●知る人ぞ知る"長善館"
学生時代に広告代理店営業のアルバイトで新潟県内全域をレンタカーで走り回ったり、農業政策や公共土木の関連部署に在職していた時に、大抵の地域には現場に足を運んでいたので、県内の観光施設や史料館などについては、観覧してはおらずとも在処を知っているというものも含めれば、ほぼ把握していると思っていたのだが、燕市の出向勤務て初めて知った施設があった。「長善館」というもので、江戸時代後期に千人以上を教育したとされる私塾がそれだ。
地方公務員法で人事評価が義務づけられて数年経つが、そのかなり前から、職員の勤務ぶりを査定するというよりも、人材の計画的で合理的な育成を主眼とする目標管理制度が多くの自治体で行われてきていた。新潟県においては人材育成型評価制度という名称となっていて、目標設定や進捗管理、達成状況評価のために職員一人ひとりが作成して上司の評価を受けるための書式を「チャレンジシート」などと称していたのだが、燕市ではそれが「長善シート」という名称で、出向赴任早々に部下から目標設定の報告のためにあたりまえのように私に提出されてくるそれを見て、「"長善"ってなんだ」と思ったのが最初の疑問だった。
市長は県職員のOBでもあり、とりわけ人材育成の担当職も経験されていた方なので、県で使用するシートと同様の名称にしているとばかり思っていたが、やはりそこはローカリティや地域のプライドを重要視する御方らしく、燕市の長善館が優秀な人材を教育して世に輩出してきたという歴史になぞらえて、職員の資質を高めたいという強い思いで、この名称にしたのだろうと推察できた。
長善館は燕市の粟生津という郊外の農村エリアにぽつんと小さくたたずんでおり、それ故に私も今まで気づけずに過ごしてきたのだが、それ単体はもとより関連する出張などもこれまでに無かったので業務の中で視察する機会に恵まれなかった。それでも、ネットで探ると「越後の松下村塾」とか「三餘堂と共に北越の私学の双璧」などと煽り文句が散見される。"松下村塾"はともかく"三餘堂"は全く知らないのだが、なんだか凄そうに思えてきた。そこで、休日の土曜に私的に単独で見学に行くこととした。
長善館史料館の駐車場はあまり大きくなく、なにかイベントでもなければ平素は来場者が数人程度なのだろうなということが窺える。建物に向けて歩くと、一面が二軒幅ほどの六角形の2階建てでグレー色のレトロな雰囲気の史料館が見えてきた。やはり小さな小さな史料館という印象だ。
受付の女性に入館料を払い、中を進んでいくと、こうした施設に多いガラス張りの展示ケースが地味に並んでいる。建物の規模や展示ぶりから見て目を見張るような功績とか派手に活躍した人物の輩出に及ぶ塾ではなかったのだろうなあと推察する。開設者で初代塾長の鈴木文臺(ぶんたい)先生は燕市住民なら知らない者は居ないほどだというし、京都大学で30年間も教鞭を執ったと知るとそのすごさは想像に難くないのたが、わたしのような軽薄な現代人にインパクトをもたらすような派手な経歴は見受けられない。ただ、越後の人的宝である良寛と親交があって中国の古典などを教えていたというのだから、全国的ネームバリューの大きい良寛との関連性の打ち出し等で、もっと誘客を強化する余地はあるのでは…と思った。どうしても仕事柄、市の観光振興政策などが頭に浮かぶ。
長善館が輩出した人材についても、大河ドラマにてきるほど強力な方は見られないのでるが、今の長岡市出身の長谷川泰という人は、現在の東京大学医学部であり当時の第一大学区医学校の校長となり、現在の日本医科大学となった済生学舎を創設し、勲章も得ているという。この人の生涯を深掘りすると、医療が注目されている折柄でもあり、注目されるドラマもできるのではないかと思った。
このように目立たずひっそりたたずむ小さな史料館でも、見聞きしていくと興味深い情報が得られるものだ。せっかく出来た燕市との縁だ。長善館から輩出した偉人など機会を見てもう少し探ってみたいと思いながら、土曜日の午前で私の他に来館者の無い静かな施設を後にした。
(「燕市企画財政課13「知る人ぞ知る"長善館"」編」終わり。県職員としては異例の職場となる燕市役所の企画財政課長への出向の回顧録「燕市企画財政課14「燕・弥彦地域定住自立圏共生ビジョン」編」に続きます。)
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