マルクスの歴史観によれば、その時代における物質的生活の生産様式が社会の経済的機構を形成し、同時代の社会的、政治的、精神的生活諸過程一般(意識)を決めていくという。つまり、人間の意識がその時代における社会的存在を決めていくのではなく、その時代における社会的存在が、政治経済や芸術・道徳・宗教といった同時代の意識そのものを決めていくというものだ。そして、人間の社会的存在を下部構造、人間の意識を上部構造とよび、つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代における上部構造の変化を必然的にもたらすものとした。このようなマルクスの歴史観が唯物史観といわれているものだ。
マルクスは歴史分析の中で、人間の作り出したシステムや生産諸関係が人間の手を離れ、逆に人間を敵対的に抑圧する状態、すなわち疎外が発生することを指摘している。疎外の形態はさまざまであり、商品や貨幣が人間を支配し労働本来のよろこびが失われる労働の疎外、生産における人間と機械の地位が逆転し、人間の主体性を否定し、まるで歯車の一部のようにみなされる機械技術による疎外など、時代の発展とともに人間生活の中でさまざまな疎外が発生し、それらの疎外が上部構造と下部構造との間にさまざまな矛盾と閉塞感を生じさせ、上部構造全体の変革、すなわち革命を引きおこす契機になるという。このようなマルクスの歴史観に基づき、成熟した資本主義の社会では、下部構造にさまざまな矛盾や疎外が内包され、これらの矛盾や疎外を契機として上部構造の変革を過激に推し進める社会革命が必然的にやってくると予言したのだ。
マルクスは『資本論』の中で、資本主義に内在するさまざまな矛盾点や問題点を考察する一方、資本主義そのものは、社会の生産性を高めるための必要な段階と捉えており、資本主義の成熟を契機として、やがて共産主義へと移行するという。マルクスの理論からは、共産主義革命が資本主義の成熟段階を迎えていない当時のロシアでは、社会資本の充実や経済機構の整備がまだまだ未成熟であり、疎外といった社会矛盾が顕在化する段階にはなく革命が勃発することはあり得ないと考えられた。マルクスが共産主義革命を展開するうえで前提とされていたのは、当時の英独仏などに代表される西欧の成熟した資本主義国家だった。ところが、資本主義の成熟段階を経ていないロシアにおいて1917年に武力によるロシア革命が勃発し、世界初となる共産主義国家ソビエト連邦が成立した。
さて、マルクスの初期の著作『ヘーゲル法哲学批判序論』に「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である。」とあるが、それは、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあるハインリッヒ・ハイネの著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」から引用されている。この"阿片"については『ヘーゲル法哲学批判序論』に、痛み止めである旨の記述もある。自身はフォイエルバッハから影響を受けて無神論的になり、青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の主張を敷衍し、「歴史の形成原理は宗教的理念ではなく下部構造、すなわち労働にある」と考えた。「神が人類および人間自身を最高たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段を探し求めることを人間自身にゆだねた。神は、人間が人間自身と社会とを最もよく高めることができるような立場を社会の中で選ぶことを人間にゆだねたのである」と。また、自らが棄教したユダヤ教を「ユダヤ教の本質は私利である」ともいっている。
マルクスは主著『資本論』を第1巻しか完成できなかった。現在出回っている第2巻と第3巻はマルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集した。それらの序文でエンゲルスは、完成度がまちまちな草稿からまとまった著作を作りあげる苦労を語っている。またマルクスの原文を忠実に再現し、追加や書き換えは形式的なものに限るという編集方針を述べている。このことから資本論第2巻と第3巻は事実上マルクスの著作として読まれてきたが、現在アムステルダム社会史国際研究所に現存する草稿の調査から、エンゲルスによる書き換えが予想よりはるかに多いことが明らかになった。またその内容が、かならずしも形式的なものでもないとする研究者も多数いる。またエンゲルスによる章別構成や原稿の配列順序に異を唱える論者もいる。
