初代の神武天皇から第9代までは神話上の話であり、事実上、天皇は第10代の崇神天皇(神武天皇のモデル)から始まる。以後は、崇神王朝(第10代の崇神、垂仁、景行、成務、仲哀)、応神王朝(第15代の応神、仁徳、・・、雄略、・・・、武烈)、継体王朝(第26代)へと続く。崇神王朝の最後にあたる仲哀天皇は西暦404年の高句麗との戦いで大敗し、410年には朝鮮半島にいた反仲哀派と戦闘状態に入り、反仲哀派が勝利し、応神王朝へと移行する。日本の崇神王朝は、中国三国時代の「呉」の影響を強く受けたが、次に続く応神王朝は、朝鮮の百済・新羅に大きな影響を与えることになる。日本書紀では応神王朝の初めに当たるところで神功皇后が登場するが、神功皇后は架空の人物であり、邪馬台国の卑弥呼や台与の代役として登場している。日本書紀は、大和朝廷の正当性を記録するために、都合の悪い邪馬台国や卑弥呼の名前を隠したとも思われる。
第26代の継体天皇(507年~531年)については、百済本記に「日本の天皇、皇太子、皇子共に死んだ」という記録があり、継体の子である安閑・宣化と共に亡くなっている。つまり継体の死後は安閑(27代)、宣化(28代)と続くのではなく、異変があって欽明天皇(29代)が即位。日本書紀では欽明天皇の即位は538年とするが、「上宮聖徳法王帝説」や他の資料では欽明天皇即位は531年としている。上宮聖徳法王帝説や百済本記が正しいとすれば、継体親子の死は不可解(暗殺か)。上宮聖徳法王帝説は、聖徳太子の伝記として日本書紀の記事と並ぶ最古の文献であり、欽明天皇から推古天皇にいたる聖徳太子を中心とした5代の間の皇室の系譜,在位年数,没年,陵の所在、聖徳太子の生没年、墓の所在の記録、聖徳太子の伝記や蘇我馬子の事蹟などの史料である。多くの歴史学者が指摘しているように安閑・宣化は天皇にならず、継体天皇の次に天皇になるのは欽明天皇であり、欽明は伽耶国の皇子か応神王朝の血を引いていると思われる。
紀元前108年、中国の漢王朝は朝鮮半島の付け根あたりに「楽浪郡」をおいた。この地域には、これより以前に紀元前3世紀ごろに中国からの亡命者が建国した「基氏朝鮮」(きしちょうせん)や紀元前190年ごろには中国人による「衛氏朝鮮」(えいしちょうせん)があった。紀元前1世紀半ばには、中国の東北部に「高句麗」がおこり、紀元1世紀には朝鮮半島の南部に韓族の馬韓、辰韓、弁辰(弁韓ともいう)などの小国が現われた。地理的には馬韓は後の百済、辰韓は後の新羅、弁辰は伽耶に相当する。この頃(紀元前1世紀半ば)が、朝鮮族による国家形成期と考えられる。基氏朝鮮・衛氏朝鮮・楽浪郡は、中国人による国家や行政機関で、朝鮮人による国家とはいえない。倭では、漢書に「楽浪海中に倭人あり、百余国に分かれて会い争う」とあり、小国が多数あった。3世紀になると馬韓にある「伯済国(はくさいこく)」、辰韓にある「斯盧国(しろこく)」、弁辰にある「句邪国(くやこく)」が台頭し、それぞれ中心的な勢力になる。小国家連合体であり一国としてまとまっていたのではない。
4世紀になると伯済国は百済(くだら・正式には「ペクチャ」)、斯盧国が新羅(しらぎ・正式には「シンラ」)へと発展していく。句邪国は金官伽耶国となるが、弁辰内は相変わらず小国家連合体だった。伽耶の語源は古代朝鮮語の「神(カン)」と「国(ナラ)」、つまり「神の国(カンナラ)」から来ている。「韓(カン)」、「加羅(カヤ)」も同様。4世紀頃の百済や新羅は、高句麗や大和政権と比べれば貧弱であり、百済は九州全体ほどの大きさ、そして、新羅の範囲は九州の半分程度、また、伽耶は百済と新羅に挟まれた九州の半分の大きさ。高句麗は「句」の字を嫌い「高麗」の国号を用いた。日本書紀や隋書には「高麗」と記される。別の言い方では、伽耶は「慶尚南道」(朝鮮半島南部端)、新羅は「慶尚北道」(朝鮮半島南部の右端)」、百済は「全羅南道と全羅北道」(朝鮮半島南部の左端)に位置する。
