『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《玉断》 庄内人らしく〜 回天の魁、 ド不敵なニート 「清河八郎」

2022-04-14 03:05:07 | 藤澤周平

●  “ 司馬遼太郎の好む人物像

[2020-08-22 00:25:11 | 王ヽのミ毎]

 

作家・司馬遼太郎も代表作『竜馬がゆく』の中で、

幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本竜馬が閉じた、といわれる。

司馬遼太郎が坂本龍馬を小説にするまでは、維新史における龍馬の位置付けは必ずしも高いものではなかったと聞いています

大阪の新聞屋に勤め、反体制の気風の強い司馬は、龍馬のよーに「藩」の後ろ盾もなく、独力で自らの道を切り拓いてゆく傑物に心情を寄せる傾向があるよーに思います

私が云いたいのは、実は龍馬のことではなく、司馬遼太郎がもう一人書かずにはいられなかった 草莽の人・清河八郎 のことです

 

【清河神社⛩の鳥居脇に鎮座まします、清河八郎の討論なさる座像。『易経』から採った家紋が異彩を放っている。

鶴岡市出身の彫刻家・小林誠義 が制作したものである。

清河八郎が紀行文『西遊草』をモノし(九州遊説も敢行している)、吉田松陰は『東北遊日記』をモノする。幕末の志士は日本全国を行脚して、民情をよく知っていたものである。お二方は同い年で、1830年(天保元年)の寅年🐯生まれ。

銅像の台座にある「回天倡始・清河八郎先生」は、地元の偉才・大川周明の筆蹟。大川から感化されて、頭山満翁も清河を志士の魁として尊敬なさっていた。

[※ 画像は、地元庄内の人気ブログ「Rico's Room2」より]】

 

【ちょっと、俳優・中井貴一に似ているような気がする。俳優(わざをぎ)として凄まじい憑依型の演技をなさる中井貴一は、私のお気に入りの役者である。時代劇もすこぶる上手い。】

 

 

【母を連れて伊勢参り、の親孝行日記。母上が後日読み返せるよーにと、八郎には珍しく和文で綴ってある。あの時代に親子で伊勢〜大坂〜京都〜四国〜厳島神社⛩あたりまで、日本一周ぐるり旅みたいにマメに歩いている。旅先で遭遇したいちいちにわたって細かく文句つけている処は、庄内人らしい ♪】

 

近年、坂本龍馬の北辰一刀流薙刀の免許状が見つかり、真偽を照らすのに清河八郎の北辰一刀流免許皆伝状が参考にされたと聞きます

月刊誌『秘伝』に、「男薙刀」最強説とゆー特集が組まれたことがあったが、弁慶の「なぎなた」が戦場武器として主役であった時代もあったのである

千葉定吉(周作の実弟)師匠から鍛え込まれた龍馬はかなりの遣い手だったと思います

清河八郎はマメな男で、玄武館(北辰一刀流道場)に通ってくる門弟の氏名を逐一メモしていましたが、その中に坂本龍馬の名もある

山岡鉄舟も北辰一刀流だし、武田惣角が秘技「八寸の延金」を遣ってからくも一本取った、突きの天才・下江秀太郎もそーである

清河八郎は、当初学問一辺倒だったが、旅の空で絡まれた経験から身を守る「武」も修める必要を感じて、遅ればせながらハタチ頃から玄武館で学び始めた

クソ真面目に通い詰めて、一年で初目録を取っている、筋がよかったのだろー、その後九年かけて免許皆伝(自分の道場に北辰一刀流の看板を掲げてもよい資格)まで辿り着く

彼は、幕府の密偵の首をはねて5メートル位跳ばした逸話が残っているが、江戸では一廉(ひとかど)の剣客で通っていた

剣と学問をどちらも教える私塾を開いている

当時の志士たちは、松陰先生にしても龍馬にしても清河八郎にしても、各地を旅して歩き見聞がいたって広く、世事にも通暁していた

清河は、蝦夷地から九州遊説まで驚くべき行動範囲である

造り酒屋の息子だった彼は、五百石くらいの土地に酒米をつくる豪農(荘内藩の郷士)だった父からの仕送りで全てまかなった

実家の銘酒は飛ぶように売れたから、裕福な御曹司だったのである、このへんは南方熊楠とも似通った境遇にある

詐欺的な策を弄して上洛して、天皇陛下から勅状まで賜った頃、彼の指揮下に行動を起こせる同志が 500人位は数えられたと云う

ちょっとした五〜十万石くらいの大名並みの機動力を有していたわけである

坂本龍馬は、土佐藩の後ろ盾がないとはいえ、フリーメーソンリーのグラバー卿から手厚い援助をうけていた武器商人だったのに対し……

清河八郎は、荘内藩の後ろ盾は勿論なく、父の仕送りのみで一大勢力と目されるまで、志士たちをまとめ上げたのである

陛下から賜った勅状はつかわず仕舞いで、確たる動きも見せないまま未遂のままに、暗殺されてしまう

この逡巡・躊躇いには、幼き日のトラウマが色濃く影響を及ぼしていると思われる

荘内藩の米を預かっている庄屋格の斎藤家(清河の実家)に、飢饉のとき地元の村の衆が強奪に入ったことがある

現場で隠れていた幼き八郎は、そこで目にした事や耳にした事をペラペラ喋り、結果的に知り合いの村人十五人程を死罪に追い込んだ過去があった

調子に乗って、行動を起こすとまた数多くの人々の命を奪うことになるのではないかとの危惧があったよーに思えてならない

司馬遼太郎は、清河八郎をやはり書いた、タイトルが『奇妙なり八郎』である

トラック一台分、隅から隅まで調べ尽くす司馬が、最終的にどーしても納得がゆかなかった模様である

清河八郎が育った「庄内」とゆー特殊な地方についても、司馬は調べ尽くすことが出来なかったよーだ

>「…他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、と考え込んでしまう
庄内は文化や経済の上で重要な、江戸期の日本海交易のために、上方文化の浸透度が高かった。
その上、有力な譜代藩であるため、江戸文化を精密に受けている。
更にその上、東北特有の封建身分制の意識も強い。
いわば、上方、江戸、東北の三つの潮目になる、というめずらしい場所だけに人智の面だけでも際立っている。
庄内へゆくことを考えていたが、自分の不勉強におびえて果たせずにいる。………」

[ シリーズ『街道をゆく』29巻・東北編冒頭で「庄内」を書きたいがどーしても書けないので長文の言い訳を述べて、秋田から書いた]

 

そんな司馬が描いた短編『奇妙なり八郎』だが……

柴田錬三郎の長編『清河八郎』や藤沢周平の長編『回天の門』と比べても、わからない人をわからないなりに描いた正直な筆致は、思いの外、出色の出来だと私なんかは思う

[ 柴田錬三郎は本名斎藤錬三郎、つまり清河八郎(本名・齋藤元司)の子孫に婿入りした。また藤沢周平の恩師は『清河八郎記念館』の館長をしていた。両名ともに情実の絡む執筆であったわけである]

清河の優しさに触れている処や、刺客佐々木只三郎(会津の神道精武流において武田惣角と同門)との位比べなんか読むと、司馬はかなりに八郎が好きなよーだと私は観た、眼差しがあたたかいのである

坂本龍馬以上に、高く買っていたのではないかと私は思う

しかし、よく分からぬ処があって、『竜馬がゆく(196366年新聞連載)』のよーな大長編をモノすることが出来なかったのではないかと推察する

 

うちの地方(山形県庄内)には、『清河八郎記念館』がある

酒田市には、西郷さんを祀る『荘内南洲神社』もある

西郷さんの語録『南洲翁遺訓』を、荘内藩が発行して全国に配ったとゆー経緯もあり、本場鹿児島でも庄内の名は知られている

大川周明(酒田市出身)の称える「回天倡始・清河八郎」よりも、維新の立役者・西郷さんを讃える方が世間からはウケがいいかも知れない

が、私は鹿児島の俳優 迫田孝也さん(大河ドラマ『西郷どん』で江藤新平役及び鹿児島弁指導)が、鹿児島の世に知られていない先人を熱心に演じたり、故郷鹿児島のことを自らの生き方を踏まえて熱烈に推してくる気概にえらく心打たれた

庄内人としては、西郷さんのご鴻恩に報いる気持ちは勿論だが、郷土の偉大な先人・清河八郎の生き方を同時代の西郷さんと並べて、検証(顕彰も含む)するのが先ではないかと最近思っている

迫田さんのよーな偽らざる情熱をもって、郷土の偉人(地元の先覚)に倣う姿勢をもたなければ嘘だと思う

まー、「〇〇未遂」の人傑・清河八郎にも、「〇〇完遂」した人以上に凄絶な物語があり、潔い志しがあったことを強く感じている

泥舟・鉄舟や田中河内介・平野国臣や真木和泉などと渡り合った八郎である(この名乗りは、官位を贈るからと懐柔されたとき、「われは鎮西八郎にして可なり」と応じた源為朝に由来するのだろーか?)