ソビエト連邦成立後、マルクスの著作はソ連共産党のマルクス=レーニン主義研究所で編纂され、世界中に流通。『資本論』第4部こと『剰余価値学説史』は、エンゲルスの死後カール・カウツキーの編集で出版されたが、これは本文の改竄を含んでおり、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるもので、現在は未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が邦訳でも出版されている。
マルクスが『資本論』で用いた方法は、資本主義社会全体の混沌とした表象を念頭におき、分析と総合によって資本概念を確定し、豊かな表象を分析しながら一歩一歩資本概念を豊かにしていくことを通じて、資本主義社会の全体像を概念的に再構成するという、分析と総合を基礎とする弁証法的方法だ。「表象された具体的なものから、ますますより希薄な抽象的なものに進み、ついには、もっとも単純な諸規定にまで到達するであろう。そこから再び、後戻りの旅が始まるはずで、最後に再び人口にまで到達するであろう。だが次に到達するのは、全体の混沌とした表象としての人口ではなく、多くの諸規定と諸関連をともなった豊かな総体としての人口である」と(マルクス『経済学批判序説』)、これが、マルクスが『資本論』で用いた「上昇・下降」と言われる方法であり、ヘーゲル弁証法の批判的継承とされているものの核心の一つだ。その方法の核心は、唯物論を基礎とする分析と総合による対象の概念的再構成になる。『資本論』のサブタイトルが「経済学批判」であるのは、当時の主流であった古典派経済学とそれを受け継いだ経済学(マルクスの謂いによれば「俗流経済学」)への批判を通じて自説を打ち立てたからだ。マルクスが『資本論』において、古典派を批判したその中心点は、古典派が資本主義社会が歴史的性格を持つことを見ずに「自然社会」と呼んで、あたかもそれを普遍的な社会体制であるかのように見なしたという点にある。すなわち資本主義社会は歴史のある時点で必然的に生成し発展しやがて次の社会制度へと発展的に解消されていくという「歴史性」を見ていないともいう。マルクスは『資本論』第1巻の「あとがき」において、このことをヘーゲル弁証法に言及しながら、「その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては忌わしいものであり恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」ともいっている。
カール・マルクスは、1818年5月、プロイセン王国治下のモーゼル河畔にあるトリーアにて、父ハインリヒ・マルクスと母アンリエットとの間に生まれた。父ハインリヒの家系は、代々ユダヤ教のラビを務める家柄であったが、父ハインリヒ自身は、ユダヤ教からキリスト教のプロテスタントに改宗した弁護士であり、トリーアの顧問を歴任した。そのため、マルクスの元々の出自はユダヤ系ドイツ人だが、マルクス自身も6歳の頃に父親と同じくプロテスタントの洗礼を受けている。1830年、マルクス12歳のとき、トリーアの名門ギムナジウムに入学。マルクスの入学したギムナジウムは開明的な校風で、校長が熱烈なルソーの支持者であった。なお、現在も残る高校に学んだマルクスの卒業論文(哲学)の主題は、『労働生活は果たして幸福か』というものだった。
1836年、マルクス18歳のとき、姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約した。その後ボン大学に学び、後にベルリン大学に入学し、ヘーゲル左派の影響を受ける。さらに、1841年にはイエナ大学へ入学。学位請求論文は『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』。この学位請求論文により、マルクスは哲学博士となった。マルクスにとって、エンゲルスはよき友人であり、よき助言者であり、彼にとって最大の理解者であった。1842年、マルクス24歳のとき、ケルンで創刊されたブルジョワ急進主義の「ライン新聞」主筆を務める。この頃に生涯の友人にしてマルクス最大の支援者となるフリードリヒ・エンゲルスとの出会いを果たす。マルクスは「ライン新聞」の編集長をしていたが、ほどなく対ロシア政府批判のために受けた同新聞社への弾圧により、1843年3月に失職。1843年6月、マルクス25歳のときにイエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚。11月にパリへ出発、マルクスは友人とともに、パリで『独仏年誌』を出版。この時期マルクスは、ハインリッヒ・ハイネとの知遇を得て交友を始める。しかし、『独仏年誌』は2号で廃刊となり、さらにプロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけにより、1845年1月にはパリからベルギーのブリュッセルへ追放を余儀なくされた。
