ー伊勢白山道で、この寓話を扱っていたので私もコメントしたい
『イソップ寓話集』中務哲郎:訳、岩波文庫−より、「北風と太陽」全文を引用
>北風と太陽がどちらが強いかで言い争いをした。
道行く人の服を脱がせた方を勝ちにすることにして、北風から始めた。
強く吹きつけたところ、男がしっかりと着物を押さえるので、
北風は一層勢いを強めた。
男はしかし、寒さに参れば参るほど重ねて服を着こむばかりで、
北風もついに疲れ果て、太陽に番を譲った。
太陽は、はじめ穏やかに照りつけたが、男が余分の着物を脱ぐのを見ながら、
だんだん熱を強めていくと、男はついに熱さに耐えかねて、
傍らに川の流れるのを幸い、素っ裸になるや、水浴びをしにとんで行った。
説得が強制よりも有効なことが多い、とこの話は説き明かしている。
‥‥ 原文は素っ気ないほどシンプルです
これが、2600年前にアイソーポス(古代ギリシア名、「イソップ」は英語読み、紀元前619〜紀元前564頃)とゆー名の奴隷が書き綴った寓話だと改めて考えてみると、唸ってしまう…… ちょうど、ゴータマ・ブッダやピュタゴラス、孔子が在世の時代である、日本では皇紀がはじまる神武天皇の御代あたりになるのかな
最後の一行が、教訓っぽい書き方になっているのが特徴なんだとか……
現代人の私たちから観れば、なにやら唐突な設定である
惑星地球🌏自然現象のひとつである「風」の更に限定された冷風をあらわす「北風」が主演の一人、
そして、恒星である巨大な「太陽☀️」がもう一人の主演
地動説の科学からみれば可笑しいが、天堂説の見地に立てば、あり得る擬人化であろーか
(拙稿)> 古代インドの世界観は、須弥山(しゅみせん)という架空の大高峯を中心とする天動説的宇宙観であった
須弥山は、何も仏教の専売特許ではないのだとか……
キリスト教は、近代に発達した科学に則って、地動説を導入しているらしいが……
仏教の、例えば奈良の薬師寺の先先代だったか橋本凝胤師は、東大インド哲学科卒の当代きっての学僧であったが……
徳川夢声との対談で、仏教は天動説で一向に構わない、それで何も不自由せんからと、堂々と週刊誌上の対談ながら、地動説(=科学)を正式に否定したことがある
奈良の薬師寺や興福寺は、京都の清水寺と同じく、玄奘三蔵の創始になる「法相宗(唯識派)」である
戒律も厳しく、生涯独身を貫くインド仏教直輸入の宗派である
「唯識三年倶舎八年」という言葉が有名だが……
専門の学僧が、倶舎論を八年やってから唯識論を三年やって、やっと理解ができる位に難解な仏教哲学である
‥‥ まー、天動説も人間の体感から言ったら、なかなか説得力があるものなのだ
人間を襲う現象の擬人化として、また人間中心の世界観からいえば、「風」と「おひさま」の対決はありでしょー
さて、この寓話は、厳しく(力づくで)言うことを聞かせよーとする「北風」の冷たさと、やんわりと包み込んで相手を自然にうながす「太陽」の温かさの対比とみるのが、一般的である
イソップは、説得的な「太陽」のやり方の方が、強制的な「北風」のやり方よりも有効であると言いたいわけだ
でも、そもそも論だが「服を脱がせる」ゲームなのだから、暖かい武器をもつ太陽の方が圧倒的に有利なはずだ
だって人って、第一義としては、寒さから身体を守るために服を着ているのだから
だから、力比べにおいて「北風」は不利な種目を選んだことになる
___《教訓》勝てない勝負はするな
これでもいいわけである、ところが原典は不明だが、このゲームの前段にもう一つのゲームが行われたとゆー説がある
つまり「服を脱がせる」ゲームは第2ラウンドで……
第1ラウンドは「帽子を取る」ゲームだったとか……
これならば、帽子を冠るのは日差しを避けたり、雨に濡れないためとかだから、暖かい武器の「太陽」は最初から不利である
案の定、「北風」が帽子を吹き飛ばす 荒技で一本取る
___《教訓》いきなり厳しく従わせるのも有効である
そして、次のラウンドで負けて一勝一敗の五分……
