上海でのフィギアスケートグランプリシリーズの
羽生結弦選手のフリーの演技を見ていて、
多くの人が胸が痛くなるような感じがしたのではないだろうか。
棄権すべきだったと大半の人は判断するような
本番直前の大きなアクシデントであった。
彼は演技する事を熱望し、多くの転倒をしながらも
最後までオペラ座の怪人の演技を滑りきった。
点数が高すぎる事や、周りが止めなかった事など
いろいろと言われているが、
私はめったに見る事のできない
若い魂が純粋に燃焼してゆく瞬間に立ち会えた事を
ただ感謝したい。
神は確かにその人を選ぶかもしれないが、
其の祝福は勝利の中にのみ現れるのではなく、
羽生選手の昨日の演技のように
結末はどうあれ
何かに殉じて生きようとしている瞬間に
より多くもたらされるように感じる。
スケートの神様がいたとしたら
私は昨日の演技で捧げられた羽生結弦という青年の魂の燃焼を
神は大いに喜ばれたと私は思う。
道を極めようと、命を捧げ生きているその刹那の瞬間を
TVを通してではあるが、世界中の人々が目撃した事を思うと
同じ日本人として、羽生結弦という青年を持ちえた事を誇りに思う。
羽生結弦選手 ありがとう。
体を直して、また素晴らしい演技を見せてください。
*追記 スポーツ医学の常識では脳震盪を起こして24時間以内は安静にするのが
常識という事を記事で書ている方がいた。
大会専属ドクターが判断するような体制でもなかったのだろう。
冷静な大人の判断なら、間違いなく棄権すべきであっただろう。
が、羽生選手はそうしなかった。 この事で彼に後遺症が残ったとしても
それは彼自身が負うべき事である。
何事にも代償はある。
しかし若さゆえの魂の欲求や渇望はそんなリスクを消し去ってしまうほど
強烈なものである。
昨日私たちが目撃したのは、
若い魂が抗う事のできない魂の欲求によって
肉体的常識を精神で乗り越えようとする、
非合理で、矛盾に満ちた人間的な行為であった。
人は、本能で生きる時ではなく、
魂の叫びに殉じて生きるている時のほうが
より美しいと私は思う。
私も羽生選手の体調は心配だ。怪我が選手生命に影響しない事を願っている。
しかし、美や芸術とはそういう対価を捧げて初めて、
神の領域に入る事が許されるものではないだろうか。
あの氷上での刹那の瞬間に
言葉を超えたものを体験できたとしたら
それは演技者である羽生結弦選手当人しか味わえない
聖なる祝福のようなものであろう。
私たちはそれを目撃できる栄誉を預かったのだ。
その事に素直に私は感謝したい。