後に朝鮮を代表する百済、新羅、伽耶は、発足当時は北に大国「高句麗」、南に大国「大和政権」があり、誕生当初から緊張した国際関係だった。伽耶の小国は、中国の三国志には「弁辰12カ国」とあるが、勢力の大きな6つの小国(安羅(アラ)、古寧、大伽耶(ウガヤ)、小伽耶、星山、金官伽耶(キンカンカヤ))を特に「六伽耶」ともいう。実際は20余国からなる小国家連合体だ。また、伽耶は、加耶・加羅とも書かれ、いずれも発音は「カヤ」。4、5世紀の伽耶は、豊富な鉄(砂鉄からの鉄)資源を有し、高句麗や大和にまで鉄の取引をしていた。当時の金官伽耶の古墳からは、石棺の中に鉄板を敷き詰めた遺跡なども発掘されている。中国の三国志には弁辰(伽耶)からの鉄が、韓、穢(ワイ)、楽浪郡、帯方郡にまで供給されていると書かれている。鉄資源は、金官伽耶ばかりでなく伽耶の多くの小国から産出されていた。伽耶の小国は、ここから得た富で独自の文化を発展させていた。伽耶の小国が豊であったことが伽耶に統一国家ができなかった原因のようだ。一方では、鉄資源は他国から常に狙われる対象であり、伽耶は高句麗、百済、新羅、大和からいつも攻撃を受けていた。特に新羅と百済の伽耶に対する侵攻は激しく4~6世紀の南朝鮮は伽耶を巡って戦乱が続く。
金官伽耶の王家は、3世紀半ばに伽耶の「主浦村(しゅほそん)」という小さな村から出ている。この「主浦」は古代朝鮮語では「ニムナ」と発音される。これが金官伽耶の別名ともなり、日本では金官伽耶を「任那」(みまな)と呼んだ。朝鮮の資料である三国史記や三国遺事には「任那」の言葉は使われていない。このことから韓国の歴史学者は「任那」という国はなかったと主張する。日本では百済(現地ではペクチャと発音)を「くだら(理想的な国の意)」と読み、新羅(現地ではシンラと発音)を「しらぎ(シンラのやつらの意)」と呼ぶ。つまり、日本では、大和政権との関係から見て国の呼び名を変える。「任那」とは伽耶のことであり実在した国である。
313年には、高句麗は楽浪郡や帯方郡を滅ぼし朝鮮を代表する国家となる。その結果、高句麗では騎馬民族と中国文化が融合し、隣接する百済では高句麗の影響で、本来の農耕民族的文化と騎馬民族文化の融合が進む。344~364年頃、倭国は新羅に対して圧力をかける。344年の新羅に対する人質の要求(花嫁の要求)、345年の倭国から新羅への国交断絶、346年の倭による新羅の金城攻撃、364年の新羅の吐含城への侵攻、この頃の大和政権は中国人による王朝といえる崇神王朝(景行天皇、成務天皇、仲哀天皇)である。
366年百済が日本に使者を送ってくる。大和政権は西暦369年3月、百済の頼みで新羅を攻撃する(日本書紀)。これに感謝した百済は、その年(西暦369年)、七支刀(七枝刀か)を作り、3年後の372年に大和政権に贈る。この七支刀は、石上神宮から発掘され国宝になっている。386年には高句麗の広開土王が即位し、百済の開弥城を攻め落とす。391年には大和政権(崇神王朝の仲哀天皇か)が、百済・新羅・倭の連合軍を作り高句麗と交戦したことが高句麗の広開土王碑(好太王碑)に書かれている。好太王碑文では、この連合体は倭国が指導的に組織し高句麗に攻め込んだと記述されている。韓国の歴史家は、これを百済が中心になり組織したと主張? 好太王碑文面では「倭は海を渡ってきて百済や新羅などを臣民とした」と。倭国が指導的に組織したと推測される。つまり、3世紀におきた百済、新羅、伽耶の国家は、4世紀までは朝鮮を代表する国家ではなく、北の高句麗に対峙するため、大和政権に依存していたのだ。この時期の朝鮮を代表する国家はあくまで高句麗だった。後世、新羅が朝鮮半島を統一したことで、朝鮮半島の歴史が複雑になる。高句麗が隋や唐の力を借りることなく百済、新羅、伽耶を併合していれば朝鮮の歴史は輝かしいものになったが、実際は新羅が唐の力をかりて朝鮮半島を統一(統一新羅)、朝鮮半島の不幸はここから始まった。
好太王碑文にあるように4世紀に大和政権が、百済、新羅、伽耶を支配下に置いたとしても、大和政権が朝鮮を征服したことにはならない。高句麗を支配下におけば大和政権が朝鮮を征服したといえるが、実際には大和政権は高句麗との戦いで敗れている。当時の伽耶の古墳からは新羅様式の冠帽・銅製碗などが出土する。高句麗と新羅は騎馬民族で、百済と伽耶は農耕中心の南方文化である。5世紀には双方とも騎馬民族の影響を強く受ける。日本では、5世紀(407年ごろか)には、崇神王朝から応神王朝に移り、前方後円墳も竪穴式から横穴式に変化している。百済の墓式が横穴式であるから、応神王朝は百済の影響を強く受けたことになる。5世紀後半には伽耶でも横穴式古墳が見られ、百済、伽耶、倭(応神王朝)は強い関係にあったといえる。竪穴式や横穴式の違いは、墓を作る技術者の出身が大きく影響している。百済出身の技術者が応神王朝の墓を設計施工したのであれば、横穴式となる。応神・仁徳天皇陵が横穴式古墳であるということは、百済出身の技術者によって構築されたのであろう。当時の大和政権は百済と良好な関係か主従関係にあった。
