YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ボンベイの洗濯屋さん~ボンベイの旅

2022-02-13 14:39:47 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月10日(月)晴れ(ボンベイの洗濯屋さん)
 朝や夜のニューデリーは、寒かった。だがかなり南下して来たのか、夏の気候の様にマハーラーシュトラ州は列車に乗っているだけで汗が額からポタポタ落ち、暑かった。
 朝食は食べたが、昼食は抜いた。列車はボンベイ駅に近づきつつあるらしく、速度を落として走っていた。バラックの家々が直ぐ線路脇まで建てられ、それらの家々が延々と続いた。そして線路内を大勢の人が構わず歩いていた。何とも形容し難い光景であった。投石されても怪我をしない様、乗客各自が窓の木製のカーテンを閉めた。インドでは大都市周辺では投石があるらしく、列車がデリーに近づいた時も、乗客が一斉にカーテンを閉めていた。列車は、2時30分頃に到着した。ボンベイのターミナル駅は、ロンドンのヴィクトリア駅に似ていて、街の建物も英国風であった。ボンベイ(現在は「ムンバイ」)は、マハーラーシュトラ州の州都、アラビア海に面するインドの西の玄関、東のカルカッタ(現在は「カルカタ」)と並び、インドで最も西欧化の進んだ商業都市である。
 私とロンはそんなボンベイに足を踏み入れた。駅を出て、歩いて間もなく大きな洗濯場があった。コンクリートの洗い場で何人もの裸の男達が洗濯物を頭上に持ち上げ、それを何回も繰り返してコンクリートに叩きつけて洗濯していた。変わった洗濯方をしているので、我々はそれを眺めていた。洗濯物の量が多いので、個人的に洗っているのではなく、洗濯を商売にしている様であった。電気洗濯器が無いのであろう。彼等は洗濯物を叩きつけて洗濯する方法の他に、足で踏んで洗濯する方法、或は手で揉んで洗濯をしていた。いずれにしてもコンクリートに叩きつけたら生地が痛むであろう。そうでなくてもインドの生地は余り良くはないのに(?)、とその様に思いながら暫くの間見物していた。
 所で、私はまだロンに言ってなかったが、実は心の中で、『今日、駅に着いたらロンと別れて1人、Buddhist Temple(仏教寺院と言って、インドにある仏教のお寺は無料で宿泊させてくれると言う情報を得ていた)へ行って、そこに宿泊しよう』と思っていた。しかしロンと別れるのも寂しいし、今日は暑いし、腹は減っているし、道は分らないし、探し回るのが億劫であるし等々、自分に都合の良い理由を付けて、我々が泊まろうとしているThe Salvation Army(救世軍の宿泊所)へロンと共に行く事にした。
 我々が汗をかきながら通りを歩いていると、多くのインド人は素足で歩いていた。足が蒸れて来たので、『私も素足で歩こう』と思い、試しに素足で歩いてみた。その途端「アチチチ」、道路は焼け付く熱さ、とても素足では2歩も歩けなかった。「インド人の足裏とヨシの足裏とでは、皮膚が違うのだ」とロン。全くその通りであった。
 サルベーションアーミーに着いたが、既に満室との事で我々は泊まれず、ガッカリ。ここの前で1時間ぐらいウロウロしていたら、ニューデリーの部屋で一緒だった竹谷に再会した。彼はここに宿泊していたのだ。確か彼は我々より2日早くニューデリーを発っていた。でもこんな所で又出逢うとは、本当に旅は面白い。
 ロンはあちこちと宿泊探しに歩き回っていた。私は2.3人の日本人とここで話に花を咲かせていた。彼等の話しによると、「シーサイドホテル(ドミトリー)が安い」と言うので、宿泊探しから戻って来たロンと共にそのホテルへ行った。宿泊料金5ルピーは思ったより高いらしく、ロンは怒った。我々は一旦引き上げた。しかし、結局他に適当な宿泊場所が無く又、戻って来て泊まる事になった。
 夜、私、ロン、竹谷は他の日本人2人と共に港の方へ散歩に出掛けた。海に面する海岸通は椰子の木が繁り南国風で美しく、アラビア海の塩の香りが鼻をくすぐった。〝Gateway of India〟(『インドへの門』と呼ばれ、パリの凱旋門に似ていた)及びその周辺は、海風に吹かれながら散歩を楽しむ上流階級のインド人家族の人々も見うけられた。我々も涼しい塩風に吹かれながら、安らぎの一時を過ごした。