『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 「自分の夢中」 を喪ってから現れる…… 自分との対話

オリンピックが始まる前は、朝のニュースでメジャーリーグの大谷選手の活躍を観るのが楽しみだった

オリンピックが始まるや、毎日のよーに更新される金メダルが決まった瞬間に一喜一憂している自分…… 

さて、つまらない閉会式で余韻に浸るわけにもいかず、とうとう地元開催のオリンピックが終わってしまった

予想はしていたが…… 終わってみれば、御コロナ様の感染爆発が残るのみ、それどころかお盆に向かってまだまだ増え続けている

オリンピック・ロスと御コロナ感染者数過剰が一挙に押寄せてくる

周りに一喜一憂してばかりの今、「そこに愛はあるんか?」

いや、「そこに自分はあるんか?」

 

(拙稿)> 以前放送された、NHK『戦後70 ニッポンの肖像プロローグ』の中で

コメンテイターのお一人・タモリさんが、云われていたのだが

高度成長期の風潮だった “ モーレツ(社員) ” のかげに潜む、日本人の心象とは

>タモリ 「 仕事してる、(それを)やめると自分のことを考えなきゃいけないと云う恐怖があったんじゃないかと思うんですけどもね。」

司会 「えっ、どういうことですか?

タモリ 自分との対話というのは、一番人間にとって辛いものですから。

それやめて、仕事に外に向いとけば、なんとなく格好つくし

仕事してる奴に向かって、誰も非難できないわけですからね。」

 

‥‥  大学の安保闘争や反戦のフォーク・ゲリラなどに、のめり込んでいたのは、私らの上の世代(団塊の世代)なのですが、

その世代のタモリさんは、それを「重い」と感じておられたよーです

「意味の連鎖」とゆーものは重いと

だから、言葉を解体し、コミュニケーションを解体しよーとしたと

『天才バカボン』の赤塚不二夫もまた、ナンセンス・ギャグ漫画でそれをしよーとなされたと

徹底的に「無意味(ナンセンス)」なものを提示し続けたのです

しかし、国の安全や反戦などが「重い」ものであるからこそ

それに打ち込み、【自分を忘れさせる】ことが出来たのです

自分に向き合わずに、外に現実(うつつ)を抜かすことが、その時代は可能でした

しかし、「オイル・ショック」を経て、「プラザ合意」後押し寄せた「バブル」の波に呑まれた頃の日本には

そんな、自分を忘れさせる対象は最早無くなっていたのです

その隙に、「オウム真理教」などのカルト宗教などが入り込んだのであろーと彼は見ておられました

 

この根本的な図式

自分に向かい合わずに、周りの外に向かって、自分を忘れてのめり込むとゆー構造

いつの時代も、いまの中国や韓国でも全く同様だな~としみじみ歎息してしまいました

「伊勢白山道」における、内在神と外在神とに相当します

『過去から未来へ向かって生まれた自我』は、

重大(らしき)事を自分に引き寄せ肥大化し、本当の自分と向き合う内省にその場を決して譲りません

「今」を生きる「今」に没入する自分にとっては

過去から未来に向かって積み上げられた成果(排泄物)に、どれほど意味がありましょー

しかし、四六時中「今」に没入していたら

傍目から見て、狂気を孕むことになりはしまいかと危惧する処はある

そんな自分を静観することが、社会性を保つ最後の砦なのかも知れない(「離見の見」ですね)

 

‥‥ あるブログコメントは、今に没入することに「自我の死」を観ます。

> 自我の思考にとって「今」は脅威でしかない。

なぜなら、

「過去から未来へ向かって生まれた自我」にとって

「今」に生きる事は、死を意味するから。

今に「没入」するという言葉には、自我という思考の死んだ状態を思う。

 

…… たぶん、過去→現在→未来という時間感覚は、学校で学んだ年表から来るものかも知れない。歴史の時間軸を設定するのは、やはり科学だろうか、つまり合理的に考えればそうである

しかし、日本文化の伝統では、時間は未来から現在(今)に流れてくるものらしい。

川の流れに屹立すること自分を想像してもらえたら分かり易いと思うが…… 

未来の出来事(場面)が、上流から流れて来ては、いまの時点で目の前に現れる。過ぎ去った出来事は、自分の後ろに流されてゆく

この川の流れが、時間の感覚になる__ つまり、上流(未来)から下流(過去)に向かって流れるということになる

自分は止まっているんだよね、芭蕉だって「月日は百代の過客」って言って、自分は動かなくて 時間が旅人(過客)となって動く のです

 

インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンダ(ヒンドゥー教の非二元観)のジュニャーニ(賢者)であるニサルガダッタ・マハラジは、

 ・  過去は記憶   

 ・  未来は期待

と云った、肉体意識に伴う記憶が過去の正体だと

「現在を過去と一体化し、それを未来へと投影するため」に、「人格」とゆーものが立ち現れると


> 自分自身を過去未来もない一瞬のものと考えるなら、そのときどこに人格があるだろうか?
これを試して、自分自身で発見しなさい。
[※ 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』より]

 

‥‥ オリンピックで活躍しているのは自分ではないと、

メジャーリーグでホームラン争いの先頭に立っているのは自分ではないことをよく見つめる必要がある

他人への心的委託(依存かな?)は、自立の放棄である

熱中や崇拝が終わった後に、いまの自分がはじめて見える

わるいことではない、「うつろい」であり「もののあはれ」であり、今に生きる日本的霊性(鈴木大拙)である

やっぱ、自分のアイドルは自分でなければ面白くないんでない

他人にうつつを抜かすより、自分を好きになること

大好きな自分であり続けることかとひそかに思う

                                      _________ 玉の海草

 

 

 

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