●色覚検査のトラウマ
昭和40年代後半とイコールだった柏崎市立比角小学校の6年間を思い出すと、恥ずかしながら勉強で何か身に付いたような覚えが全く無い。
年度末ギリが誕生日の私は、入学した当時は同じ学年の中で最も背丈が小さい方であり、意識もぼんやりとしていたようで、小学3年生くらいまでは授業時間であっても教室内で何が行われているか全く理解しておらず、時折実施される学力確認テストのようなものがあるとほぼ全教科とも100点満点のもので5,6点くらいしか取れず、母親や先生がえらく心配していたことを思い出す。一人で個別に絵柄が同じものを当てていくようなテストを受けさせられて母親のため息を聞いたのもおぼろげに覚えている。いわゆる知能テストにおいても心配をかけていたらしい。
愚鈍な私は、後から思えばませた同級生の女児らに、いじめほどではないが馬鹿にはされるなどしていたようだが、終始ぽやんと鈍感だったのでそんな事は気にならなかった。蘇らせるのがおぼつかない小学校中学年くらいまでの校内での勉強や生活の記憶なのだが、それでもただ一つ、3年生くらいになって初めて劣等感と呼べるような気持ちを抱いたことが鮮烈に思い出される。
それは、毎年定例の身体測定と並行して実施されていたとおもうのだが、保健室のような部屋の中に並んだ児童が順次一人ずつ白衣を着て椅子に座る大人の前に歩み出て、絵本のような冊子をめくりながら指で刺し示す絵柄が何に見えるかをと問うという場においてであった。
後からそれは「色覚検査」というものと知ったが、私の前に並んでいた級友たちの皆が繰り出される絵柄から読み取れる「数字」や「動物の姿」を次々と瞬時に淀みなく答えて行くので私も何の構えもせずに白衣の人の前に立ったのだが、目の前にカラフルなドット模様の絵柄が順次示されていくと、最初の1枚は数字として読めたのだが、それ以降は混在する色の点が規則性のないモザイクの様に集まっているとしか見えず、答えに窮してしまった。
国語や算数の問題ならば、答えが分からなければ解き明かし方や読み取り方を教えてもらい、答えの出し方を自分なりに覚えて終われるのだが、「色覚検査」は正解があるのに努力ではそこに至れない。仮に「これは○○が浮かび見える絵柄だよ」と言われても、そう見える方法が会得できないのだ。
白衣の人は一通り所定の絵柄を私に見せると、殆ど答えられない私にどうこう言うでもなく、淡々と検査記録をメモして次の子供と入れ替わるように私を促した。その刹那「しきじゃくだな」というつぶやきが聞こえた。どうして自分だけが答えられないのか混乱極まる私にはそれが「出来損ないの烙印」を押されように響いた。当時の私は生まれながらに級友の中で劣った存在なのだと思い込んでしまったのだ。
赤緑色弱というのが自動車免許を取るとか普通の暮らしの中では特段問題にならないということを正しく理解できる中学生くらいになるまでは、この”劣等感”は心にこびりついて消えず、時には自分を落ち込ませたり、時には奮い立たせたりもする要因にもなった。後者のように困難をクリアするのに上手く効いたときなどは、子供心に「人は面白い事だけでなく悔しさというのも何かをやる力の源泉になるのだなあ」と思ったものだ。
しかし、そんなネガティブな動機付けというのはどこか虚しさも感じるものだ。自分の子供たちの様子を見聞きすると、定例的な「色覚検査」はどうやら取り止められて久しいようだ。良い事だ。トラウマなど持たぬに越したことが無いと思う。
(「柏崎こども時代24「色覚検査のトラウマ」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代25「覚醒の日は来た(その1)」」に続きます。)
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
①「へたれ県職員の回顧録」の初回はこちら
②「空き家で地元振興」の初回はこちら
③「ほのぼの日記」の一覧はこちら
➃「つぶやき」のアーカイブスはこちら