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『 自然は全機する 〜玉の海風〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「生きてるだけが仕合せだ」🍎

 大好きな 当今 (とうぎん) に捧ぐ〜 ご皇室にふさわしいアナウンス考

2022-04-11 00:00:06 | 日本語

__ 昭和大帝の御語り口は、じつに魅力に溢れてあらせられた。先帝陛下もまた、ご自身で分からないながらもご神事に御命懸けで向かい合れる御姿と年々と重ねられる翁顔が歴代最高の御笑顔であらせられて、じつに見事な第125代と御成遊ばした。

さて、開かれた皇室に玉体をもって体当たりで臨まれた二代の天子のおせなを眺めながら、わたしたちと同じ時代を歩まれて来られた 浩宮さま ……   ほかならぬ陛下に、わたしの想う天子の現れ方を建白書のかたちで、ご奏上させて戴きたく存じます。

 

●  “ ほんものの氣品とは? ”

 

敬語も文語ではわずらわしいし、万が一不敬があってもいけないので、香家の比喩で話を進めよー。

 

香位にある今ちゃんの愛娘が、インタビューに応じた。この娘は賢くつつましくおっとりとして、あたかも「大和撫子」の幻想を彷彿とさせる雰囲気(いまどき珍しい )をもっている。

今ちゃん嫁が、手塩にかけて育てた「秘蔵の玉」である。

香位継承権トップのセカン(No.2)の娘は、美人姉妹でヤング香族として嘱望されたが……

姉は異国へ駆け落ち、妹はアイドル的な人気を誇ったものの、何か立居振舞いに香族らしさが足りない。

うわずった感じの鼻にかかった声が幼く、口跡が冴えない。

セカンと嫁との大学生交際とゆーか、キャンパス・ラブは、思い出すだに微笑ましく、ある種理想のカップルにみえた。

次男ゆえに、割と自由な交際が認められたと思う。もちろん私はこの二人を応援していた。

今ちゃんとセカンの兄弟間の星廻りが、私と実弟との星廻りとぴったり相似形であり…… セカンの行き方は本当にわが賢弟に似ていた。

私は、仏教(聖徳太子)の影響色濃く霊的なタイプで、あらゆる神秘学を漁ったが、不思議と神道(伊勢神宮と白山神社)だけには全く縁がなかった。

セカンの彼女は、音無しめの仄ポッチャリタイプで、素朴な髪型もあいまって、もろに私のタイプであった。

「よかったなあ〜、セカン 」と心から祝福した。

聞けば、彼女は琉球の「御嶽(うたき、沖縄の聖地・神社的空間)にぞっこん惹かれて参拝を繰り返していたとか。

彼女が惚れ込んで、習った「琉球舞踊」の女師匠は、琉球武術・御殿手の名手・上原清吉も認める、舞の名人である。

コノ御二方は、「武」と「舞」の極意を共有しているのである。同じなのである、

その昔、柳生石舟斎と金春七郎とが、新陰流と金春流(能楽)の秘伝を、おのおの披露し交換した逸話を思い出す。

この時伝授された金春流の口伝が「西江水(せいごうすい)……

週刊新潮に連載され、洛陽の紙価を高からしめた剣豪小説の名品と云われる、五味康祐『柳生武藝帳』のなかで……

柳生但馬守がさりげなく垣間見せる所作が、新陰流の究極の奥義「西江水」であったものだ。

かくの如く、セカンの嫁にはかなりの霊的素質が備わっていたに違いない。

ただ、御嶽(伊勢白山道では参拝禁止)への執心は、後年の「金毛九尾の狐」を御所に忍び込ませる呼び水となったやも知れん。

 

あの、見るからに信頼できる学究の貌をされた大学教授を父にもつ、セカンの嫁が、結婚後子等を授かり次々と出産した過程において、何があったのか、私は存じ上げないが……

彼女の、あの温かみのあった平安朝的な丸顔が、みるみる痩せ細って、ショートカットで瞳に険をふくむ貧相な顔へと変貌していったのは何故なのか……

しみじみと残念である。

残念ついでに、あの甘ったるい幼稚な話ぶりは、娘たちに受け継がれた。

人生の途中から、香家に入る一般人と、生まれながらに香家として育った者は、根本的に出来が違うのだ。

いくら先代のお上さんが、社長令嬢としてセレブに育てられたとしても、神主をしている生まれながらの香女(389)とは、そのおのずから放たれる威において、雲泥の差がある。

