毛津有人の世界

毛津有人です。日々雑感、詩、小説、絵画など始めたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

2009年3月古巣へ帰還

2025-02-23 19:12:41 | my studio

ちょうど3年ぶりに尾羽打ち枯らした風体で元の4畳半一間の木賃住宅に舞戻ることになった。何やってんだろう、と言われかねないので古い友人には連絡を取らなかった。一年分の生活費は持っていたのですぐにはタクシー稼業に戻らず、近隣の市の市展に応募してその賞金を狙おうと考えた。ところが驚いたことにどこの市展でも予選にも入らず選外で片づけられた。それでどんな作品が展示されているのかを確かめに行ったら愚にもつかないものばかりだった。このことを後にある画廊の主人に話したら、市展程度では審査員がみんな自分の絵画塾の生徒の作品に一票を投ずるのが常套だから、審査員に繋がっていなかったらまず入賞は無理でしょう、と言われた。どうでしょう、その審査員の一人をご紹介させてもらいましょうか、とも言われた。僕はもう日本で創作活動をするのが馬鹿馬鹿しくなったので年金受給資格があればそれを申請して再び海外へ飛び出そうと考えた。それで年金事務所に行くと、もう一年国民年金を払い込めばぎりぎりの線で年金受給者になれると言われたので、その暮れからタクシー稼業に復帰した。そしてその翌年の2011年から超零細の年金受給者となった。その時にもう一つの転機が訪れた。昨年応募していた市営住宅の抽選に当選してしまったのだ。当選しなかったら当然ポルトガルに戻るつもりでいた。友人の画廊の従業員にしてもらって就労ビザを手に入れるつもりだった。友人にはたとえそのような形になっても給料を払う必要はない、年金があるし、そちらで絵を描けば売れるに決まっているから迷惑は一切かけないと話した。ところが市営住宅に当選してしまったから計画が頓挫した。家賃は2DK 15、800円である。今まで風呂なしの4畳半に25,000円払っていたのと比べると、この家賃は非常に誘惑的であった。ままよ日本脱出はいつだってできる。まずはこの団地に入居してみてはどうか。ということになり、すぐに転居をすることになった。荷物は少ないし運転手稼業なので仕事中に引っ越しは簡単に済ませることができた。

2011年2月11日、市営住宅へ引っ越す直前の写真。

毎朝起き掛けに30分warming up体操と称して毎日一絵15x20㎝の小さなキャンバス生地に絵を描いた。

運動不足解消のために自転車を買った。

その夏家守が現れたのでとても嬉しかった。まだこんな都会で生き延びていてくれたかと思うと感無量になった。このアパートでは毎夜僕が就寝した後にきっと現れる大きなネズミがいたので、僕は寝る前に彼が現れる押し入れの穴の横にビスケットなどを置いておいた。カナダでは毎日小さなリスがやってきていたがここではネズミに変わった。

 

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my studio in Portugal

2025-02-23 11:50:58 | my studio

僕はこの時点まで実に日本人的に椅子に座って絵を描いていた。その後ポルトガルの画家と接触するようになって現地の画家はみんな立って絵を描くことを知った。僕は日本でもアジアでも立って絵の制作をしている画家を見たことがなかったので、これは一種のカルチャショックであった。その後アトリエを飛び出して風景画に挑戦した時、僕は試みに立って絵を描いた。すると最初の2時間で両脚がガタガタと震えだした。その後歩くのも困難になるほど疲労を感じたのだけど、訓練の結果立って描くのが当たり前という境地になった。立って描くことによってはじめて高速で筆を走らせることができることを知ったのだ。だから今でも立って描いている。

ポルトガルのアトリエの写真はもっとたくさんあったはずなのに、投稿しようと思って開いてみたら、相当数の写真が消えていた。2009年以後何台もコンピューターを買い替えているので、その都度ファイルを喪失していたのかもしれない。このアトリエはとても気に入っていたのだけど、実際に利用できたのはわずかに2年半だった。

 

 

 

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study after Jeremy Mann ( born 1979 ) USA