1846年、マルクス28歳のとき、在住地のブリュッセルにてエンゲルスとともに「共産主義国際通信委員会」を設立、さらに共産主義組織の分派争いの過程で新たに「共産主義者同盟」の結成に参画することになり、『共産党宣言』を起草。しかしながら、「共産主義者同盟」内の齟齬に起因する内部争いにより、マルクスらは組織内部の少数派に転落、さらには1848年2月のフランス二月革命のため3月3日に警察に夫婦とも抑留され翌日パリにもどる。翌年にはエンゲルスの招きに応じ、1849年8月末、ロンドンに亡命。マルクスの親友であり支持者であったエンゲルスは、ロンドンで実父が所有する会社に勤めており、資金面においてロンドンに滞在するマルクスを支えた。1851年からマルクスは「ニューヨーク・トリビューン」紙の特派員になり、1862年まで500回以上寄稿した。
ロンドンで結成された第一インターナショナルの存在を知るや、遅ればせながら参加し、バクーニンと激しく論争。ロンドン亡命以降、マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間、大英図書館に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続け、決まってG-8席に着座しては経済研究と膨大な量の資料収集を行った。マルクスの『資本論』は、この長年にわたる経済研究から生まれた。1867年4月12日、『資本論』第一巻を刊行。資本の生産過程に関する研究成果の集大成だった。1871年3月26日、マルクス53歳のときにパリ・コミューンが発生。わずか72日間の短期間ながらも、パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命政権が誕生。このときマルクスは『フランスの内乱』と題する執筆を行っており、後にも革命後社会のイメージとして大いに影響されていた。他方で「なぜヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューンを痛烈に批判。1871年のパリ・コミューンの蜂起鎮圧以降は『資本論』の執筆活動に専念し、数百にも及ぶレポートを書き続ける。1881年12月2日妻イエニー死亡。1883年3月14日、亡命地ロンドンの自宅にて、肘掛け椅子に座したまま逝去した(享年65歳)。
なお、マルクスは、亡命地ロンドンにいながら、自らの理論体系の構築を行うとともに、ドイツ、フランスの共産主義運動の精神的支柱であり続けたが、道半ばにして逝去、彼の葬儀は、家族とエンゲルスらのごく親しい友人による計11人で執り行なわれた。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として遺されている。彼の墓はイギリスのアーチウェイ駅の近くハイゲト・セメタリにあり、1956年には有志の手で新たにスウェーデン産の黒御影石の胸像形が加えられた。マルクスは、彼が亡くなる直前まで精力的に執筆活動を行っており、彼の元には膨大な草稿が遺されていた。そして彼の没後、遺された草稿に基づき、彼の意思を受け継いだエンゲルスが1889年に『資本論』第二巻を編集・出版、さらに1894年には、第三巻の編集・出版をしている。