先先代の大葬において、直系の香女の醸し出す品位は、到底人間のものとは思われなかった。

微塵も小揺るぎのしない坐位と凜とした立ち姿、あれこそまさに「高貴」と呼ぶに足る。

国際大運動会を誘致するために、演説した久姐は、その点、やはり華族の家柄だけあり、(外国語での)話し方・目配り・所作・歩き方すべてに「ハイ・クラス」の気品を纏い、すこぶる見事なものだった。

しかし、庶民から嫁いだ者は、俄に糊塗することは叶わない。

香家のワン・ツーの嫁は、ともに庶民だから、精神を病むほどに「お上修業」が過酷なものとなる。

 

もちろん、高貴な血を継ぐ香家として、土俗の一般人とどこが違うのか、格の違い・位の違いを恒に見せつけなければならないわけだが……

気品は意識して出せるものではなく、実際の処、現場ではどーなのだろー。お目にかかると、その威に震えるなんて本当にあるのだろーか。

香位にあれば、祖霊が憑依して顔つきまで変わるものらしいが、その他の香家の者はどーなのだろー。

香位につく者は、その血筋(霊的素質)をもち、そのよーに育てられた者でなければ適わない。

何故なら、男とゆー生物は、ある日突然王位につけられても、王である自分を受け入れられずに四苦八苦するものらしい。慣れるまでオドオドしている。

卑近な例えだが、いきなり社長の椅子に座らされても、すぐには社長として振る舞えないのだ。

女はそーではない。いきなり王位につかされても、次の日には既に「女帝」としての貫禄を帯びて、平然と女帝然として振舞えるものだと云ふ。

則天武后とか歴代の悪女の、最高権力者に成った際の切り替えの速さは、それは見事だったとか。

だから、香家の男子には、長い年月をかけて、香家のしつけ(宮様教育)を施さなければならない。

 

まー、手っ取り早く香家の気品を感じさせるのは、言葉遣いだが……

今ちゃん娘は、品よく言葉を噛むこともなく付け焼き刃的な言い回しも感じられず、全体として印象がよかった。

わたしが、香家のスピーチで不満なのは、あの決まり文句の型である。

…… …… と思いますと共に」とゆー独特の接続の仕方とか、(「私は…… …… と思っていて」とゆー庶民の言い方と似ている、何で一旦切らずに繋げたいのか)

…… …… をもってお祝いの言葉と致します」とか、如何にもそらぞらしく聞こえる。

思えば、昭和の香位トップの翁は、訥々として自然で高貴であった。音吐朗々と語りかけになられた。

「生き神様」として帝王学を施された最後の人だったからか。

生まれながらに香家であるとは、どーゆーことなのであらーか。香家なのに、いまはまわりにも敬語をつかう。謙虚なあまり、庶民と見分けがつかない。

「ございます」とか丁寧に表現するが、香家がこれほどオープンにされていなかった頃は、つまり御簾(みす)越しにお言葉を賜ったときなどは、いかなる言葉遣いであったのか。

もーちょっと香家らしい美しい言い回しがありそーなものだ。あれじゃあ、丁寧なだけで何ら庶民の言葉と変わらない。

 

わたしは、こんな時、下々の者どもとも対等につきあった唯一の帝・後白河院のことを思い出す。

院の愛唱なされた「今様」の節回しが現在まで伝承されていなくて、つくづく遺憾なのではあるが……

河原者や白拍子とか道々の輩(ともがら)等々、祇園女御にしても、身分外の無生産者(非納税者)まで集めて、今様を共に競った。

どんな言葉遣いで、それらの者と会話なさったのだろー。

後白河院は、敬語なんかお使いにならなかったのではないか?

敬語は、長くゆっくり言い回すことで特別感を付与するよーな塩梅である。言うに言いにくく、聞くに聞き取りにくい。

例えば、「〇〇される」と聞いても、敬語の「される」なのか、受動態の「される」なのか、一聴してすぐに見分けがつかない時がある。

二重敬語なんてのもあるし、複雑多岐にわたる厄介な代物である。

関西圏みたいに、「〇〇してはる」で敬語を統一すればよさそーなものだが、あえて複雑さが尊ばれる。

とにかく、公の席での、香家としての言葉遣いも考えてほしい。一般庶民と大差ないのを、「香家」として崇め奉ったりしませんよ。

今ちゃんは、生まれながらの純粋培養だったから、即位まえから、おのずからなる氣品をまとっていた。

それは、エリザベス大姐さんに特に可愛がられたことからも分かる。

直に拝謁を賜わると、物凄いオーラであると仄聞する。香家ならではのそーゆー権威を纏う人は心配いらない。

問題は、香家一族の郎党の方々である。

日本貴族として、世界の社交界に隣席して、セレブのオーラを圧倒する氣品をもつ者が、果して何人いるだろーか。

日本は、政治家も貧相なら、香家一族もそーである。

体格でも劣る日本ならではの貴族のあり方ってあるはずだ。

 