応神天皇(あるいは仁徳天皇)は崇神王朝の血を引く百済の皇子だったと考えられる。西暦404年、崇神王朝の仲哀天皇が高句麗に大敗してから、西暦410年頃、反仲哀派が倭国に入り新たな大和政権を樹立し、その後は百済・伽耶・倭との関係を強化する。応神王朝の雄略天皇は、5世紀の半ばには再三にわたって朝鮮に攻め入り、新羅や高句麗と交戦する。中国(宋)より「使持節・都督 倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓 六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の称号をもらうが、この称号は雄略天皇が軍事的に高句麗以外の国(新羅、伽耶、百済)に勢力をもっていたことを示す。
6世紀前半、新羅では、中国(北魏)の律令制度が施行される。新羅は中国(北魏)と仲良くし、中央集権国家を作り上げようとする。新羅王家は公的に仏教を取り入れる。この時(520年)を日本書紀では継体天皇14年としているが、継体天皇は即位してから20年後に大和盆地に移り、520年の時には新羅の中央集権制度導入の情報は聞いている。継体天皇は母方の実家が金官伽耶なので、伽耶が受ける新羅の脅威は、自分の脅威のごとく受け止め、伽耶救済のため6万の兵を新羅に送り、交戦し敗退する。当時、国内(北九州の磐井氏や奈良盆地や平群氏)での反対勢力が活動する中で継体天皇には6万の兵を朝鮮に出す力があった。新羅から仏教が日本に伝えられるが大和朝廷はこれを受け入れていない。大和朝廷が仏教を受け入れたのは、552年に百済の聖明王が仏像を欽明天皇に送った時であり、大和政権は敵国・新羅からの仏教は受けず、同盟国・百済からの仏教を受け入れた。仏教公伝は538年とする説もある。529年には大和朝廷は、遠征軍の大将であった近江毛野に、任那復興の調停を百済と新羅に働きかけるが不調に終わる。逆に新羅は金官伽耶の4村(金官・背伐・安多・委陀)を攻め取っている。
継体天皇は新羅の戦略に対抗するため、新羅に傾きつつある伽耶の4国を百済に割譲する。このことが伽耶諸国の反発を買い、伽耶と大和政権の関係は悪化する。531年に新羅は伽耶の「安羅」国王を殺害し新羅領にする。このような政治情勢の中で継体天皇は亡くなる。金官伽耶の金仇亥王は532年に王子2人をともなって新羅に降伏(金官伽耶の滅亡)。この後の欽明天皇は、この金仇亥王の息子か、金官伽耶に住んでいた継体天皇の後胤と考えられるが、日本の蘇我氏を頼って日本に亡命する。新羅は当時、降伏してきた王や皇子の地位を保全していた。この政策で、新羅は次々と伽耶の小国を新羅領に組み入れる。百済も同様で、話し合いや戦いといった過程はあるが、降伏すれば相手の地位を認めた。欽明が日本に亡命した時、同じような待遇を受けたとしても不思議ではない。蘇我氏の出身は伽耶である。金官伽耶が滅び、継体天皇が死去した時、蘇我氏にとって欽明は主家筋にあたり、継体天皇の2人の皇子(安閑と宣化)よりも欽明は大切な皇子だった。
欽明天皇は金官伽耶の復興に固執し、百済との連係を基本に新羅に金官伽耶復興を働きかける。日本書紀では欽明の在位は32年間(539年-571年)とあるが、「聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」などでは、欽明の在位は、531年~571年で40年または41年としている。日本書紀では537年に宣化天皇が伽耶に援軍を出しているが、これは欽明の伽耶奪還作戦だ。欽明は541年に任那復興会議を提唱する。欽明は、伽耶にいる近江毛野を支援するため「任那日本府」を設置する。現代の韓国では、任那と同様に「任那日本府」もなかったという歴史学者が大半だが、日本側の資料(日本書紀など)を見る限り、任那とは金官伽耶のことであり、大和政権が金官伽耶復興のための出先機関として設置した軍事基地と考えられる。
