あれば私が40代初めの頃の出来事。
若くして亡くなった父の初めての墓正月を無事に終えて深夜就寝したのが
平成7年1月16日午後11時30分頃
まだお酒が残ってる翌日の早朝6時頃だった。薄暗い道を 隣の従兄弟嫁が泣き叫びながら 「神戸が全滅だ!親戚はみんなダメだよ〜!」と泣き叫びながら我が家のサッシ戸をドンドン叩く。
神戸がどんな状態かも説明せずに泣き叫ぶ従兄弟嫁。
テレビをつけてみると、何と魔界と思われる光景が映し出されアナウンサーが地震の様子を伝えてあるいる。
それでもまだ、死傷者情報は入っていない、、との報道と、火煙も僅かな状態。
悪い予感がした。
これまで地震が発生しない地区と呼ばれ、家造りも安価なモルタルの文化住宅が密集する地域が多い。
火の手が周辺に飛び火して 大火災に繋がり 情報が把握されるにつれ被害者の数が増えていくだろう、、と胸騒ぎがしてならない。
私の兄弟姉妹6人が、阪神電車線路沿いに住んでいる。
しかも、倒壊した高速道路高架のすぐ近くに、妹と弟が安く築年数も相当経過している文化住宅の2階に住んでおり(私も学生自宅に2ヶ月ほど住んでいた)
倒壊は直ぐに予想された。
◆ボーリング場近くのアパートに住んでました
これまでにも、毎年、この日のblogには
当時のことを投稿させているので、割愛したい。
今日は、大震災から1週間を緊急出版した
本を購入して保存してあるので、その写真を見て頂き、27年前の当時を振り返り、又、当時を知らない方々は、未曾有の震災
の様子を知って欲しい。
◆最初の地震の名称「兵庫県南部地震」
地震発生後に命名された、名前は
「兵庫県南部地震」だった。
しかし、被害原因等々が判明するごとに
広範囲への地震被害と、発生原因などが分かり、特に淡路島の被害も大きく、しかも
淡路島で見つかった断層亀裂が酷い事から
のちに」阪神淡路大震災」と名称が変更された。
尊い命が犠牲になった大地震、、
再興は難しいと考えられていたが
人間は強かった!
特に若者たちが率先して、ボランティア活動を始めたのである。
西宮の姉宅の近くの高速道路では、バスがこのような状態に(半年後現地を見たが道路はそのままでした)
つい2、3日前にテレビでこのバスの
運転をしていた方のインタビューが
あった。
運転手;ブレーキを踏んでも滑って止まらなかった
運転手;私はこの27年間 何をすれば良いのか問い続けてきたが、やはりお客様を安全に目的地に運ぶ この仕事でお客様に喜んで頂きたいのでバスの運転手を続けることにした。
ボランティア元年!
この阪神淡路大震災の若者達のボランティアがきっかけで、ボランティア活動が一気に日本に広まった。
国は、I月17日を「ボランティアデー」と名づけて、私達の町でも警察や消防署等と連携して ボランティアデーの救助活動や
応急処置の訓練なども実施してきました。
しかし、今では全国的にボランティアデーは忘れ去られているのでは?
沖永良部島からも、関西地区の沖洲会出席の為沢山の方々が、阪神地区を訪れていたが幸いに訪問団は無事だったようです。
今日は、神戸などで追悼の祈りが捧げられ
家族のご冥福を祈り 当時を偲んでいるようです。
どうぞ、犠牲になられた皆様方の安らかなるご冥福をお祈りいたします。
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