 

●  “ 心あるご香族の足下へ奏上あれかし

 

ー初めに、お断りしておきますが…… 以下は空想物語につき、敬称を省きます。

 

先に、香族の公的なアナウンスは、不自然な丁寧語や堅苦しい言い回しで、違和感があると申し上げた者です。

ならばどのようにしたら良いのか、私自身代案といいますかご提案を奏上していなかったので、ここに付け加えます。

 

香室のアナウンスが、庶民の言い回しとほとんど変わらない点について……

まず、庶民の公的なアナウンスは、いかにして現在の形になったのか、ザッと振り返ってみたい。

 

昭和世代の校長先生や会社の社長らの挨拶は、晩年の森鷗外の小説調で、漢語の多い武家言葉に似た感じで、簡潔な締まりのある格調高い言い回しで喋っていた。

日本文学(小説・詩・短歌等)を下地にして、素養としての『論語』とか外国(世界)文学のよく知られたエピソードとかを織り交ぜて、言葉が選ばれているだろう。

小説といえば、鷗外・漱石が双璧となろうが、ここから大谷崎〜芥川〜川端康成〜三島由紀夫とつづく、文学界をリードした東大閥作家の影響は大きい。

わたしは志賀直哉は、一読簡潔で端正なる名文と感じた覚えがあるが、泉鏡花にしても、日本の名文には漢学の素養は欠かせない。

和漢洋を束ねた幸田露伴のような碩学もいたが、やはり名文の基本は、晩年の鷗外のような簡潔にして漢語を織り交ぜた格調な高い文章であろう。

漢学者の家に生まれ、素読を叩きこまれ、純粋培養された天才・中島敦なんかは、典型的なすっきりした日本語の名手ではなかろうか。

昭和の時代までは、きまりきった様式があるように思えた。

戦前から続いている、何か伝統めいたものがある。

 

では、この格式張った硬い感じのアナウンスはどこから来ているのか?

もちろん戦前の軍国教育の影響はある。

明治開国から昭和まで、途切れることなく続いた海外列強との戦争によって、軍部の権限が拡大して、軍人の考え方が日本国中で幅を利かせるようになった。

つまり、軍人調の簡潔で硬い話し方が流布された。

江戸時代の寺子屋、武家の藩校、芝居小屋(歌舞伎)寄席(落語、講談等)

幕府の官学は、漢文の「朱子学」

少年期の徳川家康をささえた軍師・太原崇孚(そうふ)雪斎は、臨済宗の禅僧。晩年は天台宗の天海僧正。家康公は鎌倉の源頼朝公を武家棟梁の鑑として尊敬した。

仏僧は、漢文を重視する。

時代は飛んで……

鎌倉時代、初めての武家政権・鎌倉幕府が発足する。

時あたかも、鎌倉新仏教の勃興と同期する。

新しい宗祖たちはほとんど、比叡山で学んだ後に立宗した。「日本的霊性」が発露したと云われる激動の時代である。

鎌倉には、蘭渓道隆等の宋国から渡来した禅僧が活躍した。武士と禅は相性がよく、武士道の精神性にも多分に影響があった。

つまり、この時代より「漢学」が、武家の素養として浸透し始める。

後年、本居宣長が国学を確立するために排斥した「漢心(からごころ)を、幕府ぐるみで国を挙げて受け容れた。

この漢訳仏典の受け入れ方は、かなり心の奥処にまで至った密度の高いものだったようで、鎌倉新仏教に刺激をうけて、この時代の古神道は柄にもなく理論書めいたものを出版することになる。

哲学がなかった「神道」に、宋学(氣の哲学)を礎として、明確な分析と分類による世界観が見られるよーになった。

 

日本語のターニング・ポイントは、この鎌倉時代だと思う。

平安朝から連綿とつづく和歌の文化、雅びな「ヤマト言葉」は、大陸渡来の漢語に押されて、公卿のたしなみに追いやられたと見る。

その結果、武家言葉は漢語が多い、簡潔で硬いものに変化したと思う。

 

私の主観にもとづき、ザッと歴史的に概観してみたが…… 現在の庶民の言葉感覚は、鎌倉に淵源をおく武家文化のなかで養われたと言ってよいと思う。

武家=潔い=簡潔な表現=漢語を好む

よく時代劇で耳にする決まり文句「恐悦至極に存じます」などは、ほとんど漢字熟語で出来ている。

 