結局、マルクスの歴史観では、ヘーゲルの弁証法とフォイエルバッハの唯物論を採り入れた唯物史観を唱え、下部構造(経済的要因、つまり生産力と生産関係の矛盾)が上部構造(政治体制など)を変化させる動因とした。また、資本主義の矛盾は、その延命のための帝国主義、第三世界への搾取の激化(従属理論)、政府と金融が独占資本と協調して危機を管理する国家独占資本主義などを生むとした。第一次世界大戦以降の資本主義は国家独占資本主義であるという。最終的に資本主義はその内在する矛盾によって社会主義革命を誘発し、労働者階級のプロレタリア独裁を経て階級のない共産主義に必然的に至ると考えた。しかし、現実の歴史は資本主義の成熟した先進資本主義国で本格的な社会主義革命は起きていない。各国の国家独占資本主義は恐慌を克服し革命の危機を回避するために福祉の充実、ケインズ政策による有効需要の創出といった政策を採用し、議会制民主主義の下での社会民主主義の台頭などにより社会主義革命は基本的に回避された。むしろ、後進国のロシアや中国、低開発国のインドシナ諸国などで社会主義革命が起きたというのが現実であり、マルクスの予言は外れてしまった。だが、彼の残した「資本論」という分厚い書物、これが多くの若者に読まれ、後世にまで影響力を残してきたことも事実だ。マルクスが結論として共産主義を唯一の目標にしたのが問題だった。他の多くの資本主義、自由主義の国々にあっても諸問題の解決をしながら発展してきたのも歴史的事実である。
ソ連(現在はロシア)や中国は、武力によって政治権力を奪い、共産主義政権をつくった。今も中国では国の政府の権力より共産党の権力が上位にあり、軍の権力も共産党が握っている。日本共産党が、その共産党綱領にもあるような共産主義革命を絶対の目標にしているとしたら実に怖い政党というべきか。北朝鮮も先軍政治(すべてにおいて軍事を優先し、朝鮮人民軍を社会主義建設の主力とみなす政治思想で先軍思想とも呼ばれる)であり、実質的に共産党の最高指導者が軍も国も動かしている。今日の日本において、議会制民主主義の中で国民の半数以上が共産主義に賛成するとは到底考えられない。共産主義においては歴史的に武力による政権奪取が認められてきている。
余談になるが、もともとマルクスの「資本論」発想の機縁となったのは、産業革命発祥の地であるイギリスにおける悲惨な少年労働者の実態をマルクスが見たことにあり、人類愛にも似た心情から発したといわれる。イギリスの産業革命後、搾取する側の資本家と搾取される側の労働者(プロレタリアート)の姿から、労働者の苦悩を解決したいとの人類愛的な発想だった。労働者(プロレタリアート)の天国を夢見たのかもしれない。そして、マルクスは、資本主義が高度に発達した段階で共産主義体制への移行が必然的に起こると考えたのだが、歴史はそうならなかった。逆に資本主義の発達しない後進国で武力による革命で共産主義への移行が起きた。そして、マルクスの「資本論」は、資本主義社会に不満を抱く後世の青年達に影響を与えてゆくことになる。日本でも一時期「資本論」が多くの若者の心をとらえたが今はそうでもない。現代の共産主義は、マルクスの描いた理想の社会とはまるで違っている。権力機構による束縛の厳しいものになっている面は否定できない。武力によって奪取した政権だから当然のことであろう。
マルクスは歴史分析の中で、人間の作り出したシステムや生産諸関係が人間の手を離れ、逆に人間を敵対的に抑圧する状態、すなわち疎外が発生することを指摘している。疎外の形態はさまざまであり、商品や貨幣が人間を支配し労働本来のよろこびが失われる労働の疎外、生産における人間と機械の地位が逆転し、人間の主体性を否定し、まるで歯車の一部のようにみなされる機械技術による疎外など、時代の発展とともに人間生活の中でさまざまな疎外が発生し、それらの疎外が上部構造と下部構造との間にさまざまな矛盾と閉塞感を生じさせ、上部構造全体の変革、すなわち革命を引きおこす契機になるという。このようなマルクスの歴史観に基づき、成熟した資本主義の社会では、下部構造にさまざまな矛盾や疎外が内包され、これらの矛盾や疎外を契機として上部構造の変革を過激に推し進める社会革命が必然的にやってくると予言したのだ。
マルクスは『資本論』の中で、資本主義に内在するさまざまな矛盾点や問題点を考察する一方、資本主義そのものは、社会の生産性を高めるための必要な段階と捉えており、資本主義の成熟を契機として、やがて共産主義へと移行するという。マルクスの理論からは、共産主義革命が資本主義の成熟段階を迎えていない当時のロシアでは、社会資本の充実や経済機構の整備がまだまだ未成熟であり、疎外といった社会矛盾が顕在化する段階にはなく革命が勃発することはあり得ないと考えられた。マルクスが共産主義革命を展開するうえで前提とされていたのは、当時の英独仏などに代表される西欧の成熟した資本主義国家だった。ところが、資本主義の成熟段階を経ていないロシアにおいて1917年に武力によるロシア革命が勃発し、世界初となる共産主義国家ソビエト連邦が成立した。
