今日は平成7年1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」から25年。
沖永良部島・奄美群島出身者をはじめ約6400余人の尊い命が犠牲になりました。
改めて犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、哀悼の意を表したいと思います。
そして、私なりに阪神・淡路大震災の当時を振り返ってみたいと思います。
【震災の2日前に沖永良部島で震度4の地震】
1月16日は、沖永良部島の「墓正月」(亡くなった人々の世界(後世・・ぐしょう)の正月)
我が家では前年に他界した父が迎える初めての「墓正月」であり、親類をお招きする為
1月15日は自宅内外の片づけやお膳・お椀を物置場から取り出し汚れを拭いたりと家族で
準備に追われていました。
丁度午後4時前後くらいだったでしょうか(時間はうろ覚え) ねじ巻き式柱時計調整のため
ミシン椅子を踏み台にして時計の針を調整していたら、足元がグラグラと大きく揺れた。
踏み台が動いたかと思いジーとしていたら強い揺れが長引いたので「地震だ!」と叫び庭に
飛び出しました。震度4の地震だったのです。
全国ニュースで知ったのか、神戸・西宮に住む兄弟姉妹から安否の電話があり、被害が
ないことを知り「明日の墓正月は宜しくお願いします」と安堵の会話で落ち着きました。
【泣きじゃくりながら地震を知らせに来る】
翌1月16日は「墓正月」家族・親戚で夜遅くまで父の生前を偲びながら酒を酌み交わした。
そして翌17日朝6時頃。家族が熟眠中の我が家に泣きじゃくりながら「神戸が全滅だ!
もう親せきは全員死んでる・・」と従姉妹が泣き叫んできたので慌ててテレビを見ると、
神戸市内のあちらこちらからで火の手が上がる映像が流れていた。
はじめは黒い煙で、実況アナウンサーも 「現在のところ死者数は確認されていない」と
中継していたが、時間がたつにつれ黒い煙が赤々と火事が延焼していく光景に
変わり身体がブルブル震えた。これは大きな死傷者が出そうだととても不安になりました。
(写真は無料画像使用)
すぐに神戸・西宮に住む兄弟姉妹に電話をするがつながらない。どうしよう・・・
翌日も翌々日も電話がつながらない。1日がイヤ1分が長く感じられた。
【職場では】
神戸・大阪には沖永良部島出身者が多数住んでおり、町役場でも対策本部を設置して
情報収集や避難受け入れ、児童生徒らの臨時転学受け入れなどの対応をとった。
島関係者の安否情報が次々と対策本部に入ってくる中、親族の名前がないことを
心配しつつ、自分の担当する仕事に専念し一時避難希望者等からの対応に
追われる毎日でした。
【公衆電話で連絡がとれた】
1週間たっても神戸の兄弟姉妹との連絡はとれず、地震の被害にあったものと
半ばあきらめていたが、ある人から青色公衆電話はつながりやすいとの情報を得て、急いで
青色公衆電話に走った。
義兄の自動車電話と電話がつながり 「みんな無事だ。余震が怖いので公園で車中生活を
している。家に入ることが出来ず電話で無時を伝えることも出来なかった。ほかの兄弟姉妹たちは
避難所などにいる」とのことで家族一同安堵したものでした。
震災から半年後に神戸に赴いたが、無残な姿が今でも忘れられない。
この地震がきっかけで、ひきこもりがちだった姉妹の子供が車中生活をしながら
ボランティア活動を始めた。ボランティア活動と言っても当時はまだ今の形の
ボランティアは形成されていなかった。
仲間たちと、毎日駅に行き 困っている方々の要望を聞いたり、避難所情報を
教えたり、炊き出しの手伝いなどから始めたと聞いています。
内向き志向だったその子が、震災後は、青少年活動の指導員となりボランティア
に没頭していった。
そのかいあってか、他人から感謝をされ頼れるようになり周囲からも信頼が厚くなった。
そして震災が収まり復興がはじまるとともに、好きだったミュージシャンのグッズ
販売の小さなお店を開店するほどまで心身ともに成長したのがとても頼もしく思えました。
そこには、周りとの協調・仲間意識・助け合いで知り合った多くの友人たちとの
かかわりで得た自信に加え、生き残った者として「人生は一度きりだから好きな事に
チャレンジしよう」との思いが人生を変えたような気がします。
【阪神大震災から 阪神・淡路大震災へと名称変更】
震災当初は、長田区を始め神戸市や伊丹市西宮市などの被害が大きく報道され
「阪神大震災」と命名されました。
毎日、テレビのニュースを見ているうちに、淡路島の活断層のズレ幅が大きく
被害も大きいことが後でわかり、名称を淡路島も含めた「阪神・淡路大震災」に
変更されました。
【防災とボランティアの日】ボランティア元年
国では、この大きな震災とボランティア活動をきっかけに
1月17日を「防災とボランティアの日」として制定しました。
我が町でも、防災とボランティアの日制定に基づき、1月17日は地元警察・消防署等と
合同で防災訓練など災害救助活動に関するイベントなども行っていました。
日本各地で災害があるたびに ボランティア活動に参加される方々が
増えており、会社や団体等でもボランティア休暇など、広くボランティア
活動を支援するようになってきました。
このボランティア活動も、阪神・淡路大震災で生き残った若者たちが
自然に動き出した小さな活動が、今のボランティア活動につながっていると
思います。 阪神・淡路大震災は ボランティア元年と呼ばれています。
地球気候変動で国内で災害が発生しています。
万一の災害に備えて、日頃から家族で防災に関する情報共有や、第一避難場所
第二避難場所等を決めておくと家族が離れ離れの場所で災害が発生した時に
探しやすくなると思います。
■本文は、私見での当時を回顧したものです。 内容に正確さを欠く部分も
あるかと思います。参考として閲覧をお願いします。
■また、被災者家族の中には当時を思い出したくないと、辛い気持ちで
画像をみられていらっしゃる方もいるかと思いますが、悲しい出来事を風化
させない為の投稿ですので ご理解をお願い申し上げます。
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