昔の年代物の木のオマルがあったのです。絵に描こうと思ったけれど、前述のごとく細部が思い出せなくてあきらめました。少し高さがあって、ふたもついてて、持ち手もついてて、何とか座れたのです。それも結局、最後の始末は母にして貰うしかないのですが・・・

その頃は本を読むことしか楽しみはありませんでした。

お涙頂戴の少女小説ばかり読んでいました。その頃、偉人の伝記などを読んでいたら、もう少し、しっかりした人間になったかもしれませんね

でも読む本がなくなると、活字ならなんでも!という感じで、家にあった本、あまり大した本はなかったのですが、片っ端からむさぼり読んでいました。父が落語全集(全部で2巻かな?3巻あったかな?)を持っていたのも読んだので、今でも「寿限無」は空で言えます

今なら図書館という手もあるのに・・・

それと、母に刺繍を教えて貰って、たまには刺繍も少しやったけれど・・・

友達も2回ほど家に来てくれたけれど、二人できて、二人できゃあきゃあ遊んでいるだけで、私は仲間に入れないので、父には不評でした。でも外の空気が伝わってくるので私はイヤじゃなかったけれど・・・

隣のYちゃんは、2歳年上だったけれど、おじゃみやおはじきに丁寧に付き合ってくれて、父はとても喜んでいました。

それくらいのことしか覚えていません。

ギブスを外した後もしばらくは立つことも出来ず、裏の隠居と小さな庭の間に引き粉小屋(燃料に使うおがくずを入れていた部屋)があって、そこに板を置いて貰って日向ぼっこをしていた時、よろよろ、フラフラながら、初めて立てた時、兄が興奮して「おかあちゃ~ん!○○が立った~」と大声で母を呼びに行った声は今でも忘れる事が出来ません。

その後、兄のバットを脇にはさんで杖代わりにしたりしていた時期もありました。

4年生の5月から学校を休んで、あくる年の2学期から一年遅れて学校に復帰しました。

 

 


思い出3

2013-09-01 | Weblog

小学校時代のことを思い出すと、いつも行きつく先は母への申し訳なさと感謝です。

子どもの頃、学校の遠足は父母の参加も認められていたようです。

彦根へ行った時はまだ足は悪くなかったけれど、母と、何故か?近所に疎開してきていた、おばちゃん(飼っておられた犬の名前からピチおばちゃんと言っていました)も一緒でした。

ギブスを外した後の4年生の遠足は大津。

県庁や図書館などの見学があったのですが、私はずうっと母におんぶして貰って移動しました。途中先生が代わりましょうか?と言って下さったのに、私は母の背中以外はイヤだったのです。

5年生の京都の遠足の時は、付き添いは母と、もうひとり疎開してきておられた、友達のお祖母さんの二人だけでした。その時はもう自分で歩けましたが・・・

 

今思うと病院の往き帰りもずうっとおんぶして貰いました。家から駅までは普通大人の足で5、6分で行けると思うのですが、それでも小柄な母が、これもいくら小柄とはいえ4年生の子供をおんぶするのは本当に大変だったと思います。その上重いギブスをはめているのですから・・・相当重かったはず・・・

今なら車椅子もあるし(両足を横に水平に広げてギブスをかけているので、そのままでは座れないけれど・・・何か工夫すれば・・・)、その頃でもリアカーなどはあったけれど、駅の往復は母の背中でした。

前述のピチおばちゃんは斜め向かいに住んでおられ、そこのお宅は2方向大きなガラス窓の廊下がありました。母はよくそこへ連れて行ってくれて、そこで日光浴をさせて貰っていました。子供好きなおばちゃんは近所の子供達の面倒もよく見てくれる優しい人でした。

家に帰りたくなった時、おばちゃんがおんぶして送ってあげると、言われたけれど、おばちゃんの背中は丸いからイヤ!だとか言って母を呼んできて貰いました。今思っても顔から火が出るような恥ずかしいわがままな子供でした。

まるまる母に甘えていた私。大人になって4、5歳の子供をおんぶしても結構しんどいのに・・・今になって身が縮む思いをしています。

大津の遠足の時など、母もきっと誰かに代わって欲しいと思ったに違いありません。

ホントにホントに母の身体を、寿命を縮めたのは私だと今更ながら、当時を思い出すたび自分を責めています。

兄妹の中で一番苦労をかけたのは私です。

いくら親孝行しても足りないくらい辛い思いをさせてきたのに・・・

お母ちゃん 本当に本当にごめんね!色々本当に有難う!

 

今ならどこの駅にもエレベーターは設置されてるし、障害に応じた便利なグッズも色々ある。洋式トイレもどこにも設置されてる。

本当に障害者も動きやすい便利な時代になりました。