現地の情勢を知る近江毛野は、欽明の意向である百済支援をせず、新羅と手を結んだ方が得策と考え、本国や百済の意向を無視する態度に出る。このことが、百済の聖明王の怒りとなり、百済から使者が欽明天皇のところに来る。545年、欽明は膳臣巴提便(かしわでのおみはすひ)を百済に援軍として出す。これは金官伽耶を奪い取った新羅との戦いのためであり、欽明は百済とともに任那奪還を試みる。大和政権・百済の連合軍と新羅軍との戦闘は激しくなる。548年に高句麗が南下をはじめ、新羅や百済は伽耶の問題に時間を割く余裕はなくなる。一時的に新羅と百済は協力して高句麗の防衛にあたるが、高句麗が兵を引くとすぐに百済と新羅は争いを始める。553年には新羅は百済の漢城を落とす。聖明王が百済の国宝級の仏像をもって日本に仏教を伝えたのは、漢城陥落直前の551年。漢城陥落の翌年554年、百済の聖明王は新羅との戦いで戦死、百済軍の死者3万人。その後、百済は日本の蘇我稲目に援軍要請をするが、蘇我稲目はこれを拒否する。
「父が熱愛していた伽耶」といったり、詔のなかで新羅を「君父の仇」と呼び、遺言で「新羅からの任那の奪還」といっている。欽明天皇は即位前から死ぬまで伽耶の復興を願う。欽明の倭風諡号は「天国排開広庭天皇」(あまのくにおしひらきひろにわすめらみこと)で、新王朝を開くとも受け止められる称号だ。これまでの応神王朝は百済系であったことを考えると、欽明天皇のように伽耶系の人が天皇になったのは、新王朝と呼ぶにふさわしい天皇であった。日本書紀には、欽明の没年が「年若干」と書かれて詳細は記述されていない。欽明の幼名も不祥だ。欽明は伽耶の皇子であるが、事情があって正式な皇子とは認められていない。伽耶に住んでいた応神の後胤か伽耶に住んでいた継体の子ともいわれる。
欽明天皇が伽耶出身であることが、伽耶復興の動機となり、これを支援したのが蘇我稲目である。欽明の皇子達は蘇我氏の娘を后妃としているか母親が蘇我氏だ。蘇我氏は欽明を天皇にした。欽明天皇(29代)は571年に亡くなり、欽明の皇子たちは、敏達天皇(30代)、用明天皇(31代)、推古女帝(33代)、崇峻天皇(32代)と次々に天皇になるが、崇峻や用明の子・厩戸皇子(聖徳太子)は、欽明の遺言どおり、新羅討伐のため兵を九州に集結させ、伽耶の復活を図る。しかし、蘇我馬子の反対で開戦にはならない。欽明の一族は孫の代まで伽耶の復権を願い、遺言に答えようとする。蘇我馬子や蘇我蝦夷は常に伽耶復興軍の派遣に反対する。蘇我馬子は仏教を尊び、崇峻天皇や聖徳太子による新羅への派兵計画に反対し、晩年には新羅と国交(621年)を回復する。戦闘一辺倒であった七世紀前半、平和的な行動をとった蘇我氏ではあるが、古事記や日本書記の実質的な編集管理者であった藤原不比等の策謀により、蘇我氏のことは「極悪人」として書かれている。
日本では「戦後の贖罪外交」・「自虐的歴史教育」から古代史解釈をする人が多い。また、韓国の歴史家は、「反日・愛国政策」などを背景にした歴史解釈をする。大化の改新で、蘇我総領家は滅亡する。その背景には、百済出身の中大兄皇子や母の皇極天皇の意思が見え隠れする。皇極天皇の夫である舒明天皇は百済色の濃い人で葬儀も百済方式だった。舒明の葬儀が百済方式ということは、百済系の人が側近として舒明に仕えていたか舒明自身が百済の出身と考えられる。蘇我氏(蝦夷)は、いつまでも伽耶復興を願う欽明の後胤に嫌気をさし、推古の後継者に百済系の人である舒明を選ぶ。聖徳太子の子・山背大兄皇子を殺したのも欽明系の伽耶復興政策を断ち切るためだった。大化の改新は、蘇我氏を中心とした伽耶系の人々から、存亡の危機にあった百済の救済のため百済系の人たちが起こした「クーデター」と見られる。その過程では、孝徳天皇のように高句麗と手を結ぶことで事態の解決を図ろうとした天皇もいた。そして、新羅系の天武天皇が出現することになるが、結局は、持統天皇により百済系の人達で皇統を継ぐことになる。
