昨日から今日にかけて、演劇をめぐる会話を久しぶりにしたことで演劇の深みについて思考する。
いま、なぜ、芝居をするのか。
それはいま、なぜ、生きているのかというような自明なものではないので、作り手として、考える作業がいるのだが、ここ近年そういうことを問いかけないぐらい芝居が当たり前のものになっていた。
そう、いきることはどんなことにおいても自然の摂理なので、そのいきることが大変になればなるほど、自分がいまあることの当たり前に演劇などの行為を当たり前のものとして、おとしこんでしまう。
でも、そうではないのだ。 創作する行為はひとがひとたるものとしての意識にふれる行為である。
意識はとても脆いものである。思考は意識とともに立ち上がっているのだ。
思考とはわたしがわたしたるもののオリジナルであることの存在を浮かびあげる。
で、中身は現在の演劇であるのだか、わたしがわたしをいきての演劇がなにものとしてあるのか。
自分の精神状態の不安定なところからおいていたこてに気がついた。なるほど、思考は冒険から、停滞にあったのか。この停滞は老いることとも結び付く。
老いることの現在性が演劇の未来にあるように思う。
いま、なぜ、芝居をするのか。
それはいま、なぜ、生きているのかというような自明なものではないので、作り手として、考える作業がいるのだが、ここ近年そういうことを問いかけないぐらい芝居が当たり前のものになっていた。
そう、いきることはどんなことにおいても自然の摂理なので、そのいきることが大変になればなるほど、自分がいまあることの当たり前に演劇などの行為を当たり前のものとして、おとしこんでしまう。
でも、そうではないのだ。 創作する行為はひとがひとたるものとしての意識にふれる行為である。
意識はとても脆いものである。思考は意識とともに立ち上がっているのだ。
思考とはわたしがわたしたるもののオリジナルであることの存在を浮かびあげる。
で、中身は現在の演劇であるのだか、わたしがわたしをいきての演劇がなにものとしてあるのか。
自分の精神状態の不安定なところからおいていたこてに気がついた。なるほど、思考は冒険から、停滞にあったのか。この停滞は老いることとも結び付く。
老いることの現在性が演劇の未来にあるように思う。