八郎の遺した文書は膨大な分量にのぼるが、私塾を開くほどの学才で、通常は漢文筆記で易学にも詳しく(家紋を易の卦から取っている)、難解な文章が多く、国文の大学院クラスでないと読みこなせないとか仄聞する(よって残念ながら未解読のものが多量にある)

学問にも剣にも、よくあの風雲急を告げる時代にあれだけ修めたものだと感嘆する

まー振り返ってみれば……

維新の頃も、いまとは比べものにならないほど、

【ニューノーマル】が求められた時代であった

 

●“ 孝養を尽くす ”
[2018-07-16 23:07:23 | 王ゝのミ毎]

かの藤田東湖も、火事場の母御を助けようとなさって、あの時代に是が非でも必要とされたかけがえのない命を落とされた
わが郷土の偉人・清河八郎(幕末の志士、「回天倡始」の魁)にも、母御に孝行せんとてお伊勢参りに連れて行った道中(実際には四国や厳島神社まで足を伸ばしている大旅行記である)を詳しく描いた
『西遊草』なる紀行文が遺っている
八郎は十代の頃より、日記も漢文で記すほどによく出来たが……
この紀行文は、後々母が読んで振り返って懐かしめるように、初めて和文で書き留めている
母は駕籠に乗せて、みずからは徒歩で、従者を一人連れて、169日間に及ぶ大旅行記となっている
伊雑宮は当時、磯部大神宮と呼ばれてたのですね
外宮・内宮・朝熊山まで詣でておられました


「忠孝」は儒学の柱でありますが、明治以前の武家社会では極端なまでに推し進められました

「主君のために」とゆー忠義が、すんなりと「天子さま(主上)のために」へと移行した武士は、山岡鉄舟はじめ極少数ではあったが…… 「おかみ」なる者のためにと滅私奉公する過程で、自分のイヤな自我がどんどん消えていって、大きな一つの存在の内に自分の個性が溶け込んでゆく

心境がすすむと、大自然と同位となる(G.アダムスキー)までに至って、現世の動きが観えてくる、武士道における「忠孝」とは自分を二の次にして顧みない「観音行」でもあるだろう。
思い遣る力こそ「観音力」の正体であり、子を思う母心は途轍もない洞察を時に発揮するよーに、親を思い遣る「孝」と主君を思い遣る「忠」とは、それに徹したときに思いも寄らぬ視野を獲得する(現代のサラリーマンにも通底する事だと思う)
それは、我が薄くなり大いなる一つの存在に溶け込んでゆくからなのですね
神通力(超能力)とは、なんのことはない、他者を知ることではなく、大いなる一つである自分を知ることによって道引かれる自然な力なのでありましょー
また親孝行にも、霊的な厳然たる功徳があることを見逃しては生けません

両親とは、直近のご先祖さまに他ならないからです、家系を芋づる式に遡ってゆけば初代のご先祖から人類のご先祖さま、そして神へと家系の霊線が繋がります

日本の伝統仏教は、その消息を、「上に神棚、下は仏壇」の配置に露わしました(檀家寺の開山堂には、「歴代天皇の位牌」もともに祀られている)

ーかつて、司馬遼太郎原作の映画『暗殺』で、

 

丹波哲郎 が清河八郎を、そしてその妻・お蓮さんを 岩下志麻さん が演じて下さったようです


> 「…… やはり清河八郎という人間が、野心と情熱にあふれたエネルギッシュな人間じゃないですか。佐幕派を裏切り、結局は勤皇方につく。
そういうエキセントリックな清河八郎に惹かれたことはあります。
で、その人を愛し抜く女ということで、とても好きな役になりました。
清河八郎を愛し、守る。あれだけの拷問を受けても、絶対に口を割らない。その辺のお蓮さんの一途な愛に惹かれましたね」
[※ 春日太一『美しく、狂おしく 〜岩下志麻の女優道』より]


‥‥ 「駆けずのお志麻」さんからこう言ってもらえて、非業の死を遂げたお蓮さんも少しは浮かばれるといふものです

この映画🎦のビデオは、清河八郎記念館でお持ちだそうなので、いつの日か、見せて頂きたいものだ


いったいにうちの荘内(庄内)とゆー地は、複雑多岐な土地柄で……
出身者を並べてみると、高山樗牛(文学者)・石原莞爾(軍人)・大川周明(思想家)、丸谷才一・渡部昇一・藤沢周平・土門拳・佐高信・成田三樹夫 といった布陣で……
なかなか一筋縄ではいかない曲者ぞろい
まー「非凡」を好む土地柄ではありますね 🎯

           _ . _ . _ . _ . _ . _   玉の海草


《玉断》 庄内人らしく〜 悲劇的によく出来た名将 「酒井玄蕃」

2022-04-14 01:23:43 | 歴史・郷土史

●  庄内自慢 〜道元さんを出汁にして

[2019-08-18 20:01:58 | 王ヽのミ毎]

鶴岡も、地震やら最高気温やらで、最近よく全国ニュースに出てくる

またちょうど、「白山(しらやま)だだちゃ豆」の季節でもある

白山神とのご神縁の深い道元禅師といえば、酒田のお寺に道元作の仏像がある

南宋から帰朝される船上で彫られた十一面観世音立像で、秀吉公の持仏だったとゆー曰く付きの仏像で、最上義光公経由で酒田に安置されてある

 

先年亡くなられた渡部昇一は鶴岡の人であるが、彼の著したエッセイ『青春の読書』によると…… (以下の引用はすべてこの本)

> 母校(旧制・鶴岡中学校、現・鶴岡南高校)自慢になるが、中学で一緒だった伊藤、阿部、宮本の三哲学者が、戦前九つあった帝国大学のうち、三つの大学の哲学科を背負っていた。

つまり東大の伊藤、東北大の阿部、京城(ソウル)大学の宮本である。

当時の庄内の気風がわかる気がする。

阿部、宮本、伊藤の三人は、一高・東大哲学科で岩波茂雄と一緒である。

そして、岩波茂雄が哲学の本を続々と出す頃になると、

阿部次郎は『倫理学の根本問題』を書き、宮本和吉(わきち)は『哲学概論』を書き、また波多野精一博士との共訳ということで『カント 実践理性批判』の翻訳を出す。

そのなかでも、二年後輩の伊藤吉之助は最高の秀才と認められ、『岩波哲學小辭典』の編集者という名誉ある大役をもらうことになった。

 

‥‥ うちとこの庄内がこんなにも哲学志向が強いとは驚いた

伊藤教授の鶴岡中学での一年後輩に、かの大川周明がおられる

庄内は、銅像が少ないと云われるが、具体的人物像よりも抽象理念が好きな土地柄なのかも知れん

郷土の異才・清河八郎を「回天倡始(しょうし=一番最初に唱える)」と称えたのも大川周明であった

 

伊藤吉之助は、35歳でドイツ留学された時、個人教師としてかの哲学者マルティン・ハイデッガーを傭ったことがあった

> こんな話がある。

ある会合で蓑田胸喜が、道元禅師とハイデガーを比較し、ハイデガーの『存在と時間』の説は、日本ではずっと昔に道元が「有事(うじ)」の説で述べていると言って道元を褒めた時、

それを横で聞いていた伊藤吉之助が言った。

「君! ちょっと聞くがねえ、道元はハイデッガー程度の男かい」と。

それでさすがの蓑田も参ったという。

ここで重要なのは、伊藤がハイデガーをもヤスパースをも、日本のほかの哲学者がよくやるように偶像化して仰ぎ見ていないことである。

 

‥‥ この条りなんか、庄内人の面目躍如たるものがある

生意気なんだけど、その見識には堂々たるものがあり、不断に積み重ねた素養の膨大な蓄積と相まって、舌鋒鋭く本質を抉る処に傲岸不遜なまでの自信が潜んでいる

まだ続きがある……

> 日本ではいまもハイデガー研究が盛んなようであるが、彼が使った有名な術語に「世界内存在」(Das In der Welt Sein)があるが、あれは元来、岡倉天心が『茶の本』をニューヨークで出した時、

荘子の「処世」を「Being In The World」と訳したのを、1908年にシュタインドルフが右のようなドイツ語に直訳したものである。

伊藤吉之助が留学から帰る時、自分の家庭教師をしてくれたハイデガーに、お礼のつもりで『茶の本』のドイツ語訳を手渡した。

それが1919年のことで、1925年にハイデガーの名を高からしめた『存在と時間』が出版された。

そしてそこにはあの術語が何のことわりもなしに使われていたので、伊藤吉之助は憤慨した。

 

> 旧庄内藩の偉い人たちの間には、ドイツを尊敬する風潮があったらしい。

旧藩主の御兄弟も長くドイツに留学されていて、忠篤伯はプロイセン陸軍中尉になられた。

藩内の家からは高山樗牛、伊藤吉之助、宮本和吉、阿部次郎、石原莞爾(彼はフリードリッヒ大王の研究家)、相良守峯(ドイツ文学者、鶴岡市名誉市民第一号)などなど、ドイツやドイツ語に関係した人たちが多い……

 

__ なるほど渡部昇一の、初期のデビュー作みたいな名著も、『ドイツ参謀本部』🇩🇪だったし……  剽窃疑惑に対する秦郁彦教授との因縁でも、逃げず胡魔化さず徹底した論陣を張る処や、完膚なきまでに叩きのめすと云った評論の仕方も、いかにも庄内人らしい ♪

 

‥‥ まー、庄内藩は徳川四天王でもあり、わざわざ漢学は徂徠学を学ぶほどにこだわりの強い処がある

この純粋な理想主義的な志向が、西郷さんの王道と共鳴し合ったのかも知れない

 

「身の病者なれば、病を治して後に、好く修行せんと思はば、無道心の到す処也。」

[※『正法眼蔵随聞記』より]

自分が病気であるから、その病を治してから立派に修行しようと思うのは、ヤル気が無い証拠である。

いつまで経っても、そのままである。

> ヒルティは「本を書くならまず第一行を書け。準備ばかりしていると、いつになっても出来上がらないぞ」という主旨の忠告をしている。

 

‥‥ スイスのカール・ヒルティ『眠られぬ夜のために』から、私はキリスト者の道を学んだ

渡部昇一からは、途轍もなく冴えた頭脳をもつカソリック神父・岩下壮一を教えてもらって、光る人を知り得たことに恩義を感じている

つつしんで哀悼の気持ちを捧げます

あなたの、インテリ心をくすぐる読書話はすこぶる面白かったです

ご両親が学のある人ではなかったのに、学問の家に生まれ育ったわけでもないのに、自助努力の末、ヒルティ式の「仕事をする技術」を絶え間なく実践されることによって、よくぞ知識人の先頭を切って走られるまでの見識を獲得されたものだとやおら尊敬の念を抱かずにはいられない

地方の野心家も、正見を志すことで晩年なかなかの境地に到達するものである

庄内人には、「死して後已む」の精神が脈々と受け継がれているよーです

 

●  楽しみな番組予告

[2019-09-02 00:14:20 | 王ヽのミ毎]

『つぶれない店』にて、昭和に有名だったお米「ササニシキ」の今を取り上げていて、興味深く拝見した

うちの山形県の海沿い(庄内地方)でも、昭和の頃は田んぼ一面ササニシキを植えていたものだったが……

コシヒカリの粘り気があり冷めても美味しい処に押されて、いまやほとんど作付けしている農家さんを見なくなった

実際、日本海沿いで新潟県との県境にある温海温泉(こないだの日本海沖地震の被災地)には、新潟県からササニシキの買い付けに来る人々が結構いたとゆー話を地元の人から聞いたことがある