いよいよ次は、公家コトバに触れてみたい。

俳優・梅津栄が、時代劇にとりいれた「おじゃる言葉」は、室町時代の京都のことばで、当時公家も庶民もつかっていたらしい。

他には、宮中や禁裏でつかわれた女房言葉御所言葉

ex. おかか・おかき・おかず・おこわ(飯)・おつくり(刺身)・おむすび・おでん・おつけ(吸い物)・おひや(水)・おむつ・おまわりさん/おめもじ・そもじ・あらしゃります・ごきげんよう]

他にも、女子学習院でつかわれた「華族ことば」もあるよーだ。(「よろしくってよ」は、「お嬢様ことば」ではなく幕府の「御家人ことば」だそうです)

 

さまざまに枝分かれしているが……

さすが風雅な京都人、角のとれた丸い発音を自然と好まはりますなあ。

関西・近畿は、ことばの発音が関東に比べて柔らかいのが特徴ですね。

 

将軍家の武家言葉と、京の宮中の公家コトバ

明治のミカド親政の流れを引くわけだから、本来なら香()軍と呼ばれた軍隊の軍人コトバ(武家言葉)と香居の公家コトバは、並び立つはずである。

それが、敗戦とともに、公家コトバは、香族花族の伝統とともに消えてしまったのである。

そして、形ばかりの貴族が残った。

国会予算から捨て扶持を充てがわれたような身分では、到底、香族の存在意義たる第一義(祭祀)をまっとうすることは出来ない

そんな、相矛盾した現状をよくよく鑑みれば……

香族としての、公的なアナウンスは、ますます無味で無難なものとなりかねない。

そこで私の結論は、こうである。

 

「漢語を極力とりさって、柔らかく大和言葉を意識する」

 

この間のアナウンスを例として聞いてみると……

「皇室は,国民の幸福を常に願い,国民と苦楽を共にしながら務めを果たす,ということが基本であり,最も大切にすべき精神であると,私は認識しております。」

とか、哲学的に庶民のインテリ目線で話すのも感銘深いが…… 香族らしさはちょっと違うようにも思う。

例えば「香家では、なによりもおほみたから(大御宝)のしあわせをいのり、おそばによりそいながら、おつとめさしていただく、これが香家に代々うけつがらているみこころ(御心)でおじゃります」

無理やり当てはめた感もあるけど …… 関西弁まるだしの抑揚で噺家みたいに仰るわけにはいかないが、主な特徴はこの中に含まれている。

先ず、まろやかで優しい、漢語がないから連想がスムーズで絵が浮かぶ、柔らかくて明るい調子(抑揚)であること。

角の尖った言葉は一言もない。

「京ことば」というか、「御所ことば」総動員して、とにかく柔らかな「大和言葉」を前面に出すこと。

庶民の日常生活は、漢語・熟語に溢れていて、素早く伝わるゆえに、言霊の響きを無視して、短くて荒い言葉を連発しがちである。

それゆえ、せめて香族の方々におかれましては、日本の言葉本来の響きを十二分に披露していただきまして、忙しない世の中に、束の間、寛い心持ちをもたらして戴けますと有り難い。

簡単なことです、漢心(からごころ)を去って、「大和ことば」に真心を乗せることです。

 

つらつら思い巡らすうちに、

うちの近くにある八幡宮の宮司のお姿を、香族の方々のアナウンスに重ねてみていた。

この神主は、わたしの先輩なのだが、同窓会が「厄祓い」の年にあたると、代々の同窓会幹事がこの神主に頼む。

さて、メインの祝詞奏上が済むと、くつろいで、皆で神主のお話しをうかがう。

ゆるゆると始まる神主のご挨拶は、お人柄から来るものもあり、多少の滑稽みとともに、可もなく不可(不快)もなくゆっくりと進み、それが決して退屈を催すことなく、ゆるゆると流れてゆく。

いわゆる、毒にも薬にもならない話しが絶妙な面影を映し出して、何か縁側の陽だまりにくつろぐ猫のような気分になって、そろそろ飽きる前に幕を降ろすのである。

その、ぬくもりある空間が、いかにも「厄祓い」された、目出度い日常に受け継がれてゆくのであった。

それは、クライマックスもなく、晴れ晴れとトトノウのである……

しかし、あとを引く余韻が長くほのかに続いて、なんとなく「よかったな」となる、そんな香り立つ神事が営まれる。

榊のかほりでしょうかね、ほのかな苦みがアクセントになっていました。

そんな余韻棚引くアナウンスが、香族の方々にはふさわしいのではあるまいかと愚考するのです。

いくら寄り添おうとも、あなた様方は一般人にはなれない、苗字のない庶民などいないのだから、違いは違いとして生かして頂きたい。

 

