日本人が日本文字をどのようにつくったのか、漢字を柔らかくくずして草仮名にしたり、漢字の一部を取って片仮名にしていたともいわれる。なぜ紀貫之は日記を仮名の文章にしたのか。承平4年(934)、貫之は土佐守としての4年の任期をおえて京に旅立つ。12月21日から翌2月16日までの舟旅、55日にわたる。貫之はこの55日間の出来事を、1日ずつすべてを記録に残した。当時は「具注暦」というものがあって、貴族や役人は漢文で日記日録をつける習慣をもっていた。貫之もそのような漢文日録をつけておいて、それをあとから仮名の文章になおしたのかもしれない。あるいは道中から和文備忘録を綴っていたのか。なにゆえに「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」という擬装を思いついたのか。実際には『土佐日記』は仮名のみの表記だった。そんな風に松岡正剛氏は書いている。 . . . 本文を読む