__中観派のナーガルジュナ・龍樹 (150~250年頃) や、次に続く唯識派のアサンガ=無著とヴァスバンドウ=世親の天才兄弟 (300〜400年頃) ……
いわゆる 「大乗仏教」 が始まった時期だが、この辺りから、仏教はエライ難しくなってくる ♪
仏教界では、 「唯識三年倶舎八年」 と云われるよーに難解な仏教哲学の代表格ですネ
> 「高度な哲学ですから勉強するのはいたって簡単ですね。西洋人の思考よりはしっかりと整理整頓されていますから、勉強するのはいたって簡単です。
【哲学っていうのはインドのものだからね】、
西洋にはそんなに高度な哲学思考はないしね。」
(スリランカ上座仏教のスマナサーラ長老)
‥‥ 鳩摩羅什 (340〜410年頃) の活躍された時代もこの頃で近いですネ
ま、世親菩薩 『浄土論』 → 漢訳・鳩摩羅什 → 中国の曇鸞 → 法然上人 → 親鸞さんとゆー流れかしらネ
釈尊が説明不足のままにされた「空」に関しては、上座部 (テーラワーダ仏教) のスマナサーラ長老の解説がちょっとばかし面白いので、置いておく
> わたしが批判するポイントは、相対論を持ち出して、彼 (龍樹) がすべて 「空 (くう) 」 であるとしたこと。
世界で初めて相対論を持ち出したんだからね。でも本当はお釈迦様が教えたものです。
これがあるから、これがある。
これがあるというためには、 「これ」 がなくては成り立たないし。
ということで、すべては相対的である、実態は存在しないんだと。独立して 「これがある」 とは言えないという哲学的思考で発展したんです。
それをブッダの無我の説明で、無我の代わりに 「空 (くう) 」 という言葉をいれたんですね。
何でお釈迦様が 「空」 という言葉を使わなかったのかというのは、理由があるんです。
お釈迦様は 「空」 という言葉を相対的に使っているんですね。使ってないわけじゃないんだけどね。実態がないゆえに空であると。実態がないというためには相対的に物事があると理解しなくちゃいけないですね。
だから 「空論 (くうろん) 」 になったところで、本当に文字通りに空論になってしまったんですね。
> (仏教は) どちらかというと、実践編なんですね。
頭でっかちで 「物事は相対的だ」 と思うのはいいんだけど、脳はそう働かないんですね。
眼耳鼻舌身意というのは物があるという間違った前提で認識しているんですよ。だからそれをなおさなくちゃいけないんですね。
空というのは頭で理解するものではなくて、修行して体験するものなんですね。
それはないでしょ、あの人 (龍樹) の哲学には。
実践があって仏教なんですね。
お釈迦様は実践がない教えというのは何の意味もないんだと、ものすごく批判していますよ。
すごく勉強して、巧みに論を組み立てて巧みにしゃべっても、くだらん、そんなものはと。
だから一行だけでも真理を知った人がそれを実践するならば、それにはかなわないんだよと。
> 彼 (龍樹) のせいでインドから仏教は消えてしまったんです、跡形もなく。
彼の思考パターンをパクってシャンカラという人がね、不二論 (ふにろん) を組み立てたんですね。
[ 私注; シャンカラ(西暦700〜750年頃)不二一元論=アドヴァイタを提唱した、インド最大の哲学者]
バラモン人が不二論を組み立ててこれこそ哲学だと言ったとたん、インド人というのは金がある方に行くんだからね。
> インド哲学や仏教哲学を勉強する場合は、われわれが思うことは、
仏教を破壊したのはね、龍樹のせいだと。ま、 (実際に) 破壊したのはシャンカラですけど。
シャンカラが龍樹の教えをそのまま盗み取ったんですね。
だって龍樹の本は仏教徒の間でしか使わないし、大乗であろうがどの仏教徒も修行しているんだから、修行している人にとっては 「別に」 という本なんですね。
だから仏教徒の間でも、そんなにガチャガチャいう本じゃないんです。一つ読んだら 「あ、分かりました」 と終わりますから。
それでシャンカラの本がドカンとヒンドゥー教の知識人の間で広がってしまって、それで戻らないようになってしまった。いまだにインドで仏教が復活することは不可能です。いまだに。
[引用;サイト 『ブッダ ラボ』 スマナサーラ長老法話 より]
‥‥ 文字通りの 「空論」 ってゆー処は、ほんと面白いネ
龍樹菩薩って、伊勢白山道の見立て (リーディング) では宇宙人とゆーことで、釈尊ご自身が 「私の没後、龍樹って人が現れて…… 」 と予言しているそーなのだ
いまでこそ 「上座部 (テーラワーダ) 」 とか云われるよーになったが、一昔前は 「小乗仏教」 と蔑まれて呼ばれたものだったから……
スマナサーラ長老にしてみれば、釈尊の仏道から外れて 「大乗仏教」 なるものを始めた龍樹は許せない存在であろー
アタマが切れすぎて、 「空 (くう) 」 などと提唱して、すべて括り切ってしまったのだから堪らない
龍樹の論法を、かの大賢シャンカラが借用しただなんて、時空を越えて、婆羅門教と仏教が融合していたことに驚くとともに感動も新たにする
現在の私は、ヒンドゥーの 「真我ひとつ」 の世界観に収束したとゆーか終息している
すべてが 「真我ひとつ」 であることを直観的に理解することをもって、真理にいたる最後の知識 (Knowledge) とみなしている
これ以降の探究に、コトバは要らないし知識も要らない
その前に、聖仏陀の仏道が後世にいかに変化 (へんげ) していったのか概観してみよー (3️⃣に続く)
_________玉の海草
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