旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

刑事訴訟法

2013年04月12日 06時06分42秒 | Weblog
渥美東洋著「罪と罰を考える」(有斐閣)を買った。著者は、そのむかし私が学生だった頃の刑事訴訟法の担当教授だった。司法試験に最年少、しかも主席で合格したといううわさがあり(旧司法試験の合格席次や点数が公開されたという話は聞いたことがない。)、単位の認定では受講生の過半以上を「不可」とする(集計があるわけではない。)ことで知られた。教授は大講義室での講義のあとで、みるからにできそうな学生たちからしょっちゅう質問攻めにあっていた。わたしは遠くからその光景を眺めていた。

渥美東洋の学説
『出世作は「捜査の原理」であるが、渥美の学説を理解するにあたり注意しなければならないのは、その用語法自体が通説とほぼ正反対といえるほど異なっている点である。内容は以下のとおりである。同書に先駆けて田宮裕は、捜査および公判を通じて刑事訴訟法を当事者主義の見地から解釈し、弾劾的捜査観を提唱した平野龍一の学説を継承、発展させた論文「捜査の構造」(有斐閣、1971年)を発表していたが、渥美は、平野・田宮の学説を批判し、英米法に基礎をおく独自の学説を展開した。渥美は、アメリカ合衆国憲法は社会契約 説にたつとの理解の下、同法を継受した日本国憲法も同説に立つとした上で、英米法の判例法によって認められた原則を基礎として日本の刑事訴訟法を解釈すべきとする。渥美によれば、ドイツ法は、公判における職権主義を基礎とし、捜査を公判の準備として連続的にとらえて裁判官が発する令状によって規律する糾問主義をとるとされ、かかる「糾問主義、職権主義」と英米法に由来する「弾劾主義、当事者・論争主義」との対立という図式が日本の刑事訴訟法を解釈する指針となると主張する。その上で、「弾劾主義」をとる英米法ではドイツ法と異なり、捜査は公判と全く異なる独自の手続とされており、連続性は認められないとする。かかる見地からは、平野・田宮は、従来の用語法と正反対にむしろ糾問主義と評価されることになる。』 ウィキペディア