ただ、阿部比羅夫がいなかったら、北海道は粛慎の領土になっていたかも知れないのだ・・・
比羅夫は飛鳥時代、斉明天皇に使え、今の新潟、越國の豪族だった。
当時、東北地方と、蝦夷地には温厚なアイヌ人、オホーツク人が平和に暮らしていたが、
樺太や満州の東部から船に乗りよく粛慎(みしはせ)が、進出して来る様になっていた。
彼らは大柄でアイヌから赤鬼と呼ばれ恐れられていた。
勝手に住み付き始めた粛慎に対し斉明天皇は自ら658年に、将軍 阿部比羅夫を従え水軍180隻を率いて蝦夷を討ちに向かった !
そして、ツングース系民族の粛慎を今の函館から石狩の間で徐々に追い詰めほぼ討伐に成功した。
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その地のアイヌは阿倍比羅夫を尊敬し後方羊蹄(今のニセコの山々)を比羅夫と呼んだ。
全ての粛慎やアイヌを平定させる為に何度か比羅夫はその後も遠征し続々と降伏し従わせて、
恩荷を行い、津軽二郡も郡領に定め渡島の蝦夷人を饗応した。
彼らアイヌからは生きたヒグマ2頭、ヒグマの皮70枚の献上を受ける。
659年には再度、蝦夷を討ち241人と逆らう捕虜31人そして、胆振地区の蝦夷20人の協力者20名を集めて饗応し禄を与える。
当時の現状は粛慎から生活を脅かされ攻められ強い和人に助けを求めて来たアイヌ人が多かった。
阿倍比羅夫はしつこく居座る粛慎を追い、遂に樺太まで追い詰めその際、直属の能登馬身龍が戦死するもこれを打ち破った。
・・・
しばしの時は流れ
662年
天皇と縁戚にあたる朝鮮半島の百済王から和国へ救援要請があり、阿部比羅夫はその大規模な
「白村江の戦い」へ向かうが、圧倒的な数の唐と新羅の連合軍に大敗した。
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これにより百済の再興はならなかったが、比羅夫がその時の戦いで戦死したのか
人生を往生したかは歴史だけが知っている・・・。