桓武天皇が出現するまでは都は奈良にあったが、この間の大半が百済・伽耶・新羅という朝鮮系の天皇だった。桓武天皇は、母が中国人であったため中国系という意識が強く、朝鮮に関する多くの資料を焚書した天皇としても知られている。日本書紀は本来31巻であるが、最後の巻は皇統の系図が書かれている。桓武天皇は、これを焼き捨てた。また、北畠親房の「神皇正統記」には「昔、日本は三韓と同種なりとありし書を、桓武の御世に焼き捨てられる」という記述もある。桓武天皇以降、日本の支配者の中に、百済でもない、伽耶でもない、新羅でもない、神代の時代から日本に住み着いていた支配者であるという国民意識がだんだんと生まれてくる。この国民意識の発揚こそが、古事記や日本書紀の目指したものだったのかもしれない。
第26代の継体天皇(507年~531年)については、百済本記に「日本の天皇、皇太子、皇子共に死んだ」という記録があり、継体の子である安閑・宣化と共に亡くなっている。つまり継体の死後は安閑(27代)、宣化(28代)と続くのではなく、異変があって欽明天皇(29代)が即位。日本書紀では欽明天皇の即位は538年とするが、「上宮聖徳法王帝説」や他の資料では欽明天皇即位は531年としている。上宮聖徳法王帝説や百済本記が正しいとすれば、継体親子の死は不可解(暗殺か)。上宮聖徳法王帝説は、聖徳太子の伝記として日本書紀の記事と並ぶ最古の文献であり、欽明天皇から推古天皇にいたる聖徳太子を中心とした5代の間の皇室の系譜,在位年数,没年,陵の所在、聖徳太子の生没年、墓の所在の記録、聖徳太子の伝記や蘇我馬子の事蹟などの史料である。多くの歴史学者が指摘しているように安閑・宣化は天皇にならず、継体天皇の次に天皇になるのは欽明天皇であり、欽明は伽耶国の皇子か応神王朝の血を引いていると思われる。
紀元前108年、中国の漢王朝は朝鮮半島の付け根あたりに「楽浪郡」をおいた。この地域には、これより以前に紀元前3世紀ごろに中国からの亡命者が建国した「基氏朝鮮」(きしちょうせん)や紀元前190年ごろには中国人による「衛氏朝鮮」(えいしちょうせん)があった。紀元前1世紀半ばには、中国の東北部に「高句麗」がおこり、紀元1世紀には朝鮮半島の南部に韓族の馬韓、辰韓、弁辰(弁韓ともいう)などの小国が現われた。地理的には馬韓は後の百済、辰韓は後の新羅、弁辰は伽耶に相当する。この頃(紀元前1世紀半ば)が、朝鮮族による国家形成期と考えられる。基氏朝鮮・衛氏朝鮮・楽浪郡は、中国人による国家や行政機関で、朝鮮人による国家とはいえない。倭では、漢書に「楽浪海中に倭人あり、百余国に分かれて会い争う」とあり、小国が多数あった。3世紀になると馬韓にある「伯済国(はくさいこく)」、辰韓にある「斯盧国(しろこく)」、弁辰にある「句邪国(くやこく)」が台頭し、それぞれ中心的な勢力になる。小国家連合体であり一国としてまとまっていたのではない。
4世紀になると伯済国は百済(くだら・正式には「ペクチャ」)、斯盧国が新羅(しらぎ・正式には「シンラ」)へと発展していく。句邪国は金官伽耶国となるが、弁辰内は相変わらず小国家連合体だった。伽耶の語源は古代朝鮮語の「神(カン)」と「国(ナラ)」、つまり「神の国(カンナラ)」から来ている。「韓(カン)」、「加羅(カヤ)」も同様。4世紀頃の百済や新羅は、高句麗や大和政権と比べれば貧弱であり、百済は九州全体ほどの大きさ、そして、新羅の範囲は九州の半分程度、また、伽耶は百済と新羅に挟まれた九州の半分の大きさ。高句麗は「句」の字を嫌い「高麗」の国号を用いた。日本書紀や隋書には「高麗」と記される。別の言い方では、伽耶は「慶尚南道」(朝鮮半島南部端)、新羅は「慶尚北道」(朝鮮半島南部の右端)」、百済は「全羅南道と全羅北道」(朝鮮半島南部の左端)に位置する。
後に朝鮮を代表する百済、新羅、伽耶は、発足当時は北に大国「高句麗」、南に大国「大和政権」があり、誕生当初から緊張した国際関係だった。伽耶の小国は、中国の三国志には「弁辰12カ国」とあるが、勢力の大きな6つの小国(安羅(アラ)、古寧、大伽耶(ウガヤ)、小伽耶、星山、金官伽耶(キンカンカヤ))を特に「六伽耶」ともいう。実際は20余国からなる小国家連合体だ。また、伽耶は、加耶・加羅とも書かれ、いずれも発音は「カヤ」。4、5世紀の伽耶は、豊富な鉄(砂鉄からの鉄)資源を有し、高句麗や大和にまで鉄の取引をしていた。当時の金官伽耶の古墳からは、石棺の中に鉄板を敷き詰めた遺跡なども発掘されている。中国の三国志には弁辰(伽耶)からの鉄が、韓、穢(ワイ)、楽浪郡、帯方郡にまで供給されていると書かれている。鉄資源は、金官伽耶ばかりでなく伽耶の多くの小国から産出されていた。伽耶の小国は、ここから得た富で独自の文化を発展させていた。伽耶の小国が豊であったことが伽耶に統一国家ができなかった原因のようだ。一方では、鉄資源は他国から常に狙われる対象であり、伽耶は高句麗、百済、新羅、大和からいつも攻撃を受けていた。特に新羅と百済の伽耶に対する侵攻は激しく4~6世紀の南朝鮮は伽耶を巡って戦乱が続く。