「コシ」はもち米みたいに粘って旨みも強いが、毎日食べるのはあっさりおいしい「ササ」が好いとゆーのが、買いに来るお客さんの生の声だったそーだ

その「ササ」が、宮城県のお寿司屋さんで採用されているのが大変嬉しかった

 

そんな「ササニシキ」の様な飽きない味わいのある御仁が遂にテレビに登場する

嬉し〜い

庄内の誇る名将の御披露目となろー

 

>9/4 (水曜)10:30

NHK総合 歴史秘話ヒストリア

「西郷と最後まで闘った男」

 

[番組内容]

日本最大の内戦「戊辰戦争」。

この戦いで強大な明治新政府軍に一度も負けなかったサムライがいた。

山形・庄内藩の酒井玄蕃(さかい・げんば)だ。当時20代の若さで美男、しかも無類のいくさ上手でもあった玄蕃は、固い決意と「北斗七星」の隊旗(破軍星旗)のもと戦い続ける。

ナチスドイツの逆卍(ハーケンクロイツ)が右回転で、正卍の左回転と反対の意味を持つように、逆さ北斗七星旗は、「破軍星旗🚩」と呼ばれ、進行方向を破軍星にとらせることに特別な意味があります。

北斗七星は、人間の生死を司るとされ、7つの星一つ一つに名前があります。「貧狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍」。北斗七星を柄杓に見立てると、柄の先端部分に当たる星が第7星の「破軍星」で、戦さを司る神であることから、「破軍星に向かって軍を進めると必ず負け、逆に破軍星を背にして戦うと必ず勝つ」という信仰が生まれました。日本にも「七星占(しっしょうせん)」として伝わっているそうです。そうした謂れから、酒井玄蕃自身は軍事を司る「玄蕃」を代々継ぐ家系だけに、自分の指揮する庄内藩二番大隊に、北斗七星を上下逆さにして一番上に破軍星を戴く「破軍星旗」を掲げたのです。

つまり敵軍が玄蕃軍に向かうときは、破軍星に向かって進軍することになります。逆に玄蕃軍は破軍星を背にして戦うことになるわけです。

玄蕃の「破軍星旗」は実物が遺っておりますが、1.5m×2mの巨大な長方形の旗です。青地に金色の逆さ北斗七星、真紅の縁取りに真紅のフリルが施された、戦場では一際目立つド派手な軍旗でした。】

 

劣勢の旧徳川幕府軍で唯一負け知らずだった玄蕃たち庄内軍。それは敵だった西郷隆盛をも動かし、敗者庄内の運命をも悲惨な東北・戊辰戦争での胸がすく秘話を紹介。

 

‥‥ まー、ね

こんな日が音連れよーとは思いも寄らなかった

出陣した戦さのすべてに勝ったのに、【全勝したのに敗将】と呼ばれる悲運の武将・酒井玄蕃……

このかたは、若くして亡くなった、毒殺された説(佐藤賢一『遺訓』等参照)もある

漢詩を詠み、篳篥(ひちりき)を奏し、書は書家となった実弟よりも達筆なのに、武芸十八般の兵法家、正味のいくさ人……

徳川四天王の庄内酒井家では「敬家」と呼ばれる名門(徳川宗家で言ったら、御三家・御三卿のよーな感じ)の生まれで、軍事を司る役職名・玄蕃を代々名乗る

まー、石坂浩二似のイケメンである

 

『幕末雄藩烈伝』を著した歴史作家伊東潤さんは、庄内藩二番大隊長・酒井玄蕃にはやくから注目して下さっていて……

楠木正成と真田昌幸とならぶ「日本三大軍略家」の一人とまで述べられているんです

彼の破軍星旗(逆さ北斗七星旗)にちなんで、哲学漫画『北斗の拳』の登場人物にかさねると……

酒井玄蕃は、南斗六聖拳の盲目の戦士「仁星のシュウ」になんとなく似ている

少年兵の捕虜を助けたエピソードがある。

[※ この少年は後年、奇しくも総理大臣・小磯国昭の叔父さんとなり、小磯国昭自伝『葛山鴻爪』に「酒井玄蕃」の名を刻むことになる]

 

ーこのたび、満を持して、庄内の偉人・歴史に埋もれた蓋世の英雄がテレビで取り上げられることと相成った

こんなに待ち遠しいのは、初代『仮面ライダー』の本郷猛が急に出なくなり、二号ライダーの一文字隼人の《変身》に熱中しながらも、本郷にどーしても逢いたいと熾烈に思っていたときに……

ショッカーを追って外国に行った設定の本郷猛が急遽帰国 、強敵・スノーマンに二号と共に戦う回を迎えた時以来の興奮であろーか

番組冒頭のスノーマンとの戦闘シーン(なんとライダーキックを弾き返される)のあとに、土煙りの中、本郷猛が背広姿で端正に脱力して歩みを進めるシーンから受けた衝撃はいまにして忘れられない

懐かしき本郷は、達人の佇まいをしてふたたび目の前に現れた

今回の酒井玄蕃の歴史秘話ヒストリアも、再現ドラマの俳優の表情もよく、思いやりの武将・玄蕃のあらたな一面に接することの出来るよーな予感がある

 

いいひとだからこそか、はやくにコノ世を去る

夭折の天才は、いつの時代も人々の記憶の中で長生きしている

 

●  戊辰戦争負け組〜 もうひとつの歴史

[2019-09-05 23:17:11 | 王ヽのミ毎]

NHK大河で、会津藩から観た幕末物語『八重の桜』が放映されたとき……

会津の方々は、きっとこんな心持ちで御覧になっていたのかなと今回不図思い致しました

とうとう迎えたこの日、ワクワクしながら拝見しましたよ♪

> 歴史秘話ヒストリア

「西郷と最後まで闘った男」

〜伝説の名将・酒井玄蕃〜

 

‥‥ いやあ、よく描かれておりましたね

凛々しく毅然とした懸け声を放つ若き役者・崎本大海の武者振りが実に佳かったです

端正な佇まい、知性溢るる眼差し、不退転の気迫と覚悟…… 玄蕃の面影が彼の所作に重なる瞬間がたしかに御座いました

34才で亡くなられていますから、今の大海君と同年代です

城下町・鶴岡の古老たち(庄内藩士の子孫)は、いまでも静かな口調できっぱりとこう云ってのけます、

「庄内は、負けて降伏したわけじゃありませんからのぅ」

酒井玄蕃がその子孫に遺言した文中にあったよーに、庄内にとって当時の官軍・明治新政府軍は「賊軍」に他ならなかったのです

 

正史は勝者の歴史、しかし、敗者の埋もれた歴史にも光りのあたる時節が着実に音擦れて来ているよーです

> 庄内藩軍の強さの秘密は三つある。

(1)まず(酒井)玄蕃の戦略・戦術眼と指揮能力が傑出していたこと。

(2)藩軍と農兵が一体化していたこと。

(3)そして豪商の本間家が、財政的にバックアップしていたことだ。

 

この三位一体化したチカラにより、始祖の酒井忠次(徳川四天王筆頭)の名に恥じない武辺ぶりを発揮した庄内藩軍は、戊辰戦争を通じて【全勝のまま終戦】という奇跡を成し遂げたのだ。

[ 伊東潤『幕末雄藩列伝』より

引用文中( )内の補筆は私注による ]

 

‥‥ まー、肖像写真の玄蕃は優男で、肩の力が抜けた自然体で写っているが、かなり剣術も出来たよーだ

最近になってやっとネットで出回り始めた、西郷さんの優しげな眼差しの肖像画は、庄内藩士・石川静正の筆になる油画だが……

この静正翁の父上の石川猪太夫こそ、玄蕃の剣術の師であり、「新九流兵法」を修め、藩の武術師範役も勤める剣の達人であった

玄蕃は、20才で免許皆伝を得ている

京都は会津藩の見廻り組、江戸は庄内藩の新徴組の「御回りさん」が、市中取締り役(今の警察官)を務めていたから……

玄蕃も先頭に立って不逞浪士の輩を日夜検挙していたわけである

天然理心流・三術を網羅する達人にして、北辰一刀流千葉道場塾頭をもつとめた真田範之介とも立ち合っているから、その腕前は相当なものだったろー

東郷隆『我餓狼と化す』によれば、その真田との捕物に際して、玄蕃がつかったのは、室内戦闘用の脇差で大坂正宗と呼ばれた井上真改の作であるそーだ

新九流剣術の他にも、重正流馬術や長沼流兵学も修めている

 

余談だが、玄蕃のご兄弟もまた揃いも揃って「人物」である

御弟の酒井調良は、平核無し(種無し)柿の先駆たる「庄内柿」の開発者(発見者は鶴岡市鳥居町の鈴木重光)で、渋柿ゆえにアルコールによる渋抜きも定着させた御方

妹御の白井久井は婦人活動家で、明治期に女性の働けない時代に女教師となり、いちはやく幼稚園を創立された

下の御弟の黒崎研堂は、日下部鳴鶴に師事した能書家で庄内書道界を牽引された漢学者

そのご子息の黒崎幸吉は、無教会派の内村鑑三の高弟でクリスチャン……

彼が庄内で行った講演を聴いていた鶴岡中学の一学生(長谷川信夫翁)が、その講演に感動して、後年『荘内南洲神社』を酒田市に建立することと相成る(昭和52)

彼の講演での第一声が「君たちは、『南洲翁遺訓』を知っていますか?」だったそーだ

幸吉翁のご子孫に、NHK元アナウンサーの黒崎めぐみさんがおられるとの事

 

酒田は鳥海山文化圏(陽・日)で商人の湊町、鶴岡は月山文化圏(陰・月)で荘内藩士の城下町、京大坂のごとく陰陽相まって庄内は発達してきた

玄蕃たちの武士道の発露を、蔭で支えてきたのは、豪商の本間家をはじめとする平民たちでもあった

所有農地3000町歩、小作人3000人、実高25万石の日本一の地主が本間家であり、吾々の先祖がたは心からの親愛をこめて「本間さま」と呼び慣わしてきたのだ

庄内浜の砂防林に莫大な費用を注ぎ込んだ三代目・光丘翁のお名前は酒田市の地名となって遺っているくらいだ

翁の家訓に「徳は得なり」とある(なんかRさんの言葉みたいだ)

