YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

映画のエキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

2022-02-16 16:49:14 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月14日(金)晴れ(エキストラの仕事とカメラを売る)
 私と荻は欧米人と共にサルベーションアーミー前に9時集合し、映画会社が手配したバスに乗り込んだ。間もなくバスは出発した。歩道は多くの寝ている乞食、路上生活者や歩行者、そして道路は車とリキシャで相変わらず溢れていた。間もなくしてボンベイ島を出たら、バラックの貧しい家々が延々と続いた。ボンベイはもう何から何まで凄く、そしてあらゆる面で雑多な都市であった。
 40分位で撮影所に到着した。そこは市内から25キロ程(タクシーで10ルピーの区間)の郊外へ出た所であった。(*1ルピーは約50円、闇両替は39円)
 午前中、我々は何もする事はなかった。昼過ぎから1時間30分程エキストラの練習をした。練習は難しいものでなかった。エキストラの撮影現場は、日本のキャバレーの雰囲気の様な酒場であった。我々外人はただ席に座って、酒(コーラを薄めたドリンク)を飲みながらお互い雑談し、インド人スタッフが「舞台に踊り子達が登場するから、拍手してくれ」と言う指示、また「踊り子が登場したと仮定して、皆一斉に手を叩き、そして踊りが終ったら、皆は席を立って手を叩き、踊り子達に向かってブラボーとか、ワンダフルとか、ベリーナイスと言って大袈裟に彼女達を称賛してくれ」と言うので、拍手や踊りが終ったと仮定して手を叩き、大袈裟に称賛の言葉を投げ掛ける、そう言った練習を何回か繰り返した。
 本番は午後3時頃からであった。我々は酒場で酒を飲み、或はお互いに雑談をして酒場の雰囲気を作った。間もなくサリーを纏ったインド美人の踊り子4人が舞台に登場、そこで一斉に拍手した。そしてインドの音楽に合わせて踊りだした。直ぐに踊りは終了した。そこで我々は拍手喝采し、そして席を立ち彼女等に、「ブラボー、ベリーナイス、ワンダフル」と言って大袈裟に称賛した。この様な部分的な撮影を繰り返し、エキストラの仕事は1時間半位で終了した。
 しかしこんなエキストラの撮影で良い映画が出来るのか、疑問であった。私は映画撮影の事を分らないが、そんな感じがした。
 所で、インド映画の特徴は、勧善懲悪の単純なストーリーで、歌と踊りがいっぱいの娯楽に徹した映画と言われている。ストーリーの中で裸のセックス場面やキッスの場面も無い、純情その物と言う。女優の水着姿の場面があれば、観客は口笛を吹いたり拍手をしたりして、大騒ぎをするそうだ。それは我々のエキストラの仕事と重なり合う場面でもあった。  
 話は逸れたが、それにしてもただ座っているだけで、しかもトータルにして3時間、それで35ルピーとは良い仕事であった。インドの下層階級の人が1日重労働して2~3ルピーなのに、少ない時間でその10倍以上貰ったのだ。私は満足であった。因みにインド中流クラスの1ヶ月の収入は、180~230ルピー位であるらしい。それでもアメリカ人の中には不満を漏らしていた人も居た。「1日拘束され4ドルとチョットでは少なすぎる。アメリカで1日働くと軽く12~15ドル(87~109ルピー)は稼げるのだ」と。
 撮影終了後、監督らしき人(スタッフではなかった)に、「貴方は随分良いカメラ持っていますね。」と声を掛けられた。実はこの時、私は肩からカメラをぶら下げ、撮影所内を歩いていたので、彼の目に留まったのだ。
「イエス、キャノンのカメラで高かったよ。」と私。
「見せてくれる。」と彼。 
彼はカメラを良く見てから「売ってくれないか。」と言って来た。
それは私にとって渡りに船であった。しかし私は売る気のない素振りをして、わざと考え込んだ振りをした。
「良い値で買わせてもらうよ。」と彼。街では最も高い値で「100ルピー」と言っていたので、「200ルピーなら売りましょう。」と私は言った。
「200ルピーは高い。150ルピーで買います。」と彼。
「150ルピーは安すぎる。170ルピー、これで如何でしょうか。」と私。
「それでは170ルピーで買いましょう。」と言って商談は成立した。彼はその場でズボンのポケットから札束を出し、その内から170ルピーをポンと支払ってくれた。
 バスで帰って来た。先日、カメラを売り歩いている時に街で中華レストランを見付けたので今日は懐が暖かいし、夕食はそこへ行って炒飯(5ルピー)を食べた。最近ろくな物しか食べていないので、頬っぺたが落ちるほど旨かった。