さて、マルクスの初期の著作『ヘーゲル法哲学批判序論』に「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である。」とあるが、それは、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあるハインリッヒ・ハイネの著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」から引用されている。この"阿片"については『ヘーゲル法哲学批判序論』に、痛み止めである旨の記述もある。自身はフォイエルバッハから影響を受けて無神論的になり、青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の主張を敷衍し、「歴史の形成原理は宗教的理念ではなく下部構造、すなわち労働にある」と考えた。「神が人類および人間自身を最高たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段を探し求めることを人間自身にゆだねた。神は、人間が人間自身と社会とを最もよく高めることができるような立場を社会の中で選ぶことを人間にゆだねたのである」と。また、自らが棄教したユダヤ教を「ユダヤ教の本質は私利である」ともいっている。
マルクスは主著『資本論』を第1巻しか完成できなかった。現在出回っている第2巻と第3巻はマルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集した。それらの序文でエンゲルスは、完成度がまちまちな草稿からまとまった著作を作りあげる苦労を語っている。またマルクスの原文を忠実に再現し、追加や書き換えは形式的なものに限るという編集方針を述べている。このことから資本論第2巻と第3巻は事実上マルクスの著作として読まれてきたが、現在アムステルダム社会史国際研究所に現存する草稿の調査から、エンゲルスによる書き換えが予想よりはるかに多いことが明らかになった。またその内容が、かならずしも形式的なものでもないとする研究者も多数いる。またエンゲルスによる章別構成や原稿の配列順序に異を唱える論者もいる。
ソビエト連邦成立後、マルクスの著作はソ連共産党のマルクス=レーニン主義研究所で編纂され、世界中に流通。『資本論』第4部こと『剰余価値学説史』は、エンゲルスの死後カール・カウツキーの編集で出版されたが、これは本文の改竄を含んでおり、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるもので、現在は未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が邦訳でも出版されている。
マルクスが『資本論』で用いた方法は、資本主義社会全体の混沌とした表象を念頭におき、分析と総合によって資本概念を確定し、豊かな表象を分析しながら一歩一歩資本概念を豊かにしていくことを通じて、資本主義社会の全体像を概念的に再構成するという、分析と総合を基礎とする弁証法的方法だ。「表象された具体的なものから、ますますより希薄な抽象的なものに進み、ついには、もっとも単純な諸規定にまで到達するであろう。そこから再び、後戻りの旅が始まるはずで、最後に再び人口にまで到達するであろう。だが次に到達するのは、全体の混沌とした表象としての人口ではなく、多くの諸規定と諸関連をともなった豊かな総体としての人口である」と(マルクス『経済学批判序説』)、これが、マルクスが『資本論』で用いた「上昇・下降」と言われる方法であり、ヘーゲル弁証法の批判的継承とされているものの核心の一つだ。その方法の核心は、唯物論を基礎とする分析と総合による対象の概念的再構成になる。『資本論』のサブタイトルが「経済学批判」であるのは、当時の主流であった古典派経済学とそれを受け継いだ経済学(マルクスの謂いによれば「俗流経済学」)への批判を通じて自説を打ち立てたからだ。マルクスが『資本論』において、古典派を批判したその中心点は、古典派が資本主義社会が歴史的性格を持つことを見ずに「自然社会」と呼んで、あたかもそれを普遍的な社会体制であるかのように見なしたという点にある。すなわち資本主義社会は歴史のある時点で必然的に生成し発展しやがて次の社会制度へと発展的に解消されていくという「歴史性」を見ていないともいう。マルクスは『資本論』第1巻の「あとがき」において、このことをヘーゲル弁証法に言及しながら、「その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては忌わしいものであり恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」ともいっている。