本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に

この俗謡には、庄内の真実の一面を精確に伝えている、あながち冗談で言っているわけではないのだ

 

戊辰戦争では、酒井家は論功行賞には身分を問わず公平なので、商人や農民の町兵も働きによっては、名字帯刀を許すとか褒賞に関して気前がよかった

それゆえ、酒田の街からは裕福な財力をもとに自前の鉄砲持参で戦さに馳せ参じるものも少なくなかったと云ふ

笑い種みたいだが、酒田の町兵は正規の庄内藩兵より装備が充実していて(本間様はロシアやプロイセンの武器商人とも取引があった)……

7連発の米国製スペンサー銃(八重が持っていた銃)とか、英国製のスナイドル銃とか当時の最先端の兵器を抜け目なく手に入れていた

酒田の街衆は、その心意気を大いに買われ、その名も黄金隊と命名され、大いに奮戦されたと云ふ

庄内藩の兵力4500人のうち、商人や農民の町兵は2200人もいて、武家にしたがい一丸となってよく働いたと聞く

酒田は、「西の堺、東の酒田」と云われたよーに、自由な気風で滅茶苦茶活発な処が少なからずある

 

ー徳川家が幕政をしいてより、260年間、庄内の主はずっと酒井の殿様であり続けた

伊東潤さんの云われる、日本藩政史上珍しい「三位一体」は、

酒井家で綿々と培われて来た清廉な武士道、

本間家の仁徳と途方もない財力(公益に対する思い)

高度な農業技術をもった真面目な農民兵とが、

この不思議な地「庄内」で絡み合って醸成され或は精錬され結晶化されたものだと思う

 

ー司馬遼太郎が人気シリーズ『街道を行く』で、庄内地方をあえて描写しなかった、出来なかったのは、いまにして思えば流石に正解だったのだろー

わたしも、いまだに自分の故郷のことがよく分からない、それだけの魅力や秘密がある土地だとゆーことかな

今回の『歴史秘話ヒストリア』は、二回三回繰り返して拝見させてもらいました

いやはや、心ゆくまで堪能いたしました

NHKならではの良き番組です、深く感謝致しております

          _________玉の海草

 


《玉断》 西郷さん随想〜 ❌征韓論じゃなく、単なる ⭕️『 遣韓論 』 だった

2022-04-12 21:00:07 | 西郷先生

 

●  西郷先生〜 あるべき日本人の姿

[2018-06-25 00:28:36 | 王ゝのミ毎]

大河ドラマ『西郷どん』も前半の佳境、いよいよ沖永良部島に流されて、土持先生と終生かわらぬ契りを結ぶ

沖永良部では、「西郷先生」と呼ばれている

西郷さんは、いまでも九州全土の英雄であらせられますが……

九州の方々からの尊敬と親しみは尋常ではないものの、土持先生の様に師表として仰ぐと云った趣きではないよーです

うちの山形県庄内でも、城下町・鶴岡市辺りでは庄内藩士の子孫も多く、いまでも「西郷先生」と呼ばれています

 

徳川四天王の筆頭・酒井家は、松平(=徳川)家の本家筋にあたる佐幕の中核であり……

同じく四天王の井伊家(彦根藩)と伴に、御用学問の「朱子学」ではなく、あえて願って「徂徠学」を熱心に行じたお家柄です

文明開化の外圧とともに、西洋の学問が本格的に流入して来た時……

人一倍、幕藩体制の「まつりごと」の在り方、君臣の忠義の道を眞剣に模索なさった経緯があったことでしょー

そーしたなかで、かつては憎むべき敵であった庄内藩(江戸市中取締役)の降伏に際して、王道をもって臨まれた西郷南洲翁のご采配に心底驚き、そのとてつもない実行力を目の当たりにして……

人生の師表として、生きた聖人の道を歩まれる西郷先生に藩をあげて心酔されたとしても何ら不思議はない

『南洲翁遺訓』のなかで、学問は洋の東西を問はずひとつだと諭しておられる

西郷さんは読書家でいらして、キリスト教の聖書や福澤諭吉の進取の書物なども出来うる限り目を通していらした

そんな詞藻ゆたかな文人といってもよい素養を持ち合わせ、なおかつ確実な政治力(人間力)を併せ持った大器量の西郷さんに、尭舜の聖人を重ねてみたとしても可笑しくない

 

荘内南洲会の、今は亡き古老の先達がたは、西郷先生がいつ皆が心に思い描く「西郷さん」に成られたのかとゆー設問に対して……

意見を一致しておられた

曰く、沖永良部島に上陸なさって牢屋に向かう峠道を登り切られた時であろーと

「西郷先生」と敬慕してやまない荘内南洲会には、他の西郷南洲研究家とはちがう独自の見解も幾つかある

まーそれでよいのだ、西郷さんは巨きすぎて、なかなか見渡せません

知己を三百年の先に待つのだと‥‥

 

●  ゲマトリア

9/14 は、崇徳院のご命日、

9/24 は、西郷南洲翁のご命日、

明治維新150年の今年は、なにかが蠢いている気配がいたします

 

●  明治維新150周年

[2018-12-24 04:32:04 | 王ヽのミ毎]

今上陛下のお誕生日、おめでとうございます

陛下の真心が溢るる、あの御会見、ひび割れて乾いた土に潤いの浸み渡るがごとく、心も柔かくほぐれてあたたかにお日様に照らされたよな心地になりました

皇后国母美智子さまも、かつて国民の一人であられたのだなあと、感慨を深く懐きました

60年間、聖上をお支えになられた偉業(観音行)は、忘れられることはございますまい

この傲慢な私にしてからが、美智子さまが皇太子妃とおなりになられ、浩宮さまをお産み遊ばされ、乳母を置かずに御自らお育てになったからこそ、はじめて皇室に興味を抱いた経緯があります

 

明治聖天子が東京に御うつり遊ばされてより、150……

今上陛下の御手により今、ひとつの巨きな節目を迎えられたことは、日本国民としてよろこばしい慶事であるのかも知れません

奇しくも今年の大河ドラマは、維新の英雄・代表的な日本人の『西郷どん』でした

裏表乱れてさまざま色々な思いに翻弄されて、すぐには最終回の感想は出てきませんでした

しかし、一度とて見逃すことなく綿密に大西郷の生涯を追いかけて来ました

前回の、司馬遼太郎原作『翔ぶが如く』にくらべ、今回は当方も歳とともに練れて細部まで舐める様に吟味して、ドラマで取り上げなかった事件にまで思いが及び、随分と深く「明治(御一新)」に漬かることが出来たと感謝しております

いままで、あれだけ毛嫌いしていた「幕末」が、にわかに新しい光を帯びて語りかけてくるよーな真実味・人間味がございました

島津の斉興公と斉彬公との藩主の座を争う直接対決は凄かった

蘭癖(西洋かぶれ)の殿様は、藩の財政を危うくする張本人なのですなあ、斉興公とお由羅そして調所の気持ちが痛いほど分かりました

篤姫の、むごい婚姻についても今回思いを馳せました

あそこから、徳川の立派な嫁として、江戸城無血開城にも繋がってゆくわけで…… なんとも

慶喜公の洒脱な遊びっぷりも印象に残っています、着流しの裾さばきが見事でしたね

豊臣秀頼公といい徳川慶喜公といい、御みずから戦いの先陣をきれば勝てる局面にあったとは思う

しかし、あえて戦わなかった処が尊いのです

西郷さんの度重なる島流しは、西郷さんの人生観を形造った苦難でしたが、やはり牢獄生活はひとを甚しく一変させるものです

奄美大島からの西郷さんは、愛加那さんと睦み合い雰囲気が変わって新鮮でした

南国の風は不思議な空間を創り出します

奄美大島の龍郷町に暮らした西郷さんでしたので、九州旅行のお土産は大島紬の「龍郷織り」のバッグにして、随分と母から喜ばれた思い出があります

あの大島紬の深味・滋味は、年を重ねてはじめて分かってくる最上の色味ですね

久光公から呼び戻されて、京に向かった西郷さんと「精忠組」の幼なじみ有馬新七との腹を割った話し合いがまたよかった

神影流の達人で学問もよく出来た有馬新七が、過激派として寺田屋で命を落とした行動の陰には、九州遊説した庄内藩郷士・清河八郎や真木和泉・平野国臣・田中河内介も関与している

龍馬や神道無念流の達人・桂小五郎(ちょっと合気を感じる)もよくはまっていた

大村益次郎も一風変わった人柄がよく出ていて印象深い

岩倉卿はキャラが立ちすぎて、力量がある俳優(芸人)を起用するのも考えものですね

江藤新平も迫力ありましたね、佐賀ではいまだに顕彰が足りていないと思います

わたしたち庄内では、佐賀の副島種臣(蒼海)翁は、旧庄内藩発行『南洲翁遺訓』の序文を書いて下さっているご縁からよく知られています

しかし、大久保卿から見せしめの為に手酷く処刑された江藤新平は、保守的で真面目な佐賀県人からはいまだに謀叛人の扱いで、日の目を見ていないよな感じがします

実際、佐賀で江藤新平の銅像を探すのに、地元の人々がほとんど知らないものだから苦労しました

西郷さんの取り巻きのバランスもよかったと思います

薬丸自顕流の達人・中村半次郎も背が高くて180㎝近くあり、西郷さんは178㎝、血液型B型、あの当時からみれば大男の部類です

私学校の校長をなさった篠原国幹は、陸軍少将で、明治天皇の天覧軍事演習にて抜群の働きがあり、「あの篠原に習え」との天皇陛下の御一言で千葉県の「習志野(習篠)」の地名となったと聞きます

