旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

釈迦に説法

2008年01月10日 00時00分16秒 | Weblog
満足しているひとはそれなりに幸せなのではないでしょうか。足らないことを憂うのではなくて等しくないことを憂いなさいとお節介なことを言うひともいたようですが、足りているひとには憂いすらないわけです。

詭弁じゃありません。あきらめを裏面に例えると自己満足はその表面であると考えることだってできます。だからこそ足りているひと、すなわち自己に満足しているひとのあきらめは心の平安につながるという推論も成り立つのではないか、そういうことです。

このように自己満足の裏面に何が潜んでいるのか、そっちの方が重要なのではないでしょうか。自己満足の裏側に自信とか実績とか経験とかが控えていることだってあります。わたしは目下、陽明クレイジーなのです。かれは人欲を諸悪の根源とみています。最近になってようやくその意味が理解できるようになりました。

自己満足って単なる言葉なんだもの、ひとそれぞれにどのような解釈だってできます。確かに狭い自己という世界で満足しているひとって手がつけられませんよね。でも、どうしようもありません。だから、自己満足の意義を論じあうことは、さらにどうしようもありません。

「自己満足に陥っているあんた、もっと広い世界を見ろよ、もっと深く考えろよ。」といくら言葉で説得しても、自分に満足しているひとを動かすことはできません。そんな人種をこちらが否定してかかっても否定されている方が動じなければ否定したことにはなりません。

営業を経験したことがあるひとならほとんどのひとが気がついているはずです。こちらの使命感に簡単に反応するようなお客さんはひとが良い、騙されやすい。ただそれだけのひとたちです。

ほんとうの営業力を問われるのは自己満足している相手にモノやサービスを売り込むことなんですよ。わたしの経験でいうと頭のいいひとほど売れない。営業の世界と学問の世界は正反対なのです。学者にモノは売れません。もっとも、セールスマンは一般に、講義や研究ができないのですから五分ですか。

本人も何を言っているのかよく解らなくなってきましたが、そういうことです。単純明快に言うと、わたしには「自己満足」の意義について語る資格がないということにでもなるのでしょうね。すいません。