・乞食の話
インドを訪れた途端、あらゆる面で旅行者はカルチャーショックを受けるであろう。特に日本や欧米から直接インドに来て、群れをなすその乞食の数を見ると、その悲惨さに身震いし、驚愕しない人は居ないであろう。だが日が経つにしたがって、その悲惨さに慣れて来るのか、インドはこれが現実なのだと認識し、あたりまえの光景になっていた。私はイギリス、フランスから中東の経済的に発展してない国へと旅をして来たので、身震いや驚愕はしなかったが、それでもカルチャーショックを受け、驚いたのは確かであった。
私がニューデリーに着いたその日に、ある体験に出くわしてしまった。1人の子供が「バクシーシ(お恵みを)、バクシーシ」と五月蝿(うるさい)いので、10パイサ(5円)を恵んだら、いつの間にか20~30人以上の大人や子供の乞食に取り囲まれ、「バクシーシ、ババ、バクシーシ。テン・パイサ、10パイサ。」とバクシーシの合唱になってしまった。その乞食の多さ、囲まれた怖さでその場から一目散に逃げた。そして以後、乞食にはやらない事にした。実際、彼等に幾らあげてもきりがないし、インドの何処の街を歩いていても、「バクシーシ、ババ、バクシーシ」と言われるので、彼等と顔を合わせない、無視(目線を合わせない)して通る事にした。
その乞食の数も然る事ながら、彼等の中に手や足が無い乞食(「ハンセン氏病(ライ病)」から来る現象らしい)も大勢見掛けた。そんな中でも両手両足の無い、まるで芋虫の様に這いずり回っている乞食もいた。又、栄養失調で足は私の腕位、腕は針金の様に細くなっていて、自分の体重を支えられないので、四つん這いになって移動する乞食もいた。そう言う光景、彼等の姿を見るとショックを受けた。その様な乞食に、「バクシーシ、バクシーシ」と悲しそうに言われると、私も本当に辛いし、悲しくなった。その様な姿を見ていると本当に悲惨で、耳をふさぎ無視して通るのがやっとの思いであった。
生存競争の厳しいインド社会で、しかも芋虫の様に手足が無い乞食が、如何して生きて行っているのであろうか、考えただけで恐ろしくなる。逆説的に、大勢いる乞食の中で、『如何に哀れさを出し、悲惨的な乞食を演出するか』が返って『バクシーシ』を受けられ、生きて行けるのかもしれなかった。いずれにしても私は貧乏旅行者、哀れさや同情の気持は、インド滞在中は禁物であると悟った。裏返せば哀れさや同情心では、何の解決策にもならないからであった。
それとも、もう1つの仏教の教えから来る考え方として、乞食にお金を与える事(施し)はお布施であり、お布施をする事によって乞食から功徳を受け自身の心を満たす(功徳を積む)、その様な捉え方もある。インドでは『お金持ちが乞食に施しをするのは、当然である』と思われている様であった。そんな訳で、インドでも最後に訪れたカルカッタの乞食は、数から言っても最高だが、恐ろしい事(不思議な事)に、彼等のそんな光景を見ても何にも感じなくなっていた自分は、もっと怖い、もっと恐ろしい人間になってしまっていたのかもしれなかった。
インドを訪れた途端、あらゆる面で旅行者はカルチャーショックを受けるであろう。特に日本や欧米から直接インドに来て、群れをなすその乞食の数を見ると、その悲惨さに身震いし、驚愕しない人は居ないであろう。だが日が経つにしたがって、その悲惨さに慣れて来るのか、インドはこれが現実なのだと認識し、あたりまえの光景になっていた。私はイギリス、フランスから中東の経済的に発展してない国へと旅をして来たので、身震いや驚愕はしなかったが、それでもカルチャーショックを受け、驚いたのは確かであった。
私がニューデリーに着いたその日に、ある体験に出くわしてしまった。1人の子供が「バクシーシ(お恵みを)、バクシーシ」と五月蝿(うるさい)いので、10パイサ(5円)を恵んだら、いつの間にか20~30人以上の大人や子供の乞食に取り囲まれ、「バクシーシ、ババ、バクシーシ。テン・パイサ、10パイサ。」とバクシーシの合唱になってしまった。その乞食の多さ、囲まれた怖さでその場から一目散に逃げた。そして以後、乞食にはやらない事にした。実際、彼等に幾らあげてもきりがないし、インドの何処の街を歩いていても、「バクシーシ、ババ、バクシーシ」と言われるので、彼等と顔を合わせない、無視(目線を合わせない)して通る事にした。
その乞食の数も然る事ながら、彼等の中に手や足が無い乞食(「ハンセン氏病(ライ病)」から来る現象らしい)も大勢見掛けた。そんな中でも両手両足の無い、まるで芋虫の様に這いずり回っている乞食もいた。又、栄養失調で足は私の腕位、腕は針金の様に細くなっていて、自分の体重を支えられないので、四つん這いになって移動する乞食もいた。そう言う光景、彼等の姿を見るとショックを受けた。その様な乞食に、「バクシーシ、バクシーシ」と悲しそうに言われると、私も本当に辛いし、悲しくなった。その様な姿を見ていると本当に悲惨で、耳をふさぎ無視して通るのがやっとの思いであった。
生存競争の厳しいインド社会で、しかも芋虫の様に手足が無い乞食が、如何して生きて行っているのであろうか、考えただけで恐ろしくなる。逆説的に、大勢いる乞食の中で、『如何に哀れさを出し、悲惨的な乞食を演出するか』が返って『バクシーシ』を受けられ、生きて行けるのかもしれなかった。いずれにしても私は貧乏旅行者、哀れさや同情の気持は、インド滞在中は禁物であると悟った。裏返せば哀れさや同情心では、何の解決策にもならないからであった。
それとも、もう1つの仏教の教えから来る考え方として、乞食にお金を与える事(施し)はお布施であり、お布施をする事によって乞食から功徳を受け自身の心を満たす(功徳を積む)、その様な捉え方もある。インドでは『お金持ちが乞食に施しをするのは、当然である』と思われている様であった。そんな訳で、インドでも最後に訪れたカルカッタの乞食は、数から言っても最高だが、恐ろしい事(不思議な事)に、彼等のそんな光景を見ても何にも感じなくなっていた自分は、もっと怖い、もっと恐ろしい人間になってしまっていたのかもしれなかった。