わたしも鹿児島の「西郷南洲顕彰館」で篠原国幹のご筆蹟を拝見しましたが……

実に濃やかに綿密で強靭な人智人徳を感じ致しました

篤実沈勇の人と称される篠原国幹は、わが庄内の名将「鬼玄蕃(酒井玄蕃・吉之丞)」ともよく気心が合った様です

庄内藩では「敬家」と呼ばれる名門の酒井玄蕃家に生まれた吉之丞は、見た目は優しげなイイ男だが、破軍星旗(北斗七星)を棚引かせて戦うカリスマ的な軍略家であり仁徳を備えた武将であった

戊辰戦争では無敵を誇った庄内藩は、沈潜の気風と云われたものだ

玄蕃の楷書は一点一画ゆるがせにしない見事な造形で、高橋泥舟の虞世南の臨書に匹敵する風情がある(いずれも庄内南洲会所蔵、他にも月照上人の禅機溢るる書や村田新八の丁寧な書もある)

まあ、『西郷どん』の最終回の妙な明るさには大いに掬われた

薩摩隼人ならばこそ、ああいった風情や覚悟の在り方が成り立つと思われる

日本の歴史上最後の白兵戦にして、最後の内戦である「西南戦争」は、西郷さんの「陽()」と大久保卿の「陰(理性)」との拮抗するせめぎ合いであったと感じる

明治維新にはどちらも必要不可欠な御仁であったのだ

『西郷どん』には、西郷さんの恩師である赤山靱負や月照上人そして橋下左内、有馬新七や横山安武など、「維新」の大義の為に命を落とした真の志士たちの生き様がよく描かれていた

西郷さんの懐には、さきに死んでいった英雄たちの面影が常に忍ばせてあったと見ゆる

彼らのしかばねを越えて生きてきたからこそ、彼らに対して恥じる様な行いは断じて出来なかったことであろー

 

西郷さんの逸話で、わたしの何となく惹かれる一話がある

明治新政府が出来て、参議や陸軍大将に任じられ、位人臣を極めた頃の話である

西郷さんが私用で知り合いのお宅を訪ねた折に、正面玄関から案内を乞うような事は決してせずに、勝手口や裏口に回って、女中がたまたま通りかかるのをひたすら待っていたと云ふのである

「たのもう」とか「ごめんください」とか声をかけて、わざわざ自分の為に女中の仕事を中断させて応対させるのを憚ったのだと云ふ

この、「目の前の世界より自分は小さい」と云わんばかりの謙虚さは、薩摩隼人には珍しいタイプである

この手の道徳観、腰の低さはむしろ東北の、庄内のひとかどの人物と相通ずる気脈を感じてならない

江戸っ子の「ひとさまに気を遣わせない」生き方とも呼応している感じがある

西郷さんは、ポリネシア系(沖縄・アイヌ)のお顔立ちだが、気難しい京の都人にも坂東武者の江戸っ子にも好かれた、史上稀有なキャラクターなのではないかと存ずる

 

●   あの「ひー様(一橋慶喜)」を囲んだ遊廓での、西郷さんと左内の遣り取りは面白かったですね

西郷さんは、篤姫の婚礼道具一式を京都で揃えたり、遊廓で折衝されたり(女性からの人気が高かった)と、風流のたしなみも並々ならぬものが御座いました

Rさんの見立てどおりの、筋肉隆々の西郷さんが初めてお目見えした記念すべきドラマでした

島津久光公もユーモアがあって素適でしたね、山縣有朋が城山攻撃前の軍議で「この中で西郷さんに助けられたことのない者はいるか?」と口走る件りに、西郷さんの真骨頂があるのだと感じ致しました

「敬天愛人」とは、根源神に仕える天の御使いの視点でもあるのだと思います

 

●  西郷さんの本名

[2019-08-01 01:19:16 | 王ヽのミ毎]

今でしょ!センセイの『ニッポンドリル』に、うちの地方(山形県庄内)のお宝が初めてテレビ放映された

西郷さんのご本名「隆永」の署名のある書翰のお軸である

さすがはハヤシ先生、庄内藩家老・菅実秀に目を留められましたか

まさか、このよーな取り上げ方をしてくださるとは、ほんとうに驚くばかりで眞事に感謝に堪えません

酒田市に「荘内南洲神社」があるのですが、ご祭神は西郷南洲翁だけではなく、この傑物・菅実秀翁と合わせて二柱でもあるのです

テレビで映された、菅さんと西郷さんが正座して向かい合っている銅像は『徳の交わり』と称されており、この意気投合なされた気合をこそ祭って、「南洲神社」としている消息もあると思います

地元では、雅号の臥牛先生とお呼びしております

臥牛(がぎゅう)とは、牛の寝そべった様をあらわし、名峰・月山の別名でもあります

庄内藩士は、戊辰戦争以後の明治からは、『南洲翁遺訓』と『臥牛先生遺教』を座右の書として、研鑽怠りなく励んで参ったわけであります

まー、誇りの高すぎる庄内人が、西郷さんとご同様に景仰するほどの御仁ではあります

ただ、庄内生まれの先人、たとえば清河八郎や大川周明・石原莞爾に象徴されますよーに、臥牛先生もまた功罪相半ばすると申しましょーか、陰陽ともに強烈で未だ評価の定まらぬ名士と云えるかと存じます

 

臥牛翁は、むかし西郷さんの暗殺を企てていた節(庄内藩は徳川親藩として江戸市中取締り役でもあった)もあり、肝が据わって腕っぷしにも自信があったのでしょー

佩刀にも独特な見識があり、かの首斬り朝右衛門にも自ら乗り込んで取材しているほどで、剣客としてひとかどの人物であったことは間違いないでしょー

剣術流派は「陰流」(秋田では盛んだが珍しい流派)、無辺流の槍もつかわれます

薩摩藩の表芸が示現流で裏芸が薩摩琵琶であるよーに、庄内藩でも剣術と裏芸としての「釣り」が武士の嗜みでありました

いまに残る「庄内竿」を編み出して、日本海のイシダイと戯れていたわけであります

菅実秀翁は、風流人でもありました

庄内酒井家は書も画もよくします、幕末明治に生きた忠篤公と弟御の忠宝公とが合作なされた書画の掛軸が遺されていますが……

殿様芸を遥かに超える出来栄で、このご兄弟は西郷さんの推薦でドイツに7年もの間ご留学されて帰国、その時既に西郷さんはお亡くなりになっていたので、中央に留まらず躊躇なく鶴岡に帰ってお仕舞いになりました

西郷さんがもしも下野なされなかったら、山形県ではなくて「鶴岡県」になっていたかも知れません

庄内人は県庁が山形にあることを認めない人が多いと思います

 

月山とゆー御山は不思議な趣きがあり、山形市あたりからも見えるとの事で山形県の中央にあり、出羽三山の主峰でもあり、県の代表的な山です

わたしは秋田県寄りの鳥海山文化圏なので違いを肌身で感じているのですが、月山を雅号にする菅実秀とゆー人物はほんとうに油断がなりません

ちょうど藤沢周平の生家から仰ぎ眺める月山の山容が「臥牛」そのものなのです

なにか長閑な風景を感じられるかも知れませんが、月山はなだらかなのに遭難が多く、月山スキー場が夏スキーで有名なよーに(冬は雪が深すぎて滑れない)、ほんとうに怖い御山なのです

そうした重層さや沈潜の気風の不気味さ等、菅さんの苦労人ぶりからも感じられます

「小西郷」と呼ばれた副島種臣翁(『南洲翁遺訓』の序文を寄稿してくださっている)が借金を抱えて、庄内に来られたときにカンパして差し上げたことがあった

戊辰戦争負け組の庄内藩は、賠償金とか大変な時期だったのに、菅さんは義理堅く率先して金集めに奔走しておられた

出陣した戦さ全てに勝利した、荘内きっての名将・「鬼玄蕃」(酒井玄蕃)も菅さんに師事したことがあった

菅家のご先祖は、北九州あたりのご出身らしいのだか、「菅公」の御血筋なのだから頭もきれる

ハヤシ先生は、幕末では江藤新平を評価されていたが、目の付け所がシャープだなあと感心していたら……

今度は、菅実秀とは……

おっしゃったよーに、菅さんなくば『南洲翁遺訓』として西郷さんの口吻が後世に伝わることはなかったでありましょー

あなたが初めて認めてくださいました、ありがとう御座います

 

●  > ‥‥ 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。

[ マザー・テレサの言葉]

 

> 人を相手にせず、天を相手にせよ。

天を相手にして、己れを尽し人を咎(とが)めず、

我が 誠 の足らざるを尋ぬ可(べ)し。

[ 『南洲翁遺訓』第25章より、荘内藩士・戸田務敏が面授された言葉]

 

‥‥ 一口に「内なる神・内観」と云ってしまえば、洋の東西を問わず神秘主義の最重要テーマになるが、代表して上記の御二方に登場願った

ちなみに、西郷さんの言葉をまとめた『南洲翁遺訓』(41章追加2章)には、他にも「誠」に言及している章が数多い

・第7章ー「至誠」

・第35章ー「至誠」

・第36章ー「誠意」

・第37章ー「真誠」

・第38章ー「誠心」

・第39章ー「誠」

[ wikiの「南洲翁遺訓」に全文掲載(追加第2章は抜かれているが)、ご参照されたい]

 

‥‥ Rさんの言葉、「本当の自分」に理解されるような、自分の努力の行為、これが西郷さんの云われる【誠を尽す】とゆー事でありましょー

漢学の盛んだった幕末の藩校教育では、もっとも大切な言葉が「誠」だったのかも知れません

 

「誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」(『孟子』)

「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」(『中庸』)

「誠は物の終始、誠ならざれば物無し」(『中庸』)

「心を養うは、誠より善きは莫()し」(『荀子』)

「五年にして一語を得たり、曰く誠なり」(司馬温公に五年師事した劉安世の言葉)

 

 

●  西郷さんが西南戦争を起こしたのではない

[2021-10-08 01:33:22 | 玉の海草]

「西南戦争」の戦端をひらいたのは、西郷さんの発意ではありません

新政府が鹿児島にある武器弾薬を大坂に移そうと、「コッソリと」船に積み込もーとする処を、「私学校」の生徒らが見つけて、奪い返してしまった事件が発端でした

この事件の緊急報告を出先でうけた西郷さんは、思わず「しもた(仕舞った)」と呟いたそーです

 

