・昭和44年(1969年)2月28日(金)曇り後雨(パトナーからカルカッタへ)
6時30分に起き、渡辺と共にドミトリーを出た。渡辺はネパールへ行くのでガンジス川を渡る船着場の方へ、私はパトナー駅へ行くので宿泊近くの大通りで各々左右に別れた。振り返ると彼は、船着場の方への坂をトボトボと歩いて行った。彼の旅愁を帯びた後ろ姿は、終に見えなくなった。「お互い元気で旅を続けよう。さようなら。」と別れ際に言ったが、真にそう思った。本当は私も出来れば彼と共にネパールへ行って見たい心境であったが、金銭的な事、ネパールの査証の事、そしてオーストラリアへの入国時期が迫っている等で、彼と共に行く事が出来なかった。
駅へ行くのにリキシャを拾った。着いて60パイサ払った。リキシャのおじさんは、「少ない」と言っている様であったが時間の無駄、交渉せず無視してスタコラと駅構内へ入って行った。おじさんは何を言っているのか分らないが、犬の遠吠えの様にワンワンと吠えていた。私は確信していた、60パイサ(約30円)が妥当な額だと。
駅食堂で朝食取ってから、10分遅れのカルカッタ行きの列車に乗車した。運良く座る事が出来た。長い列車の旅であったが、18時40分、〝カルカッタ〟(現在は「コルカタ」と言う)のハウラ中央駅に到着した。外から見たハウラ駅は、ボンベイの駅と同じく、ロンドンのヴィクトリア駅に似ていた。
カルカッタの宿泊は、YMACと決めていた。雨が降っていたので、駅前からタクシーで行く事にした。雨に降られたのはいつ以来であろうか。それにしても久し振りの雨であった。牛がたむろしていた為、Hoogly River(フーグリー川)を渡るHowrah Bridge(ハウラ橋)は交通渋滞であった。車から眺めるカルカッタの街の様子は、人が歩道から溢れている様な状態であった。『カルカッタは凄いなぁ』と言うのが私の第一印象であった。交通渋滞があったが駅から40分前後でYMCA(138 Keshab Sen Street Calcutta)に着いた。タクシー料金は、2ルピーであった。これは正当料金の様に感じた。
部屋はドミトリーでなく、1日4ルピーの1人部屋であった。綺麗とは言い難いが、ニューデリー以外でインド滞在中、最適でしかもシャワー付であった。今夜はシャワーでも浴びて、ゆっくり休みたかった。