murota 雑記ブログ

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朱子学と陽明学、その歴史から見えてきたもの。

2020年05月23日 | 歴史メモ
 徳川幕府が林羅山に命じて朱子学を導入した。家康が信長秀吉時代のめまぐるしい政権変動にうんざりして、政治体制の絶対化と幕藩社会のための道徳の確立をはかるため、規範や道徳を儒学に借りたのは、残された手がそこにしかなかったからだといわれる。仏門をほうっておけば一向一揆や本願寺が動き出す。家康は一方で門徒制度で経済的保護を与えつつも、他方で宗門改めや本寺末寺制などによってその勢力を無力化させた。キリシタンではもっと困る。海外侵略さえ招きかねない。これは禁圧するしかなかった。こうして儒学の導入に踏み切るが、これが日本のその後の社会にもたらしたものは、予想をこえて大きいものだった。そのように松岡正剛氏は述べている。 . . . 本文を読む

歴史メモから、再び邪馬台国に迫る。

2020年05月13日 | 歴史メモ
 西暦220年頃には、邪馬台国は存在していたことが魏誌倭人伝で分かっている。この頃に、倭国に統一国家が出来ていたと考えられている。しかし、日本での統一国家は大和政権が最初であり、4世紀初め(崇神天皇)とされている。もし邪馬台国が奈良にあれば、倭国における統一国家の時期は、一挙に100年ほどさかのぼり3世紀初めと言うことになる。日本古代史では50年の違いは比較的大きな違いで、時期は「3世紀はじめ、3世紀なかば、3世紀終わり」という言い方で特定されている。この三点の違いは50年以内だ。 . . . 本文を読む

朱舜水が日本に与えた影響とは。

2019年09月13日 | 歴史メモ
 朱舜水(しゅしゅんすい)は1628年に生まれ、満州族のヌルハチ(のちの太祖)が明と開戦した時には19歳、李自成が乱をおこした時には29歳、後金が国号を清とあらためた時には37歳、江戸幕府が鎖国令を出した時には40歳になっていた。朱舜水は明朝の衰亡とともに人生を送っている。朱舜水を見ることは、17世紀前後の日本を世界史的に見ることになる。 . . . 本文を読む

フリードリヒ2世とマリア・テレジア、その前後の時代も興味深い。

2019年03月13日 | 歴史メモ
 イギリスやフランスが絶対主義国家として中央集権化を図っていた時にドイツでは内乱が起きていた。それが三十年戦争(1618~48)だった。ことの発端は宗教対立、1555年、神聖ローマ皇帝カール5世はアウグスブルグの宗教和議を行い、ドイツの宗教内乱は収まったかに見えた。当初、アウグスブルグの宗教和議は、新教徒にも信仰の自由を認めるものに見えたが、根深い問題が潜んでいたのだ。一つは、個人に信仰の自由が与えられなかったこと。諸侯が選んだ教会をその土地に住む住民は信仰しなければならない、つまり、信仰の自由は、諸侯にとっての自由にしか過ぎなかった。もう一つは、カルヴァン派の信仰は認められていなかったことだ。従って、アウグスブルグの宗教和議は中途半端な妥協の産物でしかなかった。 . . . 本文を読む

(歴史メモ) 日本の鎖国当時に進出してきた外国、驚きの背景

2019年03月12日 | 歴史メモ
 ポーランドはドイツとロシアにはさまれた国、ここは、16世紀後半にヤゲロー朝が断絶してから、貴族の選挙によって王を決めていた。選挙王政といわれる。もともと貴族の力が強かった、王は強大な権力を持つことができなかった。だから、ヨーロッパの潮流になっていた絶対主義による中央集権的国家建設ができなかった。強力な中央政府を持たないポーランドは、隣国による分割で消滅してしまう、これがポーランド分割、ポーランド分割は三回あって、第一回が1772年。ロシア、プロイセン、オーストリアによって領土を奪われる。このときのロシア皇帝がエカチェリーナ2世、プロイセン王がフリードリヒ2世、オーストリア皇帝がマリア=テレジア。この段階では、ポーランドは領土が縮小したが、まだ存続していた。第二回が1793年。ロシア、プロイセンによって、さらに領土が奪われた。第三回が1795年。ロシア、プロイセン、オーストリア三国によって、残されていた領土も完全に分割され、地図上からポーランドが消滅する。この時にロシア軍に対してコシューシコという愛国者が抵抗運動をしている。この人はアメリカ独立戦争に義勇兵として参加していることでも有名で、現在ポーランドでは英雄になっている。 . . . 本文を読む