金官伽耶の王家は、3世紀半ばに伽耶の「主浦村(しゅほそん)」という小さな村から出ている。この「主浦」は古代朝鮮語では「ニムナ」と発音される。これが金官伽耶の別名ともなり、日本では金官伽耶を「任那」(みまな)と呼んだ。朝鮮の資料である三国史記や三国遺事には「任那」の言葉は使われていない。このことから韓国の歴史学者は「任那」という国はなかったと主張する。日本では百済(現地ではペクチャと発音)を「くだら(理想的な国の意)」と読み、新羅(現地ではシンラと発音)を「しらぎ(シンラのやつらの意)」と呼ぶ。つまり、日本では、大和政権との関係から見て国の呼び名を変える。「任那」とは伽耶のことであり実在した国である。
313年には、高句麗は楽浪郡や帯方郡を滅ぼし朝鮮を代表する国家となる。その結果、高句麗では騎馬民族と中国文化が融合し、隣接する百済では高句麗の影響で、本来の農耕民族的文化と騎馬民族文化の融合が進む。344~364年頃、倭国は新羅に対して圧力をかける。344年の新羅に対する人質の要求(花嫁の要求)、345年の倭国から新羅への国交断絶、346年の倭による新羅の金城攻撃、364年の新羅の吐含城への侵攻、この頃の大和政権は中国人による王朝といえる崇神王朝(景行天皇、成務天皇、仲哀天皇)である。
366年百済が日本に使者を送ってくる。大和政権は西暦369年3月、百済の頼みで新羅を攻撃する(日本書紀)。これに感謝した百済は、その年(西暦369年)、七支刀(七枝刀か)を作り、3年後の372年に大和政権に贈る。この七支刀は、石上神宮から発掘され国宝になっている。386年には高句麗の広開土王が即位し、百済の開弥城を攻め落とす。391年には大和政権(崇神王朝の仲哀天皇か)が、百済・新羅・倭の連合軍を作り高句麗と交戦したことが高句麗の広開土王碑(好太王碑)に書かれている。好太王碑文では、この連合体は倭国が指導的に組織し高句麗に攻め込んだと記述されている。韓国の歴史家は、これを百済が中心になり組織したと主張? 好太王碑文面では「倭は海を渡ってきて百済や新羅などを臣民とした」と。倭国が指導的に組織したと推測される。つまり、3世紀におきた百済、新羅、伽耶の国家は、4世紀までは朝鮮を代表する国家ではなく、北の高句麗に対峙するため、大和政権に依存していたのだ。この時期の朝鮮を代表する国家はあくまで高句麗だった。後世、新羅が朝鮮半島を統一したことで、朝鮮半島の歴史が複雑になる。高句麗が隋や唐の力を借りることなく百済、新羅、伽耶を併合していれば朝鮮の歴史は輝かしいものになったが、実際は新羅が唐の力をかりて朝鮮半島を統一(統一新羅)、朝鮮半島の不幸はここから始まった。
好太王碑文にあるように4世紀に大和政権が、百済、新羅、伽耶を支配下に置いたとしても、大和政権が朝鮮を征服したことにはならない。高句麗を支配下におけば大和政権が朝鮮を征服したといえるが、実際には大和政権は高句麗との戦いで敗れている。当時の伽耶の古墳からは新羅様式の冠帽・銅製碗などが出土する。高句麗と新羅は騎馬民族で、百済と伽耶は農耕中心の南方文化である。5世紀には双方とも騎馬民族の影響を強く受ける。日本では、5世紀(407年ごろか)には、崇神王朝から応神王朝に移り、前方後円墳も竪穴式から横穴式に変化している。百済の墓式が横穴式であるから、応神王朝は百済の影響を強く受けたことになる。5世紀後半には伽耶でも横穴式古墳が見られ、百済、伽耶、倭(応神王朝)は強い関係にあったといえる。竪穴式や横穴式の違いは、墓を作る技術者の出身が大きく影響している。百済出身の技術者が応神王朝の墓を設計施工したのであれば、横穴式となる。応神・仁徳天皇陵が横穴式古墳であるということは、百済出身の技術者によって構築されたのであろう。当時の大和政権は百済と良好な関係か主従関係にあった。
