●鈴木辰治ゼミへの留学生(その2)
学生の自主性を尊重するのか放置放任主義なのか…。我らのゼミの主宰である鈴木辰治教授からは、「ブラジルから留学生が来るからよろしく」との言い渡し以降は全く具体の指示などは無かった。留学生受け入れとなれば国際交流の事案でもあり、大学の事務職員などから何か伝達があるだろうとも考えていたが何一つ無い。昭和後期の国立大学の留学生受け入れなどというのは、それが一般的だったのかもし知れない。
私も日々のバイトやサークルなどの忙しさにかまけ、ともするとその話は白紙になったのかなどとぼんやりしていたら、鈴木辰治教授から久々に呼び出された。指定された学部棟の一画にある小さな会議室に伺うと、そこに教授と留学生が打合せをしていた。
「おおっ来たな。彼が私のゼミのリーダーだ」と教授は私を留学生に紹介してくれたので、とっさに挨拶をしようと留学生の顔を見たら、黒髪と丸顔はどう見てもアジア系の面立ちで、日本人と言っても不思議がない青年男性。なので最初の挨拶くらいは英語でやらないとマズいかと何故か勝手に考えていた私は躊躇してしまった。そんな奇妙な間合いで留学生の彼から「どうぞよろしく。お世話になります」と流ちょうな日本語が発せられたので、それにホッとしてしまった私は少し悔しい気持ちになったものだ。
この会議室はこの留学生用に一時的に研究室として確保されたものだと教授は説明すると「研究の上で何か所望があれば私かゼミ長に遠慮無く言ってくれ」と言い残して部屋を出て行ってしまった。この期に及んでも教授からは何の情報も得られないままなので、日本語でほぼ不自由なくコミュニケーションできる留学生の彼から、これまでの経緯などを教えてもらうことにした。
私よりも7歳ほど年上で、ブラジルで大学を卒業して有名な国家的企業グループにて既に就業している社会人であるとのこと。サンパウロの本社勤めのエリートのようで、1980年代半ばの当時、世界的に飛ぶ鳥を落とす勢いであった日本経済の実情を研究するべく、日本国内の関連企業に出向し、その上で更に日本の高等教育の調査のために短期留学したとのことだった。
日本に親族が生活していることもあって彼に白羽の矢が刺さり、その親族の地元である新潟大学が留学先として選定されたという。控えめに繰り出される話を聞けば聞くほど、ブラジルにおける彼のエリートぶりに心証を持てたので、来日と留学の趣旨を踏まえると、こんな田舎ののんびりして覇気の感じられない大学では申し訳なく思えるばかりだった。
私は率直に、日本経済のダイナミズムとかそれに通じる先駆的な大学を見聞するならば、東京でないと難しいよと伝えた。全ての富と知が集中する東京が国全体を牽引している実情を説明したのだ。
彼もさすがにエリートらしく、来日して暫く暮らす内にそんな日本の偏った状況は感じ取っていたようで、私の話に驚くでもなかった。それでも、いろいろな人の手を煩わせてセットした新潟大学の留学なので、キャンセルしないで少しでも面白いものにしようと考えているのだと言う。大人びた穏やかな口調なれども節々に垣間見える楽観さはやはりラテンのものなのか。前向きで紳士な感じに私は大いに安堵すると共に、是非ともそんな彼の役に立ちたいと思ったのだ。
(「新潟独り暮らし時代45「鈴木辰治ゼミへの留学生(その2)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代46「鈴木辰治ゼミへの留学生(その3)」」に続きます。)
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