YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

国境での出来事そして座席の奪い合い~ニューデリーの旅

2022-02-02 09:16:47 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年(1969年)1月30日(木)晴れ(国境での出来事)
*参考=公式レート~1ドルは360円、1ドルは7.3ルピー、1ルピーは約49円、1パイサは49銭 ・日記を書くに当ってルピーは公式レートで表記した。
 *闇両替レート~1ドルは9.25ルピー、1ルピーは約39円、私は闇両替屋を利用した。

 デモは終り、ラホールにいつもの様な喧騒な街に戻った様であった。ラホールの街は汚く、通りには男達であふれ、その反面、女性は人っ子1人見当たらず、道路には自動車、自転車、馬車、そしてリキシャであふれていた。 
 私、ロン、竹谷の3人は朝食も食べず、ボーダー(国境)行きバスに乗り込んだ。ラホールから国境まで25km程か、運賃は1.75ルピー(86円)であった。バス車内で〝それらしき旅人〟(大阪市出身の「関さん」仮称、以後敬称省略)と出合った。彼は長い間の貧乏旅行の為、それらしき格好に一段と磨きがかかった旅人であった。当然、私もそれらしき格好に日を増す毎に磨きがかかって来ていた。我々は彼と直ぐに気が合い、行動を共にする事になった。
 パキスタンのボーダーの街は、思っていたより店屋が多かった。又、インド映画のポスターや映画女優のブロマイドを初め、かなりのインド商品を扱っているのが以外であった。パキスタンのお金はインドへ持ち込めないので小額であったが、ここで全部使い果たした。それにしても平日にもかかわらず、学校へ行かない子供達が目に付いた。中には働いている子供達も大勢いた。そんな子供達5・6人がいつの間にか私の周りに纏わり付いて来た。
 内1人が、「オジサンはジャパニー?」と子供。
「ジャパニーだよ」と私。
「ジャパン、ナンバー・ワン」と子供。
パキスタンの子供も日本の良さを知っているのか、少し嬉しかった。しかしだからそれが如何なの、と言う感じであった。
「ボクシス(お恵みをorお金頂戴)、ボクシス」とその子供。
「お金は無いよ。あっちへ行きな」と私。
彼等を相手にすると切りがなく纏わり付くので、手でハエを追い払う仕草で拒否した。これからもそうであるが、この様な時のお互いの言葉は現地語、私は英語か日本語若しくはジェスチャであった。
 パキスタンの出国は何ら問題も無く済んで、国境を越えインド側へ入った。それから直ぐにインドの出入国管理事務所があった。旅券、査証の入国審査が無事終り、これでOKかと思ったら、手荷物検査があった。何十ヶ国も回って来てソ連以外、手荷物検査は無かった。だからここに来て突然言われて、少しビックリした。しかし私は別に怪しい物を持っていなかったので、何ら心配・不安は無かった。私、ロン、竹谷の検査は異状なく済んだ。
「ミスター関、次は貴方の番だ。リックの中の物を全部出して。」と係官。
彼は少しうろたえている様であったが、中の物を出し始めた。
「これで全部です。」と関。
 「ノー、アナタまだ残っているようだ。」と言って、係官自ら彼のリックを調べ、中から黒の布で包んであった物を取り出した。
「ミスター関、これは何だ。」と言ってその布を開け始めた。
「オー、時計ではないか。しかも6個も。ウムー、これはスイス製の時計だな。これは没収だ。」と言って彼は上司の所へそれを持って行った。
 「ミスター関、腕時計は自分で使う物以外、持ち込み禁止になっているので没収する。」とその上司。
彼は髭を生やしガッチリタイプで少し偉ぶった横柄な態度で言った。
 「ノー、これは日本のお土産用にスイスで買ったのです。インドで売るつもりはありませ。だから返して下さい。」と関はオドオドしながらも懸命に弁明した。私、ロンそして関も弁護し、許し願った。
「罰金として1万ルピー(49万円)を出せば返還する。」と上司。しかし、それは余りにも法外な額であった。彼は40ドルしか持っていなかった。結局、彼は諦めた。関や我々は役人の「没収」と言う言葉を覆す事は出来なかった。