応神天皇(あるいは仁徳天皇)は崇神王朝の血を引く百済の皇子だったと考えられる。西暦404年、崇神王朝の仲哀天皇が高句麗に大敗してから、西暦410年頃、反仲哀派が倭国に入り新たな大和政権を樹立し、その後は百済・伽耶・倭との関係を強化する。応神王朝の雄略天皇は、5世紀の半ばには再三にわたって朝鮮に攻め入り、新羅や高句麗と交戦する。中国(宋)より「使持節・都督 倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓 六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の称号をもらうが、この称号は雄略天皇が軍事的に高句麗以外の国(新羅、伽耶、百済)に勢力をもっていたことを示す。
6世紀前半、新羅では、中国(北魏)の律令制度が施行される。新羅は中国(北魏)と仲良くし、中央集権国家を作り上げようとする。新羅王家は公的に仏教を取り入れる。この時(520年)を日本書紀では継体天皇14年としているが、継体天皇は即位してから20年後に大和盆地に移り、520年の時には新羅の中央集権制度導入の情報は聞いている。継体天皇は母方の実家が金官伽耶なので、伽耶が受ける新羅の脅威は、自分の脅威のごとく受け止め、伽耶救済のため6万の兵を新羅に送り、交戦し敗退する。当時、国内(北九州の磐井氏や奈良盆地や平群氏)での反対勢力が活動する中で継体天皇には6万の兵を朝鮮に出す力があった。新羅から仏教が日本に伝えられるが大和朝廷はこれを受け入れていない。大和朝廷が仏教を受け入れたのは、552年に百済の聖明王が仏像を欽明天皇に送った時であり、大和政権は敵国・新羅からの仏教は受けず、同盟国・百済からの仏教を受け入れた。仏教公伝は538年とする説もある。529年には大和朝廷は、遠征軍の大将であった近江毛野に、任那復興の調停を百済と新羅に働きかけるが不調に終わる。逆に新羅は金官伽耶の4村(金官・背伐・安多・委陀)を攻め取っている。
継体天皇は新羅の戦略に対抗するため、新羅に傾きつつある伽耶の4国を百済に割譲する。このことが伽耶諸国の反発を買い、伽耶と大和政権の関係は悪化する。531年に新羅は伽耶の「安羅」国王を殺害し新羅領にする。このような政治情勢の中で継体天皇は亡くなる。金官伽耶の金仇亥王は532年に王子2人をともなって新羅に降伏(金官伽耶の滅亡)。この後の欽明天皇は、この金仇亥王の息子か、金官伽耶に住んでいた継体天皇の後胤と考えられるが、日本の蘇我氏を頼って日本に亡命する。新羅は当時、降伏してきた王や皇子の地位を保全していた。この政策で、新羅は次々と伽耶の小国を新羅領に組み入れる。百済も同様で、話し合いや戦いといった過程はあるが、降伏すれば相手の地位を認めた。欽明が日本に亡命した時、同じような待遇を受けたとしても不思議ではない。蘇我氏の出身は伽耶である。金官伽耶が滅び、継体天皇が死去した時、蘇我氏にとって欽明は主家筋にあたり、継体天皇の2人の皇子(安閑と宣化)よりも欽明は大切な皇子だった。
欽明天皇は金官伽耶の復興に固執し、百済との連係を基本に新羅に金官伽耶復興を働きかける。日本書紀では欽明の在位は32年間(539年-571年)とあるが、「聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」などでは、欽明の在位は、531年~571年で40年または41年としている。日本書紀では537年に宣化天皇が伽耶に援軍を出しているが、これは欽明の伽耶奪還作戦だ。欽明は541年に任那復興会議を提唱する。欽明は、伽耶にいる近江毛野を支援するため「任那日本府」を設置する。現代の韓国では、任那と同様に「任那日本府」もなかったという歴史学者が大半だが、日本側の資料(日本書紀など)を見る限り、任那とは金官伽耶のことであり、大和政権が金官伽耶復興のための出先機関として設置した軍事基地と考えられる。