カール・マルクスは、1818年5月、プロイセン王国治下のモーゼル河畔にあるトリーアにて、父ハインリヒ・マルクスと母アンリエットとの間に生まれた。父ハインリヒの家系は、代々ユダヤ教のラビを務める家柄であったが、父ハインリヒ自身は、ユダヤ教からキリスト教のプロテスタントに改宗した弁護士であり、トリーアの顧問を歴任した。そのため、マルクスの元々の出自はユダヤ系ドイツ人だが、マルクス自身も6歳の頃に父親と同じくプロテスタントの洗礼を受けている。1830年、マルクス12歳のとき、トリーアの名門ギムナジウムに入学。マルクスの入学したギムナジウムは開明的な校風で、校長が熱烈なルソーの支持者であった。なお、現在も残る高校に学んだマルクスの卒業論文(哲学)の主題は、『労働生活は果たして幸福か』というものだった。
1836年、マルクス18歳のとき、姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約した。その後ボン大学に学び、後にベルリン大学に入学し、ヘーゲル左派の影響を受ける。さらに、1841年にはイエナ大学へ入学。学位請求論文は『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』。この学位請求論文により、マルクスは哲学博士となった。マルクスにとって、エンゲルスはよき友人であり、よき助言者であり、彼にとって最大の理解者であった。1842年、マルクス24歳のとき、ケルンで創刊されたブルジョワ急進主義の「ライン新聞」主筆を務める。この頃に生涯の友人にしてマルクス最大の支援者となるフリードリヒ・エンゲルスとの出会いを果たす。マルクスは「ライン新聞」の編集長をしていたが、ほどなく対ロシア政府批判のために受けた同新聞社への弾圧により、1843年3月に失職。1843年6月、マルクス25歳のときにイエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚。11月にパリへ出発、マルクスは友人とともに、パリで『独仏年誌』を出版。この時期マルクスは、ハインリッヒ・ハイネとの知遇を得て交友を始める。しかし、『独仏年誌』は2号で廃刊となり、さらにプロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけにより、1845年1月にはパリからベルギーのブリュッセルへ追放を余儀なくされた。
1846年、マルクス28歳のとき、在住地のブリュッセルにてエンゲルスとともに「共産主義国際通信委員会」を設立、さらに共産主義組織の分派争いの過程で新たに「共産主義者同盟」の結成に参画することになり、『共産党宣言』を起草。しかしながら、「共産主義者同盟」内の齟齬に起因する内部争いにより、マルクスらは組織内部の少数派に転落、さらには1848年2月のフランス二月革命のため3月3日に警察に夫婦とも抑留され翌日パリにもどる。翌年にはエンゲルスの招きに応じ、1849年8月末、ロンドンに亡命。マルクスの親友であり支持者であったエンゲルスは、ロンドンで実父が所有する会社に勤めており、資金面においてロンドンに滞在するマルクスを支えた。1851年からマルクスは「ニューヨーク・トリビューン」紙の特派員になり、1862年まで500回以上寄稿した。
ロンドンで結成された第一インターナショナルの存在を知るや、遅ればせながら参加し、バクーニンと激しく論争。ロンドン亡命以降、マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間、大英図書館に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続け、決まってG-8席に着座しては経済研究と膨大な量の資料収集を行った。マルクスの『資本論』は、この長年にわたる経済研究から生まれた。1867年4月12日、『資本論』第一巻を刊行。資本の生産過程に関する研究成果の集大成だった。1871年3月26日、マルクス53歳のときにパリ・コミューンが発生。わずか72日間の短期間ながらも、パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命政権が誕生。このときマルクスは『フランスの内乱』と題する執筆を行っており、後にも革命後社会のイメージとして大いに影響されていた。他方で「なぜヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューンを痛烈に批判。1871年のパリ・コミューンの蜂起鎮圧以降は『資本論』の執筆活動に専念し、数百にも及ぶレポートを書き続ける。1881年12月2日妻イエニー死亡。1883年3月14日、亡命地ロンドンの自宅にて、肘掛け椅子に座したまま逝去した(享年65歳)。