__ たとえ話とはいえ、随分ご不快になられた箇所もおありだったと存ずる。大変、申し訳ないことでございます。つつしんでお詫び申しあげます。

天津神とは無縁の、まつろわぬ民の血筋であった可能性の高い私だが…… なにやら白河院とは一縷のご連枝があるやに耳にしているので、なんとなくご皇室に奉り純粋な思慕を懐いている思いは芯底にあると存ずる。

その、偽らざる畏敬の念い、ただその一点をお汲み取り賜りたく存じあげます。

           _________玉の海草

 


《玉断4》 もはや消え去りつつある、 「教養とは?」

2022-04-05 09:03:56 | 雑感

「教養とは」
人生のいかなる局面にも役立てるように、あらゆる知恵や知識を体系的にまとめて、百科全書として網羅しようとしたのが、ヨーロッパのディレッタント由来の「教養」です。
大学の最初の二年間は、教養過程と呼ばれるように、大学教育は広く教養を養う準備をする期間と認識されています。
ワインの醸造と同じ消息です。
仕込まれた埋蔵知識を時間をかけて発酵させ、自家薬籠中の物とすることで、まろやかで芳醇な味わいとなります。
そうなると、隠しても行間に滲みでて来るようになります。文章のどこにも莫迦なフレーズをつかうことなく、嗜みのある落着いた文章になります。
「杞憂します」「度返し(度外視の勘違い)」とか、ネットで偶々見た、覚えたての言葉を不用意につかうところに、自らの内で熟成しないうちに遣うところに、その人の若さが出ます。

[※  こどもが言葉を覚えたての頃、トンチンカンな使い方をするのと全く同じ。ことばを発するシチュエーション(ロケーション)とその言葉独特の文脈がわかっていない。こどもだって、まわりのジイサンバアサンや諸々の人びとが口走るのを耳で聴いて、つかう情況をまるごと覚えるのです。]

教養とは老成したものなのです。

大学時代に勉強しなかった人とは、古いワイン樽を貯蔵していないワイナリーみたいなものです。
「無い袖は振れない」
自前のワイン貯蔵庫を持っていない人に、教養が滲み出る文章を綴ることは出来ないでしょう。
人生には、時間をかけなければ到達できない境地があります。


一週間に一冊ずつ本を読む、これを一年続けて50冊、そんな生活を40年続ければ2000冊に到達します。


まあ、この位読書していたら知識人として最低限の素養は身につくだろうという前提の上で、東大英文科系の中野好夫が「読書2000冊が知識人の条件」と仮定したのです。(当時東大英文科は、海外の翻訳文化だった文壇をリードしていたから)
読書人に特有の風貌というものがありまして、幸田露伴に鷗外・漱石、南方熊楠、井筒俊彦、司馬遼太郎等は、非常に鍛え込まれた眼輪筋を所有しています。
いまや、そうした碩学は絶滅しようとしています。
つまり、ネット情報をいくら多量に閲覧しても、読書人の教養ある風貌には仕上がらないのです。
体系的にすべてを網羅することが、必要だからです。
教養人は、自分の体系と哲学(分類思考)を持っている、つまり自分律(自分の律法)を持っているということです。

 

ネット情報をいくら積み上げても「教養」にならないのは何故か。

『ボクらの時代』で、シティボーイズの鼎談があったのだが……  そのときに大竹さんが言うとった。彼ら70歳代は、40歳代と話しが合わないと。

(大竹)> 「いまほら、スマホとか色んなのあって、ADの人たちも、「あれどーした?」って言ったら「ちょっと待って下さい」って「コレです」みたいな……

もう簡単になってるじゃん、話が。

すごい速いじゃん、だから、年寄りに訊く理由も無くなったんだね

もうお前に訊くよりこっちの方が速いから。」

__ 昔は、ご隠居(長老)さんてのがいて、なんでもよく見聞していて物識りで、なにかとアドバイスをしてくれるって、街の文化みたいなものが存在した。

この年配者の情報が、ネット情報に取って代わられたってことなんだけど…… 真相はまったく違うんだ。

たしかに、パソコンやネット関連の情報については、老人は経験もなく知らないし、そもそも其処にアクセスできない。

生活全般についても、お節介に色々とアップして、予備知識やコツを披露してくれる中年熟年も数多い。Yahoo!知恵袋みたいな、すぐ尋ねられるサイトもあるし、ライフ・ハックを手に入れるのは容易い。

しかし、そーしたネット情報と、老人の生の情報の何が違うかとゆーと、人を介在する情報は、経験者から聞いたほうが話が早いとゆーことだ。

具体的にゆーと、あそこのラーメン屋の特製ラーメンが旨いと、これはネット情報である。

年寄りの常連の情報は、また一味違う。あそこの店主はギャンブル好きだから、レースの翌日は一喜一憂して仕込みが遅れることがある。間に合わないかも知れないので、食べにゆくのはレース前がよいとか。