現地の情勢を知る近江毛野は、欽明の意向である百済支援をせず、新羅と手を結んだ方が得策と考え、本国や百済の意向を無視する態度に出る。このことが、百済の聖明王の怒りとなり、百済から使者が欽明天皇のところに来る。545年、欽明は膳臣巴提便(かしわでのおみはすひ)を百済に援軍として出す。これは金官伽耶を奪い取った新羅との戦いのためであり、欽明は百済とともに任那奪還を試みる。大和政権・百済の連合軍と新羅軍との戦闘は激しくなる。548年に高句麗が南下をはじめ、新羅や百済は伽耶の問題に時間を割く余裕はなくなる。一時的に新羅と百済は協力して高句麗の防衛にあたるが、高句麗が兵を引くとすぐに百済と新羅は争いを始める。553年には新羅は百済の漢城を落とす。聖明王が百済の国宝級の仏像をもって日本に仏教を伝えたのは、漢城陥落直前の551年。漢城陥落の翌年554年、百済の聖明王は新羅との戦いで戦死、百済軍の死者3万人。その後、百済は日本の蘇我稲目に援軍要請をするが、蘇我稲目はこれを拒否する。
「父が熱愛していた伽耶」といったり、詔のなかで新羅を「君父の仇」と呼び、遺言で「新羅からの任那の奪還」といっている。欽明天皇は即位前から死ぬまで伽耶の復興を願う。欽明の倭風諡号は「天国排開広庭天皇」(あまのくにおしひらきひろにわすめらみこと)で、新王朝を開くとも受け止められる称号だ。これまでの応神王朝は百済系であったことを考えると、欽明天皇のように伽耶系の人が天皇になったのは、新王朝と呼ぶにふさわしい天皇であった。日本書紀には、欽明の没年が「年若干」と書かれて詳細は記述されていない。欽明の幼名も不祥だ。欽明は伽耶の皇子であるが、事情があって正式な皇子とは認められていない。伽耶に住んでいた応神の後胤か伽耶に住んでいた継体の子ともいわれる。
欽明天皇が伽耶出身であることが、伽耶復興の動機となり、これを支援したのが蘇我稲目である。欽明の皇子達は蘇我氏の娘を后妃としているか母親が蘇我氏だ。蘇我氏は欽明を天皇にした。欽明天皇(29代)は571年に亡くなり、欽明の皇子たちは、敏達天皇(30代)、用明天皇(31代)、推古女帝(33代)、崇峻天皇(32代)と次々に天皇になるが、崇峻や用明の子・厩戸皇子(聖徳太子)は、欽明の遺言どおり、新羅討伐のため兵を九州に集結させ、伽耶の復活を図る。しかし、蘇我馬子の反対で開戦にはならない。欽明の一族は孫の代まで伽耶の復権を願い、遺言に答えようとする。蘇我馬子や蘇我蝦夷は常に伽耶復興軍の派遣に反対する。蘇我馬子は仏教を尊び、崇峻天皇や聖徳太子による新羅への派兵計画に反対し、晩年には新羅と国交(621年)を回復する。戦闘一辺倒であった七世紀前半、平和的な行動をとった蘇我氏ではあるが、古事記や日本書記の実質的な編集管理者であった藤原不比等の策謀により、蘇我氏のことは「極悪人」として書かれている。
日本では「戦後の贖罪外交」・「自虐的歴史教育」から古代史解釈をする人が多い。また、韓国の歴史家は、「反日・愛国政策」などを背景にした歴史解釈をする。大化の改新で、蘇我総領家は滅亡する。その背景には、百済出身の中大兄皇子や母の皇極天皇の意思が見え隠れする。皇極天皇の夫である舒明天皇は百済色の濃い人で葬儀も百済方式だった。舒明の葬儀が百済方式ということは、百済系の人が側近として舒明に仕えていたか舒明自身が百済の出身と考えられる。蘇我氏(蝦夷)は、いつまでも伽耶復興を願う欽明の後胤に嫌気をさし、推古の後継者に百済系の人である舒明を選ぶ。聖徳太子の子・山背大兄皇子を殺したのも欽明系の伽耶復興政策を断ち切るためだった。大化の改新は、蘇我氏を中心とした伽耶系の人々から、存亡の危機にあった百済の救済のため百済系の人たちが起こした「クーデター」と見られる。その過程では、孝徳天皇のように高句麗と手を結ぶことで事態の解決を図ろうとした天皇もいた。そして、新羅系の天武天皇が出現することになるが、結局は、持統天皇により百済系の人達で皇統を継ぐことになる。
桓武天皇が出現するまでは都は奈良にあったが、この間の大半が百済・伽耶・新羅という朝鮮系の天皇だった。桓武天皇は、母が中国人であったため中国系という意識が強く、朝鮮に関する多くの資料を焚書した天皇としても知られている。日本書紀は本来31巻であるが、最後の巻は皇統の系図が書かれている。桓武天皇は、これを焼き捨てた。また、北畠親房の「神皇正統記」には「昔、日本は三韓と同種なりとありし書を、桓武の御世に焼き捨てられる」という記述もある。桓武天皇以降、日本の支配者の中に、百済でもない、伽耶でもない、新羅でもない、神代の時代から日本に住み着いていた支配者であるという国民意識がだんだんと生まれてくる。この国民意識の発揚こそが、古事記や日本書紀の目指したものだったのかもしれない。