2025-02-23 05:15:13 | 名画模写

昨日からまた彼の模写を始めたのだけど、どうして彼の絵を模写すると元気が出てくるのか、彼のビデオを見て初めて理解できた。彼のビデオを見るのは今回が初めてで、そのユニークでパワフルな制作の様子が見てとれてまたまた彼の作品に痛く惚れこんでしまった。ローラーを使う画家を初めてみた。凄い。天才の仕事ぶりをこうして見られるのは本当に嬉しい限りだ。

彼のことは何も知らないでこれまで彼の作品を模写してきたが、その一部をここに留めておきたい。

 

 

 

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study after Jeremy mann

2025-02-22 10:07:23 | 名画模写

1時間経過。

この人の作品を模写するとなぜか元気がもらえる。それでまた挑戦してみた。もう人生の時間が短くなっているので、今後の模写の勉強はすべて3時間タイムトライアルと決めた。

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典子のこと その3

2025-02-22 06:16:09 | マラッカ紀行

1年後いつものようにプールに向かって歩いていたら突然典子が目の前に現れたので驚いた。
「どうしたの。また戻ってきたんですか」
僕が質問をすると、彼女は、
「わたし結婚したの。今彼とこの街に住んでいるのよ」
と満面の笑みで答えた。

僕は彼女を一番近いコーヒーショップに誘い話の続きを聞いた。
「それはそれはおめでとうございます。素晴らしいお話ですね。ご主人はどんな人なんですか」
典子はいつどこでどのようにして二人が出会ったかを話し始めた。彼女は彼に一目惚れをしたというのである。その相手はギターを弾き歌う大道芸人だった。人種的にはインド人だった。

「今彼は法律家になるために猛勉強をしているの。試験に受かったら事務所をオープンするの。私は日本では教師として働いていたの。すでに自分の家も持っていたけれど、彼と結婚するためにすべてをなげうってここに来たわ。念願のマラッカに住めて私本当に幸せだわ」

僕は彼女がすべての生活コストを負担していることを想像した。この10年の間に似たような話をどれだけ聞いたことだろう。怠け者の一文無しが日本女性を誘惑して安逸をむさぼるというケースだ。僕は彼女のケースが例外であることを願わずにはいられなかった。


6か月後、僕は彼女から事務所開きの招待状を頂戴した。相手のインド人は映画スターのような二枚目で粋なタキシードに身を包んでいた。一方典子は赤い色が勝ったサリーを着て輝いていた。僕は彼女との会話を楽しみにして出かけたのだが、彼女はゲストをもてなすために大忙しだった。彼女はホステスというよりはメイドのように献身的に振舞っていた。僕は日本とは違った文化や慣習が支配する世界に一人で飛び込んだ彼女の勇気を思った。

それからもしばしば僕は典子とその旦那がマラッカの夕闇の中を歩いている姿を目撃した。しかしいずれもカフェの席からであったから彼らに声をかけることはなかった。

ちょうどマラッカでの生活が2年を迎えたとき、僕はまた軍資金と娘の養育費調達のために帰国し、タクシー運転手として死に物狂いで働いた。タクシー稼業は普通一日おきの13当務だが、非番の日に空きの車があればそれに乗って営業ができるのだ。こうすれば体はとてもきつくなるのだが、収入は確実に延ばせるわけだった。しかもこの度は会社のたこ部屋のような寮に入り日本での生活費を極力少なくした。その甲斐あって、僕はまた一年後にマラッカへ戻ることができた。久しぶりに友と飲み交わすと、

「秀実、君は典子のことを憶えているか」
と友が訊くのであった。

「もちろん、憶えているさ」
「知っているかい典子は今日本にいるよ」
「そうかい、おめでたなんだね」
「違うんだよ。彼らは別れたのさ」
「いったいどうしてなんだ」
「あの亭主は怠け者のアルコール中毒でよく典子に暴力をはたらいたらしい」
「どうしてそんなことを知っているんだい」
「マラッカは小さな街なんだよ」

それ以来しばらくの間は、たばこを吸うたびに典子のことが思い出されてならなかった。どうやら彼女の知性は彼女の人生に役立ったなかったようだ。彼女はたばこのみを毛嫌いするあまり酒飲みを選んだらしい。きっとこれに懲りて次回は酒もたばこもやらない相手を選ぶに違いないだろう。それはともかくとして、元気で再出発をしてほしいと願うのであった。完。

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