特製ラーメンの出汁は、上質の飛び魚をつかっているので、島の煮干しの出来具合に左右されるとか。店主は盆栽が好きだから、店前の鉢植えを誉めながら仲良くなると、まかないの裏メニューを食わせてくれるとか。こーした裏情報は、ネットの「口コミ」でも入手できるが、常連が投稿してくれなければ分からず仕舞いである。

つまり、ネット情報とは「只のデータ」であるが、年寄り情報とは人付き合いによって得た感触がまざっていて、より確実で安心のできる情報である。経験豊かな年寄りが実験済みとゆーか、検証ができている「生きた情報」である。

やっぱり、情報とゆーものは、感「情」が入っている「報」せが本来のものであろー。情報が命である、CIA ・FBI や MI6 そして日本の内閣情報調査室では、情報=インテリジェンスの認識である。

諜報部ではよく言うな…… 

「インフォメーション」ではなく「インテリジェンス」

だと。そして何よりも、その情報提供者の人物が信頼できるかどーかが重大なネックとなってくる。信頼出来る筋の情報は、確証(エビデンス)と同質のものだ。

単なるデータは、読み解く人の力量に左右される不確実な情報なのだ。

本を読むことで、著者のまとめた体系的な「インテリジェンス」を吸収し、大学で教授やゼミの討論により、より人間の感情に基づいた、癖のある「インテリジェンス」を仕入れる。それが教養の土台となる、上質な素養に結びつくのである。


大学時代に励まなければ、卒業して就職した後では、「素養」は身につけられない。
人生遅すぎることはないが、やはり、集中して長時間打ち込める時間がないと、ある認識、知性の結晶化みたいな作用は生まれない感じがする。
それゆえ、大学生期間(及び浪人生期間)は、人生でとりわけ貴重な「育苗期間」である
ISHKのコメント欄に来て、ネットスラングつかった批判専門の人では、もはや手遅れであろう。
批判ってのは、学なくても出来るものだし、ソクラテスが云ふよーにどんな反論でも可能である
あらゆるものに、イチャモンはつけられる、Unknown でやればアシは付かないし、いいたい放題だが、その見返りは自らの行為によって生まれ、自らが受け取ることになる。
自業自得、他者にたいしてやっていたことは、自分にたいしてやっていたことだったと気づく。
このサイクルは、妙に貫徹していて、見事に逆転するから面白い。

ー最後に、昔のサラリーマンは如何に素養があったかを証明する読み物を紹介しよー。もはや今では手に入らないだろー、図書館の奥の「閉架」スペースにはいまだ保管されていよーが、旧漢字体の文庫本から一節を紹介しよー。

昭和38年頃を境に(たぶん、正確な情報ではないが)、旧漢字体から新漢字体へと書籍の印刷も移行していったよーである。

(例)學→学、戀→恋、寶→宝、醫→医、辯・辨・瓣→弁、舊→旧、圖→図、盡→尽、點→点、體→体、禮→礼、櫻→桜 等々

参考文献は、ともに『週刊新潮』に連載されて、「洛陽の紙価を高からしめた」と云われた、剣豪小説(現在の時代小説)の白眉、『柳生武芸帳』と『眠狂四郎無頼控』より引用…… (昔の印刷植字は、現在のフォントとは多少異なる)

> 陰 流 カゲノナガレ

 唐津藩主寺澤堅高(てらざわかたたか)が自殺する六日前に、所定の刻限を俟(ま)って大廣間に姿を見せると居並ぶ者は顏色を引緊めた。堅高は三十九歳。唐津八萬石寺澤志摩守廣高の二男で、六日後に自刄すべきか否かがこれからの評定できまる。きめるのは武藝者山田浮月齋である。その浮月齋が、堅高の上座に向つて、旣に廣間の中央に端坐して靜かに瞑目している。白い髯と、銀髮が房々肩に垂れている。もう小半刻、彼はそうして靜坐した儘である。定刻前に前後して評定所に這入つて來た家臣らは、いずれも、浮月齋のそんな容姿に思わず目を伏せ、沈痛の色を泛べた。主君の運命が早や決せられたと見たのである。__ 啻(たヾ)、それなら何ういう理由でか? 浮月齋は如何なる根據を以て主君に死を迫るのか、それが知り度い。一様に言葉にこそ出さないが、主君堅高の死の如何に依つては殉死して後を追わねばならぬ。それで、上座から順次所定の席に着きながら、各自齊(ひと)しく聲を嚥(の)んで、堅高の來場を待つあいだ隣りと私語する者もなかった。中には、默つて浮月齋の横顏を熟視(示す篇の「視」)している家臣もあつた。