___《教訓》他人と比較するな、自分の長所で勝負せよ
この勝負、人間から身につけているものを外す処が眼目らしい
だから、メンタルな命題、人からヨロイを外して裸にする方策の寓喩でもある
この場合は
___《教訓》人に何かをさせたい時は、威丈高に強制するよりも穏やかに促す(説得する)方が有効である
あるいは、
___《教訓》人は強制されては心を開かない、自ら心を開くようにゆっくりと徐々にそうできる環境をつくってやるのも有効である
他にも、「太陽」が勝ったラウンドのみが流布している現状をみれば、
___《教訓》世間に流布している情報には裏がある
深読みすれば、
___《教訓》為政者(権力者)にとって都合のよい情報だけが、「正史」として記録に残る
これは実感をともなって迫ってくる、私は東北人だが、阿弖流為(アテルイ)や古代朝廷にまつろわぬ民・蝦夷(えみし)に関する「正史(時の政権がつくる歴史)の記述には都合の悪いことを隠す嘘があるとゆー教訓も読み取れる
まー、教訓だらけで論点を見失ってしまうが、単に古代ギリシアの太陽神アポロンと北風の神ボレアースの力比べが寓話の元型であるらしい
ギリシア神話は、小説の主題になったり、心理学に援用されることも多いので、普遍的なテーマを扱っている稀有な伝承といってよい
ちょっと、この北風の神さまを 「wiki 」から抜粋してみると……
(wikiより)>ボレアース(Βορέας, Boreas)は 冬を運んでくる冷たい北風の神 である。ボレアースの名は、「北風」あるいは「むさぼりつくす者」を意味する。
> また、ボレアースはイーリッソス河からアテーナイの王女オーレイテュイアを略奪したとも伝えられている。オレイテュイアーに惹かれたボレアースは、最初は彼女の歓心を得んとして説得を試みていた。この試みが失敗に終わると、ボレアースは生来の荒々しい気性を取り戻し、イーリッソス河の河辺で踊っていたオーレイテュイアを誘拐した。ボレアースは風で彼女を雲の上に吹き上げて トラーキアまで連れ去り、彼女との間に二人の息子ゼーテースとカライスおよび二人の娘キオネーとクレオパトラーをもうけた。
‥‥ この抜粋を読む限りでは、第一ラウンドの強引に帽子を吹き飛ばすやり方には、色濃く北風の神の属性が反映されてあるよーな気がする
となると、この寓話は「力づくで恣しいままに貪る荒々しい自分本意の者=北風」と「おだやかに相手に合わせて与える一方の者=太陽」との対比とゆー観方もできる
しかし、ここで忘れてはならないのは、北風にしても太陽にしても、人間を攻撃する外的な力(脅威)として描かれていることだ
伊勢白山道では、道行く人をコロナウイルス、北風と太陽のした処方をコロナ対策とみた上で、歴史的にみても「力」に頼った者はいずれその「力」によって自分を滅ぼすことになると示唆しています
つまり「北風」のやり方は良くないとゆーこと
ウイルスだって命懸けで対処するわけで、その生き残り戦略として、あらたに変異株として対抗する
ワクチン及び治療薬が強ければ強いほど、ウイルスも拮抗する形でより強くなってゆく
___《教訓》強制してさせるのではなく、自らそうする(例:服を脱ぐ)ように仕向ける
強権的に外圧をもって「何かをさせる」のではなく、まわりの環境をととのえることで「自らする」を引き出すことが基本的な姿勢なのか
こんな感じが「共生」のモデル・パターンのよーな気もするな
> 「何ごともつねに、他人のためになり、同時に自分も楽しめるように努めよ」 ( ムラー・ナスレッディン )
[※ 頓知の利いた、トルコの国民的賢者、上記の言葉は G.I. グルジェフ『ベルゼバブの孫への話』に出てくる]
‥‥ あいや〜、ほんとに雑感を羅列するだけの記事になってしもうた
ほんとうに言いたいことは何か、もろもろの雑観を放つ、纏めるも括るもできない、そんなこともあるさ
_________玉の海草
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