新政府は、これを幸いとこの事件を強奪事件としてとらえ、薩摩士族の叛乱とみなして、薩摩討伐の名目としました

この事件が起こった下地としては、新政府の大久保卿が24人の警察官(薩摩出身者)を、スパイとして薩摩に送り込んだ疑惑がありました

彼らの目的は、「西郷の暗殺」だと云われています

私学校の生徒が、スパイを捕らえ拷問して吐かせたのです(暗殺と勘違いしたとの説もある)

 

武器弾薬強奪事件をうけて、西郷さんは最早申し開きのできないことを悟り、「政府に尋問の筋これあり」と自分を暗殺するためにスパイを派遣されたのは本当なのかと、新政府に問いただすことを大義名分として、熊本鎮台(熊本城)まで行進することにしたのです

西郷さんは、もはや戦争が避けられないことを覚悟して諦めて、私学校の生徒はじめ不平士族の「御輿(みこし)」に担がれることを良しとしました

「この命をお前さま方に差し上げましょう」と挙兵の看板となることを了承します

 

新政府と戦さする気が微塵もなかった西郷さんは、西郷軍の戦略会議(軍議)に加わることは一切なかったそーです(ただし、城山で討ち死にするための最後の軍議だけは出席した)

まるで飾り物のよーに「大将」として、その身を提供したのです

 

私学校とは、西郷さんが公職中に得た収入から私財を注ぎ込み、次代の青年たちを育てるために建てた私塾のよーな学校です

この学校では、軍事訓練も行いますから、不平士族の不満を鎮める目的もありました

西南戦争の直前まで、佐賀・熊本・福岡・山口で不平士族の反乱が連発しました

西郷さんが、新政府とコトを構える気が毛頭なかったことは、「佐賀の乱」で盟友の江藤新平が鹿児島に逃げて、西郷の助力を仰いだときにも一切応じなかったことでも明らかでしょー

 

西郷さんは、たとえ幕府が「大政奉還」しよーとも、倒幕のために徳川慶喜をとことん追いつめました

徳川幕府を倒さないかぎり、新政府の樹立はできないとばかりに、江戸市中を焼け野原にしてまでも倒幕する計画を胸に秘めて、「官軍」の軍事司令官として江戸城に行軍しました

「いざ、お国のためにやる」となったら、情け容赦なく実行する武闘派(極めて優秀な軍師)の一面も強くもつ西郷さんなのでした

 

だからといって、決して喧嘩っ早いわけではありません

教科書で ❌「征韓論」などと聞くと、朝鮮を「征服する」論だから、戦争肯定派なのかなと早合点しそーですが……

真実は、西郷さんが「烏帽子直垂れ(ひたたれ)」の正装(礼装)でもって(軍隊を引き連れないで)、新政府の代表として単独で朝鮮半島へ赴き、交渉して来ましょう」と言っただけでして、いわば、

「韓国への派遣論」= ⭕️遣韓論」【けんかんろん】だったのです

[※  毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書、1980年)に詳しい]

もし自分が訪朝して殺されたら、その時には仕方なく開戦の口実としてもよいとゆー外交政策だったのです

あくまでも礼儀を重んじて、相手の真意を謹んで承るとゆー姿勢が、西郷さんの真実の姿なのです

なにせ、他人の家を訪問したときに、「ごめんください」と発することは迷惑をかけるからと云って、女中が玄関を通りかかるまで、黙って待っているとゆー風な御仁です

 

西郷さんの脳内には、おそらく対立の構図はありますまい

歴代の禅師以上に大悟された「腹の出来た人」、山岡鉄舟居士が酒を持参してくみかわす、ほとんど唯一の大器量が西郷さんです

ご一新の最大の功労者・西郷さんをみくびってもらっては困ります

           _________玉の海草

 


《玉断》 西郷さん随想〜 庄内藩秘蔵・西郷さんの肖像画

2022-04-12 20:00:02 | 西郷先生

戊辰戦争の折に、鳥海山を挟んで、庄内藩と秋田藩が戦ったわけですが、

うち(旧・八幡町)の升田地区と、秋田県側の矢島町の百宅(ももやけ)地区とは、戦役後婚儀が結ばれた例があります

これは、戦さにあたって庄内藩士が「礼」を尽くしたこと(軍規を守り、略奪狼藉等がなかった)が遠因となっているよーです

庄内藩は、戦闘で敗北した末に降伏したわけではありません

各所で勇猛に戦い、実際強かったと伝え聞いております

そんな士族の氣概と、かの西郷さんのご鴻恩とが相俟って、若干他の奥羽越列藩同盟のご家中とは薩長藩閥政府に対して温度差があるやも知れません

恵まれていたと云えるかと思います

 

しかし、すべては西郷さんの下野で水泡に帰してしまいましたが

うちの殿様のご兄弟は、あの当時、独逸に78年も留学して法律と軍事を学びながら、西郷さんのおはさぬ中央に留まることを潔しとせず、旧藩士共々こぞって鶴岡に帰って仕舞われたのです

あのままいけば、山形県庁は鶴岡市だったはずです

 

● 龍馬と西郷(せご)どん

[2010-05-12 07:30:42 | re; 玉の海]

西郷さんには、一枚の写真も遺っていない

これは、肖像写真好きの龍馬が非業の死を遂げたことを悼み、妻のおりょうさんと互いに生涯写真は撮るまいと約束したと伝え聞く

維新が成った後も、その胸に志半ばで逝った志士たちを抱いて生きた西郷さんであったから

おりょうさんは、晩年になって、たった一枚の写真を撮っているが

その折に、西郷さんとのその約束について語ったと云う

巷に出回っている、遊女風の小股の切れ上がったいい女風の、若い女性の肖像写真は、おりょうさんの写真ではないとの事

 

鹿児島の西郷さんの自宅に逗留したこともある龍馬は、変名として「西郷伊三郎」を名乗ったこともある

そんな龍馬の西郷評は

>龍馬は初めて西郷と会った時の感想を、師の勝海舟に次のように語りました。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。

釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。

ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした」

(*Wikipediaより)

>坂本龍馬を鹿児島の自宅に招いた際、自宅は雨洩りがしていた。

夫人の糸子が「お客様が来られると面目が立ちません。雨漏りしないように屋根を修理してほしい」と言ったところ、

西郷は「今は日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」と叱ったため、隣室で休んでいた龍馬は感心したという。(*)

 

一方、龍馬はどのよーに観られていたかとゆーと、

>西郷隆盛

「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

>勝海舟

「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。

その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)

-*共にWikiより引用-

 

龍馬の号は「自然堂(じねんどう)」、西郷さんの語録である『南洲翁遺訓』には、こんな言葉がある

 

敬天愛人

「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。

天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」

 

大霊覚者であられたと云う明治天皇に特に愛された西郷さんや神道無念流の達人・桂小五郎のお目がねに叶ったからこそ、

薩長同盟は成った

命懸けの志士たちの眼は節穴ではない、そこには私心がないからだ

 

●   酒田の南洲神社の祭の式典で、荘内藩・酒井の殿様がお配りになった資料より引用する

>維新の大業に、一身の出世のために働いたり、大将の位がなつかしい人間であったなら、

私学校徒中のあばれん坊と同じ運命をたどるような馬鹿なまねはせず、一将功成りて万骨枯るという世のならわしに従ったであろう。

しかしそれが出来なかったところに、月照と抱合って海に身を投じた西郷、

島津久光の怒にふれて島流しにされた西郷、

大島の島民を愛して慈父として慕われた西郷、

上野にたてこもった彰義隊の鎮圧がはかどらず、指揮権を要求した大村益次郎に、藩閥意識の強い同郷薩人の反対を無視して譲り、自分は一兵として甘んじて戦った西郷、

今日のアンチ西郷論者が、西郷を強盗の親分として罵ったのは維新前の江戸市中の浪人の暴動事件であるが、

その取締り藩として、西郷の行動を最もよく知っていた筈の庄内藩の藩主や家老達が千里を遠しとせずして、鹿児島に来て、西郷のおしえを受けたいと望み私学校に入学する希望を湧かせた不思議な校長西郷、

江戸城の無血明渡しを成就させた西郷、

最後にあばれん坊の私学校徒に鬱憤を晴らさせてやるために、維新第一の功労者の名誉も、陸軍大将の位も古わらじの様に捨てて国賊の汚名をきせられて弁解もせずに此世を去り、今日尚彼の動機の是非を世人に論議させている悲劇の西郷があったのである。

今日の利口な人々は、利害を超越したこんな西郷を大馬鹿者であったと思うであろう。

(*坂本盛秋著『福沢諭吉の歴史的証言と西郷隆盛の死』より)

 

大馬鹿者で結構!

だからこそ好きなのである

 

●  「独」という言葉は、

「もともと神明に対する人間の内心の実をいうのであって、必ずしも他人と相対する自分をいうのではない」

[※  赤塚忠『大学・中庸』明治書院-より]

つまり「独」というのは、もともとは、いわば

一人ひとりの心の内にある神性をいうのです

朱子学は、本来、人は、そのような「本然の性」をもっていると説きます

 

この文章は、皇學館大学の松浦光修さんの書かれた『【新訳】南洲翁遺訓』からの引用です

日本では学問といえば、長い間それは「儒学」を指しました

そんな伝統の下に育った吉田松陰もまた

「学問というのは私たちが、人としてどう生きるのか、という知恵を学ぶことである」(松下村塾記)

と云われているほどです現代の吾々の抱く、「学」に対する認識とは大きく隔たりがあります

脳における知性や理論だけのものではなかったのです

そーゆー意味では、(同書によると)西郷さんが、楠木正成のことを「真儒(=本物の儒学者)と呼び、特別な尊敬を抱いていたことも分かるよーな氣がします

日本では、儒教は導入することなく儒学だけを受け容れた経緯があります

 

●  たしか、西郷さんも

月参りで参拝した神社の境内で、友人たちの喧嘩の仲裁に割って入って

腕の腱を斬られ、剣術の道を諦めたのでした

至極残念な、武辺の盛んな鹿児島(薩摩)では至って不幸なアクシデントではあったのだが

それよりなにより、あの西郷さんも『月参り』を欠かさなかったとゆーことの方に心惹かれた

やはり、そーゆーもんなんだなと独り合点がいったことだった

 