[※  五味康祐(示す篇の「祐」)『柳生武藝帳』上巻の冒頭より]

【五味康祐は、芥川賞作家である。チャンバラ小説の短編『喪神』で受賞した。死に直面したときの生存本能の剣といおーか、幻の「無住心剣」が念頭にあったかも知れない。純粋な剣豪小説で芥川賞を獲るほどに、文章は洗練されていた。】

 

> 雛の首

 夜ニ更(にこう)の鐘が、どこかで鳴った頃合__ 。

 裸蝋燭の焔に照らされた盆蒲團をかこんで、七八名の、いずれも一癖二癖ありげな無職(ぶしょく)者・渡り仲閒(ちゅうげん)が、巨大な影法師を、背後の剥げ壁や破れ障子に這わせて、ゆらゆらとゆらめかしていた。

 空家である。

 五つ刻からはじめられた勝負は、いまや、殺氣に似た凄じい緊迫した空氣をはらんで、いつ果てるとも思えぬ。

 花見の季節が來ていたが、夜半は、まだかなり冷える。しかし、この連中の五體は、かた肌もろ肌を脫ぐ程熱していて、それぞれの刺靑(いれずみ)をあぶらぎらせていた。

 中でも、すっぱり、褌ひとつになった壺振りの、「くりからもんもん」は、全面朱ぼかしで、ひときわ鮮やかであった。まだ二十歲を越えたばかりの、はりきった白い肌理が、一層朱色を美しく際立たせているのであった。

[※  柴田鍊三郞『眠狂四郞無賴控』(一)の冒頭より]

【柴錬と「眠狂四郎」と云えば 市川雷蔵 との2ショット。眠狂四郎は、演じる者が不幸になる縁起の悪い役と云われた。晩年の雷蔵は末期癌の耐えがたい苦痛のなかで狂四郎を演じた。転び伴天連(バテレン)と武家娘との混血児で、異相の美男子・眠狂四郎には、シバレンの心奥の闇が投影されている。中里介山『大菩薩峠』の机龍之助のニヒリズムの系譜を継ぐ作品だが、シバレンご自身も独特のダンディズムの持ち主で、お洒落で鳴らした御仁である。】

 

__ 五味康祐は、オーディオマニアでクラシック音楽、手相や占いにも造詣が深く(ご自分の死期を的中させた)、日本浪漫派の保田與重郎の弟子でヤマト言葉や古語にも堪能、おまけに漢文趣味があって、中国の故事を剣豪小説中にも処どころに散りばめていて、すこぶるゴージャスで格調高い文章との印象がある。それゆえ、五味康祐を読むときは、漢和辞典と古語辞典が手離せない。

一方の柴田錬三郎は、慶應大学支那文学科で奥野信太郎教授の薫陶をうけた中国文学者でもある。吉川英治の『三国志』の誤訳がひどいだの、田中角栄が日中国交正常化で訪中した際に詠んだ漢詩がひどい(「北京の空晴れて」と詠んだつもりが「北京空しく晴れて」の語順になっているそー)とか、テレビ番組📺で「柴錬(シバレン)」の名で鳴らしたコメンテーターでもあられたが、詩人・佐藤春夫の弟子で、最後まで純文学作家を目指した、文学魂をお持ちの御方だった。引用文は、段落替えの多い、余白をとった読みやすい文面となっているのは柴田の工夫であったろー。

柴田錬三郎の文章は、旧漢字体の本が入手できなかったので、現行の文章を旧字体に変換して引用したことをお断りしておく。

こんな硬質の文章を、当時のサラリーマンは辞書もなく読み飛ばしていたわけである。満員電車に揺られながら、週刊誌片手に吊革にぶら下がり、興奮して読んでいたかと思うと、その日常的な素養の高さに俄かに尊敬の念が湧いてくる。旧漢字体をつかっていたこともあり、そもそも漢字には現在より親しんでいたのかも知れない。四書五経の素読の文化も残っていた頃だから、大学生も戦前の「帝国大学」の伝統を継いで、かなり研鑽を積んだ学識を所有していたものと思われる。なにより、教授連中が莫大な教養をお持ちだったから、まさに「生き字引」(ウォーキング・ディクショナリー)であられた。

現在の大学生は、自分が知らないことを恥じない、それどころか、解るよーに説明出来ないそっちが頭悪い、平易な言葉で教えられる人こそが真に賢い人なのだと妙に開き直って、自分を省みることがない。

