ロシアの始まりを振り返ってみると、ロシア人はモンゴル帝国以来、キプチャク=ハン国の支配下にあった。キプチャク=ハン国が衰えると、1480年にモスクワ大公国が独立する。これが、現在のロシアの始まりになる。この時のモスクワ大公国の支配者がイヴァン3世(位1462~1505)。この人は、ビザンツ帝国、つまり東ローマ帝国の最後の皇帝の姪と結婚していた。その関係で1453年にビザンツ帝国が滅びると、イヴァン3世は「ツァーリ」という称号を使いはじめる。ツァーリというのはカエサルのロシア訛りになる。この称号を使うということは、ビザンツ帝国のあとを引き継ぐという象徴的な意味あいがある。ツァーリを日本語に訳すときは皇帝と訳す。モスクワ大公国をさらに発展させたのがイヴァン4世(位1533~84)。イヴァン雷帝ともいわれる。この人は、大貴族を抑圧し、中央集権化を進める。また、農奴制を強化。ツァーリを正式な称号として採用。激情型の性格でユニークなキャラクターだ。ロシアでは非常に有名な王で、小説や映画の題材に取り上げられる。有名なのが資料集に載っている絵のエピソードだが、ある時、イヴァン雷帝は長男の嫁を身なりがだらしないといって殴る。長男が怒る。長男と言い争いになった雷帝は、カッとなって持っていた杖で長男の頭を打つ。長男の頭がパックリ割れて倒れ、殺してしまった。我にかえった雷帝が息子を抱きかかえて泣き叫んでいる、そのシーンを描いたものだ。この短気で凶暴な性格で、自分に逆らう大貴族たちの領地を取り上げて中央集権化をすすめていった。 . . . 本文を読む
藤井厳喜氏がその著「太平洋戦争の大嘘」の中で述べている。第二次大戦後、アメリカは世界の超大国となったため、大戦当時の大統領であったフランクリン・ルーズベルトを偉大な政治家とする見方が現在のアメリカでも一般的だが、ルーズベルトは大戦の終戦直前1945年4月に急死し、当時副大統領だったトルーマンが大統領を引き継ぎ、その後に、広島、長崎に原爆投下が決定されている。このルーズベルトの前の第31代フーバー大統領に注目したい。フーバーはルーズベルトより8歳年上で、終戦後も生き、1964年(昭和39年)90歳になるまで生きていた。フーバーの著作「フリーダム・ビトレイド」(Freedom Betrayed)、日本語に訳すと、「裏切られた自由」という本がある。この本は50年近くの間、出版されなかった。そこには、本当のことが書いてあり、知られるとまずいことが書いてあるので、すぐには出せなかったらしい。この本は2011年(平成23年)になってフーバー研究所から出版されている。この本はアメリカ人が一般に信じている第二次世界大戦論、いわゆるルーズベルト史観というものを真っ向から否定している。このルーズベルト史観は今もアメリカの主流といえるが、大戦は多くの戦死者を出した悲惨な戦争であり、アメリカは参戦する必要がなかったともフーバーは論じている。
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シュペングラーは「西洋の没落」を世に問うたが著作の成果を歴史学界が受けいれたことはない。いまなお問題作にとどまっている。シュペングラーの方法と成果は10年を経てトインビーやソローキンやクローバーらに継承されたが、トインビー学派の総集編的な継承でもあったため、シュペングラーの独自性は見えてこない。これはゲバラの愛読書だったともいわれる。そのように松岡正剛氏は述べている。そして、第1巻「形態と現実」は世界史をアポロン的なるものとファウスト的なるもので捉え、その中にインド文化、ギリシア・ローマ文化、アラビア文化、ヨーロッパ文化などを並進させて比較し、第2巻の「世界史的展望」ではそれを、起源・土地・科学・国家・貨幣・機械というふうに発展史的にたどりつつ、ヨーロッパに比するアラビア文化の充実を説いており、ベストセラーでロングセラーでもあった。表題がセンセーショナルでもあり、ヨーロッパ中を疲弊させた第一次世界大戦が終了する1918年の刊行とともに爆発的に売れた。だが、全部が刊行されたのではなく、初期の草稿にあたるものの刊行(第1巻)であり、「西洋の没落」というフレーズはその後のヨーロッパの現代と未来を語るうえでの常套語にもなっている。 . . . 本文を読む
マルクスの歴史観によれば、その時代における物質的生活の生産様式が社会の経済的機構を形成し、同時代の社会的、政治的、精神的生活諸過程一般(意識)を決めていくという。つまり、人間の意識がその時代における社会的存在を決めていくのではなく、その時代における社会的存在が、政治経済や芸術・道徳・宗教といった同時代の意識そのものを決めていくというものだ。そして、人間の社会的存在を下部構造、人間の意識を上部構造とよび、つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代における上部構造の変化を必然的にもたらすものとした。このようなマルクスの歴史観が唯物史観といわれているものだ。
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島津家といえば薩摩、薩摩といえば明治維新と西郷隆盛が連想される。戦国時代に、勇猛果敢さで、その名を轟かせた薩摩兵。その兵士たちを縦横無尽に指揮し、九州を制覇した島津四兄弟。外様大名の雄として、徳川幕府も一目置いた薩摩藩は幕府を倒し明治維新を成し遂げる。その礎を築いた薩摩の太守・島津義弘は、戦国大名・島津貴久の次男であった。豊臣秀吉の九州制覇の直後、長男の義久は出家・隠居を余儀なくされる。兄に代わって薩摩の太守となった次男の義弘は、武将・戦略家としても優れていたが、政治的な大局観と、屈従を拒む強烈な意志を併せ持っていた。家臣を大切にした彼を、家臣たちも強く慕い、彼の指揮の下、果敢に戦いへと身を投じた。大友宗麟との合戦(耳川の戦い)においては、義弘は6千対6万という圧倒的な戦力差をはね返し、薩摩島津の名を天下に轟かせた。義弘はまた、慶長の役の際には、味方の退却を援けるため、最後まで半島南端に留まり、勢いに乗って押し寄せる明の大軍を迎え撃ち、7千の兵で20万の明と朝鮮軍を徹底的に打ち破り、「石曼子」(シーマンズ)と恐れられた。
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