

文庫になるのを待ちきれず、区民図書館で借りてきた「血涙―新楊家将」。
以前このブログで紹介したことのある「楊家将(上・下)」の続編です。


「楊家将」にしても「血涙」にしても、涙なしでは読みきれない。
そして、最後は虚しさや悲しみで心がいっぱいに。
特に「血涙」では、部門としての栄光は取り戻せないまま楊家軍を再興した楊六郎と楊七郎が、実は楊家の生き残り楊四郎と兄弟にもかかわらず宿敵となってしまうという悲しいお話。楊家軍は宋国の中でも未だ異端児扱いで、都合よく使われてしまう運命とあり、その立場がすでに悲劇的なのに、兄弟同士で殺し合わなければいけないなんてあんまりだ。
宋国内での楊家軍の立場はものすごく微妙。なくては困るけど、力を持ちすぎてしまっては困るという専門家集団。強くなればなるほど、専門的に力がつけばつくほど疎んじられるって・・・あっていいわけ?でもこれって、この当時の国家運営だけでなく、現代の国家運営、会社組織の中にも似たような関係が見出せるなあ、なんて思いながら読み進める。最後の最後には死に兵として使われてしまう楊家軍の方が、現代人よりももっと過酷な立場に置かれているんだろうけどね。
でもこの本を読んでいるとつくづく思う。この世に「唯一の正義」は存在しないということ。楊六郎の正義も、楊四郎の正義も、宋主の正義も、遼主の正義もそれぞれの立場から見れば、それぞれに正しいことを言っているし理解できる。だけど、ひとつを立てれば他の正義は成り立たないし。そういうとき、大体はより大きい方、より権力があるほうの正義がまかり通ってしまって、そうでないほうは苦しむしかない。いつの世も同じこと。
で、こういう結論に達すると、「じゃあ、何も言わないほうがいいってこと?」「口をつぐんで従ったほうがいいってこと?」「不本意なことに従えってこと?」「我慢しろっていうこと?」、そんなのって最悪って絶望的になっちゃうけど、やりかたはあるのかも。楊六郎のように誇りをかけて思う存分闘い、必要とされなくなったら、またはまったく自分が嫌になってしまったら、別に生き場を得るというのもあり。行き詰ることがしばしばある人生なので、本を読んでは、主人公たちの人生をなぞっては自分の生き方を反省し、方向を修正する。そういう意味でも北方謙三の歴史小説は大いに役立つ。
それにしても、本書の楊六郎は、今にも死にそうな危ない目に幾度か合うし、父楊業や兄楊四郎と較べても無敵と言う感じがなぜかしてこないのだけど、最後はこの人だけが生き残ってしまう。楊家軍を解体し、山中で隠遁生活を送る楊六郎の子孫から「水滸伝」で活躍する楊志が出て、その後「楊令伝」の楊令へと話が続くんだけど、「楊令伝」も文庫化は待てないなあ。図書館で借りてくるかあ。