あのねー、後から生まれてきた人は先に決まっていることを覚えなけゃならんのよ(養老先生より)。覚えてから破るのはいいけど、知らないくせに横紙破りは生けませんね。

物故された勘三郎が、無着成恭のラジオを聞いて覚ったこと…… 

型が出来ているから「型破り」が出来る。型が出来てない奴が型を破ったら「型無し」って言うんだよ。

大学生には、教養の基礎つまり「型」を修得してから卒業してもらいたいねえ。そして、そのお宝を身近な処から社会に還元していただきたい。

日本を守ることは、何も軍事に限ったことではない。日本語を守ることも、日本を守ることとイコールである。日本語の乱れとかいつも喧しいが、型を踏まえた上での「新語」ならば、古い人間も納得が出来るとゆーもの。是非ご奮闘願いたい。

          _________玉の海草

 

 

 

 


《玉断3》 「狂信といったら、昔の日本国だって…… 」

2022-04-01 01:45:00 | 雑感

__ この拙稿は、伊勢白山道に投稿して不掲載になったものに加筆したものである。

 

プーさんの宗教性を狂信のごとく語る日本人も多いようだが……  あちらからしたら戦時中の日本人こそ狂信者であった。

・捕虜になる恥辱より「バンザイクリフ」から身を投げる、一般庶民(非戦闘員)にまで浸透した異常な精神性。

・自らの命とともに「神風特攻」して敵艦を沈ませんとする滅私の忠誠、その作戦に志願する者が沢山いるという異常さ。

西洋には、生命より大切な作戦なぞ、戦略上存在しない。それを平然と実行する国は、間違いなく狂信者の国として認定されるだろう。(他には、大麻で死への恐怖心を取り除いたイスラム教ニザール派の暗サツ教団アサシン及び同じくイスラム教過激派の自爆テロくらいのものであろう。)

ミカドを中心に、決して怯まない皇軍の士気、決して諦めず、降伏を恥辱とするサムライ魂が、アメリカ人には到底理解できなかった。

理解できないから、狂信者の蛮行と見做したであろうことは想像に難くない。

黄禍論を心の奥底で信じている西洋人は想像以上に多く、日本人の狂信ぶりと異常な行動とが、極めて遺憾なことだが原爆投下を正当化させた理由となっていることは確からしく思われる。

 

宗教( religion )にしろ、印度のヨーガ( yoga)にしろ同様に、「ふたたび(神と)結ばれる」意味である。

プーさんのように、ロシア正教によって神と再び深く結びついた信仰者は、決して自ら信ずる「神」を手離したりはしない。幼き日の純真な教会体験と、成長してからの過酷な任務(KGB)とが、彼を強固な信仰に向かわせたとも言えるかと思う。

プーさんにとっては、ロシア正教の神に生かされて、神の計画に参与している感じではないかな。(2039年の日本晴れに向かって、神謀りを信じて生きている伊勢白山道読者と似ている)

おそらく死後の世界への移行も、ロシア正教にしたがって如実にプログラミングされ、自分が死して後の、世界の消滅は意に介さないかも知れない。

だから、DSにしても、他の勢力にしても、それぞれ信奉する神の計画に基づいて、予定調和的に動いているのが真相だと思う。

武田邦彦先生も言うてはった。イギリス人🇬🇧やアメリカ人🇺🇸(=元・イギリス人)は、相手を騙す癖がある国であると。戦争の始まる前に、彼らの仕組む自作自演の狂言芝居、第一次大戦でも真珠湾攻撃でも自分たちで仕掛けておきながら、いかにも敵国の非道をなじり、義憤からやむなく応戦する型をとっている。あたかも被害国であるかのよーに装った、大規模な詐欺作戦が得意で、それが彼らの常套手段なのである。英米は、産業革命を起こし、近代文明の先端を走る旗手だが、そんな腹黒い実態を隠し持っている。

彼らは自分たちのやりたいよーに振る舞う。第二次大戦の参戦にしても、アメリカには参戦しなければならない理由は元々なかったのである。日本にはアメリカに攻め入る気は毛頭ないからである。それにも拘らず、いちゃもんをつけて敢えて参戦した。覇権とはやりたいよーにやれる力であるからである。

彼ら英米(アングロ・サクソン)が、平然とそのよーに振舞えるのは…… 

【自分たちだけが、神の子である】と堅く信じているからである

神国であることを信じて疑わなかった大日本帝国の在り方と、相似形なのである。

 

まるで、精神病棟の狂人のごとくプーさんを見ている日本人は、過去の母国の覇権ぶりを思い起こさなければならない。

各国のお国柄が、多種多様なのだから、一概にどっちが悪いとは早計に決められないのが、国際社会の外交の難しい処である。

もっと、日本も自らを客観視できないと、助かるものも助からなくなる。

          _________玉の海草