なお、マルクスは、亡命地ロンドンにいながら、自らの理論体系の構築を行うとともに、ドイツ、フランスの共産主義運動の精神的支柱であり続けたが、道半ばにして逝去、彼の葬儀は、家族とエンゲルスらのごく親しい友人による計11人で執り行なわれた。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として遺されている。彼の墓はイギリスのアーチウェイ駅の近くハイゲト・セメタリにあり、1956年には有志の手で新たにスウェーデン産の黒御影石の胸像形が加えられた。マルクスは、彼が亡くなる直前まで精力的に執筆活動を行っており、彼の元には膨大な草稿が遺されていた。そして彼の没後、遺された草稿に基づき、彼の意思を受け継いだエンゲルスが1889年に『資本論』第二巻を編集・出版、さらに1894年には、第三巻の編集・出版をしている。
結局、マルクスの歴史観では、ヘーゲルの弁証法とフォイエルバッハの唯物論を採り入れた唯物史観を唱え、下部構造(経済的要因、つまり生産力と生産関係の矛盾)が上部構造(政治体制など)を変化させる動因とした。また、資本主義の矛盾は、その延命のための帝国主義、第三世界への搾取の激化(従属理論)、政府と金融が独占資本と協調して危機を管理する国家独占資本主義などを生むとした。第一次世界大戦以降の資本主義は国家独占資本主義であるという。最終的に資本主義はその内在する矛盾によって社会主義革命を誘発し、労働者階級のプロレタリア独裁を経て階級のない共産主義に必然的に至ると考えた。しかし、現実の歴史は資本主義の成熟した先進資本主義国で本格的な社会主義革命は起きていない。各国の国家独占資本主義は恐慌を克服し革命の危機を回避するために福祉の充実、ケインズ政策による有効需要の創出といった政策を採用し、議会制民主主義の下での社会民主主義の台頭などにより社会主義革命は基本的に回避された。むしろ、後進国のロシアや中国、低開発国のインドシナ諸国などで社会主義革命が起きたというのが現実であり、マルクスの予言は外れてしまった。だが、彼の残した「資本論」という分厚い書物、これが多くの若者に読まれ、後世にまで影響力を残してきたことも事実だ。マルクスが結論として共産主義を唯一の目標にしたのが問題だった。他の多くの資本主義、自由主義の国々にあっても諸問題の解決をしながら発展してきたのも歴史的事実である。
ソ連(現在はロシア)や中国は、武力によって政治権力を奪い、共産主義政権をつくった。今も中国では国の政府の権力より共産党の権力が上位にあり、軍の権力も共産党が握っている。日本共産党が、その共産党綱領にもあるような共産主義革命を絶対の目標にしているとしたら実に怖い政党というべきか。北朝鮮も先軍政治(すべてにおいて軍事を優先し、朝鮮人民軍を社会主義建設の主力とみなす政治思想で先軍思想とも呼ばれる)であり、実質的に共産党の最高指導者が軍も国も動かしている。今日の日本において、議会制民主主義の中で国民の半数以上が共産主義に賛成するとは到底考えられない。共産主義においては歴史的に武力による政権奪取が認められてきている。
余談になるが、もともとマルクスの「資本論」発想の機縁となったのは、産業革命発祥の地であるイギリスにおける悲惨な少年労働者の実態をマルクスが見たことにあり、人類愛にも似た心情から発したといわれる。イギリスの産業革命後、搾取する側の資本家と搾取される側の労働者(プロレタリアート)の姿から、労働者の苦悩を解決したいとの人類愛的な発想だった。労働者(プロレタリアート)の天国を夢見たのかもしれない。そして、マルクスは、資本主義が高度に発達した段階で共産主義体制への移行が必然的に起こると考えたのだが、歴史はそうならなかった。逆に資本主義の発達しない後進国で武力による革命で共産主義への移行が起きた。そして、マルクスの「資本論」は、資本主義社会に不満を抱く後世の青年達に影響を与えてゆくことになる。日本でも一時期「資本論」が多くの若者の心をとらえたが今はそうでもない。現代の共産主義は、マルクスの描いた理想の社会とはまるで違っている。権力機構による束縛の厳しいものになっている面は否定できない。武力によって奪取した政権だから当然のことであろう。