●  『南洲翁遺訓』に関して、

頭山満翁(中村天風の師)は「百年や二百年で色褪せるようなことは、西郷先生は云っておられない」と感服しておられたが

 

●  真空な人 ~あるものはみな吹き晴らえ大空の~

[2012-09-05 02:09:58 | 玉の海]

きょうの記事にあった、自分のことを後回しにする人とは、無私な人であり

功利的に考えても、頭に戴いたとしてなんら圧迫感を感じないので、子分になっても損はしない人でもあります

>自分の中に、2%ほどの【無私なる真空】を作った人であり、その無私なる真空に人が引きつけられた。

これは、司馬遼太郎が西郷さんについて語った注目すべき発言ですが

実際に会ってみないと分からない、数少ない人物とも言っています

司馬は、魅力ある人物とはどこか真空の部分があって、それが人々を惹き付けるとよく云われます

>台風の目のように、西郷は【真空】でありました。皆が懸命にその周りで旋回しておりました。

(*『翔ぶが如く』文春文庫-より)

 

自然界は、何故か「真空」を嫌います

純粋なる真空を阻止せんと、あらゆる手段で混ぜ物(混沌・カオス)を造り出そーとしているかのよーです

不純物が、のべつまくなしに侵入して行きます

現代科学をもってしても、無重力状態を現出させるのは困難な業だと聞きます

 

人間界においても、それは云えるのでしょー

なぜか、声を掛けたくなる、何かして上げたくなる磁力のある人は人気者になります

「なにも考えていない」人は、なにを考えているか判らない謎めいた人との印象を与え

心が読めない、大器量人と勝手に誤解され、高い評価を得てしまったりします

それは、読めないはずですよ~ なんも考えていないんだから♪

いつの時代も、茫洋として捉え処のない人物は、人々に可能性を感じさせるが故に、広く好まれるよーです

「大賢は大愚に似たり」は、庶民の鋭い直感から出た言葉だと思います

 

西郷さんの従兄弟で、面立ちも似ておられた大山巌は、自分自身のことをこー云われてます

「私(大山)は、何も知らない人間の仲間です。

何も知らなければこそ、

参謀総長にもなり、陸軍大臣にもなり、大警視にもなり

はなはだしきは、文部大臣にさえなりました。

【何も知りませんから、どんなところにも向きます】

まことに重宝な人間でございます」

これなんか、開き直っているよーでいて、いたって謙虚でもあります

しかし、真空な人とは一面孤独な人でもあります

人気者で、人々が寄り集まっては来るが

なかなか理解されない恨みはあるでしょー

そこで自らを支えるのは、ご先祖と内なる神です

西郷さんも、氏神さんへの月参りを欠かさなかった御方だと聞きました

今月924日が祥月命日です

 

●  西郷さん

(*この「さん」付けは、日本人が一休さんや西郷さんと呼ぶ時の最高最愛敬語として遣っている)

 

●  謎の西郷さん

[2014-02-11 18:56:04 | 玉の海]

西郷さんは、庄内・酒井藩および(山形県)庄内の人々にとっては大恩人であり

庄内藩士の子孫の方々からは、いまでも「西郷先生」と呼ばれ、敬慕され続けています

庄内藩が、会津のような惨劇を免れたのは

ひとえに西郷さん御自らのご尽力とご配慮、武士道に則った謙虚なご姿勢の賜物であったのです

荘内南洲神社の、自称氏子たる私にとりましても、今回のRさんの詳細なお見立ては大変参考になりました

真事にありがとう御座います

折よく、荘内南洲神社の展示室にも、荘内藩士・石川静正翁が描かれた西郷さんの肖像画が額装でお目見えした処です

西郷さんに直接お目にかかって肖像画をものした画家は4人しかいないと云われています

郷土の先人・石川翁は、その中のお一人です

原画はキャンパス地に画かれた油性画(?)みたいな精巧なもので

現在、横浜にお住まいになる、石川翁のご子孫の方が所蔵されています

うちの南洲神社の肖像画は、精密な写真複製画です

最近出版された、加治将一『西郷の貌』

私も面白く読みましたが、その中にも石川翁の肖像画は紹介されていません(*取材で酒田に来られたのに、当時の小野寺理事長が見せ損ねたらしい)

おそらく、荘内藩士の一部しか見たことはなかったでしょう。

実に、深い色を湛えた巨きな眼差しと温かな慈顔

私も初見で、一氣に西郷さんの熱心なファンになった位です♪

[※ 現在、ネットで「西郷隆盛  石川静正」で検索するとご覧になれます]

公益財団法人「荘内南洲会」所蔵、精密写真複製画】

 

これ直かに見たら、正味吃驚しますよ!

いい男です、俳優の横内正(水戸黄門の初代格さん役)を優しくしたよーな、知性的で厚みのある雰囲気をお持ちです

Rさんのリーディングは、いつの頃の西郷さんなのか分かりませんが(黒豚がお好きで、上野の銅像の如く肥満でらした時期も確かにあるやに仄聞します)…

やはり、つねに鍛錬されておいでだったのだなと嬉しく思いました

文学者にしてもそーですが、牢屋暮らしを経験された方々は、「自由」に対する姿勢が違いますネ

精神の自由度が越格なのです

近世にあっても、謎のおおき西郷さん

ご自分の胸だけに納めて、たんたんと逝かれました

 

●  志を心中に立てる

[2014-04-20 21:52:55 | 玉の海]

西郷さんも云われていたのだが

>道に志す者は、偉業を貴ばぬものなり。

(*『南洲翁遺訓』第三十二章より)

つづけて西郷さんは、「独り慎む」とゆーことを司馬光を例にして挙げられている

>【慎独】

『大学』(伝六章)に、

「君子は必ず其の独りを慎む」とある。

独りで居って誰も見ていない時でも言行を慎み、

自らを欺かないようにする。

司馬温公は、『資治通鑑』を編んだ、中国北宋時代の儒学者・歴史家・大政治家であり、「至誠」の人としてよく知られていた

一番身近な、自分の密かな心中のことに最も気をつけた人である

誠であるとは、真言を口にして真事(神事)をおこなうことでもあろーか?

よい心指しを持つことは、なにも大事・偉業を成すことを目的とするものではなく

身の回りの、ささいな日常茶飯事にあっても

自分を、自分の良心(内在神)を欺かないことであろー

心中の海の一滴、細胞の素粒子・量子の一片から、体内菌の微細な一糸から、「立志」は起こり

その継続努力が【志に殉ずる】とゆーことである

このフレーズは、結果の良し悪しには触れていない

本質とは関係ないからである

そのよーにやり続けることこそが大事なのであり、その真事を称えた言葉なのである

 

●  “ Michael・ミカエル=スサノオ を継ぐ者 ”

[2014-09-23 01:46:55 | 玉の海]

今日、彼岸の中日の翌日は、西郷さんのご命日である

介錯を頼み自刃される前に、遥か皇居の方角へ向かい奉り、お別れの一拜をされたとは聞いているが

骨の髄まで南朝方の西郷さんが、それほどまでにお慕い申し上げた明治天皇は、お確かに西郷さんの遺志を継いでくださったように思う

つまり、道義にもとづいた日本国造りである

この御志は、たぶん継承されてはいるだろーと信じたかった

幾人かは思い当たる

が、決定的に西郷さんの後継者と呼べる人物は意識できずに来た

ところが最近になって

ゴーマニズム宣言” のよしりん(小林よしのり)が、

『大東亜論』なる分厚い漫画本を出版された

今では日本右翼の始祖として目されている、頭山満が主人公であった

(*「国士」ではあるが、実際は右翼のイメージとは程遠い)

ひきこまれる様に熟読してみると(よしりんの予習振りは凄い!)…

「あっ、このひとだったんだ」と腑に落ちた

頭山翁は、西南戦争に駆けつけられなかった侍、死にぞこなった士族である

捕縛され牢屋に入っていたからだ

さて、出獄してみると日本最後の内戦は終焉していた

彼は、しようことなしに鹿児島にある西郷さんのご自宅を訪ねる(翁は福岡在住)

そこで、西郷さんの書き込みのある愛読本『洗心洞剳記』(大塩平八郎著)を借り受け、長い時間をかけ拳々服膺することになる

頭山翁は、塾頭もなさったくらいだから、漢学はよく出来た

そして、それ以後その通りに一生を送られたのだろー

そう観ると、私なりに辻褄が合う

よしりんの本の帯にあったよーに、頭山満が西郷さんを継ぐ者であったのだ

立雲・頭山満が『南洲翁遺訓』について口述された書籍(雑賀鹿野・編集)は、私も感歎して既読していた

もはや絶版になったが、最近に『大西郷遺訓』として復刻版が成った

よしりんは、最近では国民的アイドル・AKBの評論で名高い

彼の出演された、AKB総選挙の感想戦なるTV番組を観ていて

忽然と【常若】を覚った♪

私らの世代は、彼のデビュー作『東大一直線』で、自らの受験戦争を笑い、励まされた恩が根底にある

彼の尽きることのない情熱には、純粋な「信」を懐いているのだ

いままた手強く、眼前に現れた彼の勇姿を芯から喜んでいる

            _________玉の海草

 


《玉断》 西郷さん随想〜 意外に武闘派の軍師

2022-04-12 19:11:09 | 西郷先生

__ つれづれに書き綴った、西郷さんへの思いを、今回足らざる処は加筆して、まとめてみることにした。

 

●  最高尊敬語としての「さん」付け

[2015-01-16 23:42:03 | 玉の海]