 我々は入国手続きを済ませ、事務所を後にした。そしてインドの国境の町・Amrituar(アムリッツァル)に入った。1947年、東西パキスタンとインドがそれぞれ別々の国として独立した時に、〝民族の大移動〟(パキスタン側に住んでいたインド人のヒンドゥ教徒達はインドへ、インド側に住んでいたムスリム達はパキスタンへ)があり、このアムリッツァル付近一帯で、異教徒同士が連日の様に殺し合いをし、100万人が命を落としたそうであった。そしてあれから20年以上経ち、今はそんな事件があったのが嘘の様に思えるほど、平和の様に感じられた。   
 国境付近からリキシャ(2人用の座席がある客車を自転車で牽引する乗り物。人力車の自転車番)に私とロン、他のリキシャに関と竹谷が乗ってバス発着所まで行った。リキシャのおじさんは最初5ルピーを要求して来たのであるが、1ルピー(49円)までまけさせた。これはインドが初めてでない関が、リキシャの乗り方・事情を知っていた為、不当な要求を覆したのだ。そしてバスで駅まで来た。駅でアムリッツァル~ニュー・デリー間3等切符12.35ルピーを 6.25ルピー(306円)で学生割引乗車券を買った。
  夕方、我々は夜行列車に乗る為、子供を含む大勢の人々と共にプラットホームで待った。列車がホームに進入し停車した途端、否、停車直前既に大勢の乗客が一斉に座席目掛けて突進した。怒号と罵声が飛び交い、座席の奪い合いが始まった。その光景はまさしく合戦(いくさ)であった。我々も負けまいと席を目掛けて突進したが、席は誰一人取れなかった。勢いに圧倒された我々は、完全にインド人に負けたのであった。ニューデリーまで一晩中、立って行かねばならないのか、『参ったなぁ』と言う思いであった。他にまだ多くの人達も席に座れず立っていた。その彼等と座っている人と原因は分らないが、激しくやりあっていた。
すると、「オジサン、席が空いているよ。こちらにどうぞ。」と子供が言って来た。その子供に案内され、そこの席へ行くと他の子供達が席を取っていて、我々の為に4人分の席をサット譲ってくれた。
彼等は親切な子供達と思いきや、「1人1ルピー」と言うのであった。これにはビックリ仰天、インドの子供達の狡賢い知恵に感心した。でも感心していられなかった。
「君達は切符持っているのか。」と関。
「持っていないけど、オジサン達の為に席を取ってやったので、1人1ルピー下さい。」と、子供達は請求してきた。
 「席は切符を持っている人の物だ。お金はやらんぞ。君達は列車から降りろ。」と我々も断固拒否した。
「お金、1ルピーを」、「否、駄目だ」の応酬であった。「50パイサ」、「ノー」「ババ、1人に付き50パイサ」「ノーマネー、ノー」
子供達も生活が掛かっているのか、懸命に要求した。『たかが1ルピー40円か50円』と思うが、ここで払ったらインドの子供達にも負ける事になるのだ。頑として払う事はしなかった。そして発車時刻になったら諦めたのか、彼等は列車から降りて行った。大勢立っていた人達も居たが、列車が動き出したら立っている人は、大分少なくなっていた。成る程、座席を取ってその席を売る為に大勢並んでいたのだ。それにしても凄い席の奪い合いであった。これがインドなのであった。
 車内は薄暗く汚い感じがしたし、何処となく変な匂いもした。回りのインド人達は皆貧しそうで、そして薄汚れた服装、変な匂いは当然であった。何人かの人が席の上にある網棚で横になっていた。私も網棚に登り、荷物を盗られない様に注意し、体を横にした。列車は闇の中をニューデリーへ疾走した。
  所で、車中で関から聞いた話だが、彼はまだ他に時計4個持っていた。その他に彼は縦横5㎝×12㎝程の〝ハシシ〟(「ハシシュ」とも言う。チョコレートに似ていて、人によっては「チョコ」と言っている。覚せい剤の一種)を持っていたとは、ビックリであった。
ハシシの原産地はインドの北方らしいけど、ヒッピー達がこれを求めてインドへ流れて来ると言う噂は、私の耳に早い内から入っていた。私はヨーロッパで1回、インドで1回、後学の為に〝回し飲み〟(何人かが車座に座り、ハシシを詰めた1本のパイプを皆で回しながら吸う事)して吸った事があった。良い香りがして、タバコより甘ったるい味であった。本当に1・2服であったので、良い気持とか幻覚とか、その様にはならなかったし、癖にもならなかった。
  ハシシはヨーロッパでは高く売れるが、インドへ持ち込んでも何にもならないのだ。彼が何処で手に入れ(多分、アフガニスタンかパキスタンと思う)、如何しようと私には関心なかった。彼はハシシが発見されずホットしていた。しかし彼の旅券に時計6個を密輸した旨の記載がなされたのであった。