私も「神さん」と親しみをこめてお呼びしていますが

最初にこの云い方しているのを見たのは、出口の王仁さんの著作だったかと思います

あー、この呼び方でいいのネ♪と、にんまりしました

私は二十歳頃、大阪で3年間暮らしています

関西の方々の「さん」にこめる敬意は見聞きして知っていました

京都びとは、畏れ多くも「天ちゃん」とまで言われるとか

大阪びとも「太閤さん(はん)」や「聖徳太子はん」は言われますし

弘法大師は、全国的に「お大師さん」です

他にも「一休さん」「良寛さん」「西郷さん」は全国区ですネ

これ、「様」じゃなくて、敢えて「さん」を遣うところに妙味があるのです

いわば、安易に「棚上げ」して崇拝しないのだと思います

平伏して景仰することに、なにか嘘があるからじゃないか知らん

それは、自身の真心とはちょっと違ってたりするものだからです

多少、不敬のきらいはあるかも知れません

しかし、二十歳頃の私は「キリストは友だち」だと

キャプテン翼の「ボールは友だち」と同じレベルで感じておりました

神様は神さまであるのですが

「ご利益(りやく)」信仰を求めているわけではないので

ある種距離をおいて、

ある種対等感を抱いて(そんな心ある背伸びには神さまもご寛容なはずとの確信めいた信頼感)…

なおかつ、呼び捨てに出来るほど自分の力量がないことを重々承知しているので

気さくに「神さん」とお呼び申し上げているのです

「さん」付けの極めて特殊な事例であり、分類すれば「最高敬語」とゆーことになりましょー

なぜなら、情緒ゆたかな日本人が、「さま」とゆー尊敬表現がありながら、敢えて「さん」付けする歴史上の偉人や対象は

極めて異例だからです

それは、畏敬を超えて、限りない親しみや愛情を抱かざるを得ない処にまで至った真情・真心だと私は思います

「お天道さん」なんかは、いい例です

いたずらに、別格扱いや聖別するのも考えものです

たんたんと、好きであり信仰しているのならば

「神さん」でもゆるされるかなと自分なんかは思っています

 

西郷さんは、戊辰戦争で最後まで抵抗した幕府軍の雄・荘内(庄内)藩に対して 王道的な寛大な処置を以ってあたって下さった、われらが庄内の大恩人でもある

神儒仏()に通暁された素誠の御仁ゆえ、古しえの聖賢に倣い、語録や著作をものしていないが

唯一遺っているのが、庄内藩士が鹿児島まで訪ねて聞き書きしたものを編集した『南洲翁遺訓』である

*- 『隆盛』は戸籍登録時に誤って記されたもので本名ではないため、庄内では号・南洲をもって 敬慕してお呼びしている、因みに本名は「隆永」だと思われる(荘内藩中老・菅実秀へ、別れ際揮毫なされた書の署名が「隆永」となっている為)

 

●  西郷さんの漢詩感懐の一節に、

『幾たびか辛酸を歴()

志始めて堅し、

丈夫(ジョウフ)玉砕して

甎全(センゼン)を愧() *甎全-形の整った無傷の瓦のまったき様

 

● 明治人の土性骨

[2009-03-11 23:23:37 | 玉ノ海]

先達って、福岡のぉ医者さんと話す機会がありましてなんでも、玄洋社が近年、なくなったそーですネ

[※  「玄洋社記念館」は、平成205月末に閉館する。]

頭山満翁の知性については、表立って話題になりませんが、が漢学がよく出来たと聞きます

[※  高場乱(たかばおさむ)女史の「興志塾」で塾頭をつとめる程だった]

天意なのか、西南の役の砌りは牢獄に囚われてあり、出所後すぐに訪った西郷家には、既に主は亡く後を預かっていた川口雪蓬(書家)より、

西郷さん御愛蔵本、陽明学者・大塩中齋(平八郎)『洗心洞箚記』(せんしんどうさっき)を借り受けて去ったとか

あんまり返さないんで、のちに厳しく督促されてるのが可笑しいですけどネ

碩学・大塩中斎の本を参考書もなく、懐に入れて歩いて、深く読み込むのだから、相当に学のあった仁です。

はだか丸腰で、虎のいる檻に入る― 頭山満・中村天風両翁は、それが出来た御方です

天風が、カンチェンジュンガの聖者・カリアッパ師から伝授された秘伝の調息法「クンバハカ」に、異議を申し立て承認をうけた藤平光一(合気道)師や、同じく植芝盛平・中村天風両師の薫陶をうけた多田宏師などのお弟子さん方が、ポツポツ活躍し始めてるので、楽しみではあります

頭脳と指先ばかし発達させた、人間的に異常(奇形)なひとが増えている氣がします

基礎体力と胆力は、大事ですネ♪

 

●   「天下後世まで信仰悦服せらるゝものは、只是れ一箇の眞誠なり。

…()…

誠篤ければ、縦令當時知る人無くとも、後世必ず知己あるべし。」(西郷南洲翁)

知己を百年の後に待つは大丈夫のことじゃ。

一時は暗雲に閉ざされても、人の真心から為した仕事は必ず光明を放つ時が来るものじゃ。

近頃では、こんな血誠男子はまことに少なくなった。」(頭山立雲翁=頭山満)

 

●  > NHKの世論調査で、今でも西郷は鹿児島県人に人気が絶大に高く、年長者になるほど神格化されているほど。県民性の本では

「鹿児島県人に、西郷と黒豚の悪口を言ったら、生麦事件のイギリス人みたいな目にあう」

とまで書かれている。

>西郷菊次郎(京都市市長) 「今も忘れません。父の眼は全体に大きい方で、それがまた【黒眼勝ち】で、それこそ怖い眼でした。眼だけは確かに他人と異なってました。ですから父に接する人は、誰でも両手を畳についたきりで頭をあげて仰ぎ見得なかったようです。私がはじめて父に伴われて東京に参りました時、出迎えられた元老の誰彼も、矢張同様に頭をあげられませんでした」

>アーネスト・サトウ 「彼は巨大な【黒ダイヤモンド】のように光った眼を所有して居った。そしてたまたま口を開くと、何ともいえぬ愛嬌がこぼれ親しみがあった」

…… 「情の人」と慕われる西郷さんの、詞藻豊かに湛える、潤いのある つぶらな眼差しについては、

庄内藩士の画いた一幅の肖像画が、その風韻をよく今に伝えている

ネットで、西郷隆盛 石川静正で検索して頂き、是非広く皆さんからご覧になっていただきたいものだなと切に思う

 

●  皇道大本の王仁さんの対談記事(頭山満翁との)を引用します

[* 雑誌『キング』1935年(昭和10)5月号掲載、旧仮名遣いはそのまま ]

> 記者:先生の「偉いな」と御思ひのひとは。

出口(王仁さん):西郷南洲(西郷隆盛の雅号)だけ。その他は皆同じやうな人ですな。

記者:西郷さんのどんなところが‥‥

出口:何となく好きです。

あの城山で、自分が戦争に負けて切腹するといふ場合にありながら、

官軍の兵隊が自分達に勝ったのを見て、これで日本は安心だと言うた大きい心持。

記者:偉くなるといふことには『運』も関係して居りませうか。

出口: 運とは、運ぶといふこと。

結局自分の働きがないことには何にも出来ない。

 

‥‥ 王仁さん当時六十五歳のときの縦横無尽の対談

西郷さんを「南洲」とあえてお呼びするのは、「隆盛」は親父さんの名前を間違って戸籍登録してしまったものだからです

西郷家は、南朝の名門・菊池一族の御血筋で、本名は「隆永」とお聞きします

 

 

『人を相手にせず、天を相手にせよ。

天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。』-南洲翁遺訓・第25-

西郷さんです

すべての人に同じ態度で接し、すべてを自分の肚に納めて単純明快、謙虚すぎるほどの姿勢

 

●> 「西郷隆盛」

[2009-07-14 20:33:21 | 網麿]

まず網麿は歴史上の人物と認識してますので今回は敬称は略させて頂きます。確かに西郷隆盛は維新の功労者ですが、大悪党でもあると思っております。

例えば鳥羽伏見の戦の原因は、西郷が徳川家(この時点で大政奉還により幕府は消滅)を挑発して戦に持ち込もうと、三田の薩摩藩邸にいる腹心の益満休之助命じ、相楽総三が浪士たちを指揮実行に移した行為は、江戸市中で強盗など乱暴狼藉の限りを尽くしたことは紛れもない事実。

その為、業を煮やした市中取締役である庄内藩などが薩摩藩邸を焼き討ちの挙に出た。その卑劣な行為に大阪に集結してた徳川家家臣及び諸将は、薩長打つべしと慶喜を動かし鳥羽伏見の戦へと。これが無ければあたら多くの血を流さず穏便に明治維新を迎えられた筈。

また西郷は江戸から逃げ延びてきた相楽総三に再び命じ、いわゆる赤報隊により官軍に付けば年貢半額になると道々で布告させ、民衆を味方に付けることに成功したが、後から官軍首脳はやはり年貢半額は実現不能と判断し、赤報隊に対して偽官軍と決め付け、相楽も処刑。これら西郷たちのした行為は武士道にあるまじき行為だと思います。

 

(拙稿)>こんなにも本格的な批判を頂戴して、望外の喜びであります♪

あなたの仰る通りであるのみならず

江戸城を灰燼に帰するお覚悟で東征大総督(熾仁親王)の参謀長として臨んだ大西郷であったが、迎え撃つ勝陣営は江戸市中を火の海と化して抗戦する構えであったと聞く

ともに、無辜の民草の犠牲を厭わない処は、第六天魔王に劣らぬ大悪党である

西郷さんは、見かけによらず軍略・策謀に長けた一面がおありで、武闘派の顔もお持ちである

大義の為に手段を択ばぬ『非情』も体得されている― 自分の為に、また大義の為に死んだ仲間が沢山いらしたのだから、無理からぬ処であろー

そんな事ども一切合切含めて敬愛している次第である

鉄砲玉が三人いれば、組長に成れると云われているそーだがあの時代、西郷さんの為なら死んでもよいと本氣で念っていた漢たちは、一万人はくだるまい

悪鬼羅刹に一万もの眷属が従いてゆくものだろーか...

 

大霊覚者だと云う明治大帝のお目がねに叶った人傑は少ない

歿後、賊軍の首謀者たる汚名を被っていた時期ですら明天子は、彼の嫡男・菊次郎を御手元に置こーとまでされている

明治22年、憲法発布の砌り満を持して明治維新は西郷なくして成らなかったと賊名を取り除いたのみならず、正三位の叙勲までされている

 

網麿さんの観方には全面的に同意はするものの

真実は、人によって多様な現れを観せるもので、単純に一つなのでは決してないと思う

まさか、こんな事を綴る日が来よーとは思いも寄らなかった

重ねて御礼を申す

        _________玉の海草