日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

命 と ほんの少しのお金

2020年04月11日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

最初にお断りしておくが、私はデンパ(伝波)者である。

スピリチュアルリストと自称するほどの者でもない。

バッタもん、またはフェイカーだと思っている。

私には霊感もなければ、チャネリングの経験もない。

親の影響もあり、宗教やら、精神世界、スピリチュアルと彷徨い

詐欺師を信じて恥ずかしい思いもしたが

この人は本物だと思える人に出会えた事で

少しでも本物に近づきたいと渇望している偽者でありたいと

今も思っている。

それ故、私の記事の根っこにあるものはそうした

劣等感から生まれたとも言え、

浮世離れした、厭世的ニヒリズムから離れる事ができない。

読まれる方は、その事を心の何処かに止めておいて頂いたい。

まあ、明るくはない話なので、気分を害されたくない方は

読まない事をおすすめする。

お暇な方はこの一人語りにお付き合い下さい。

 

 

十代の半ばから二十歳までは色々あって普通の学生生活を

送れなかったが、それ以後は同年代の中では早目に結婚し

すぐに子供にも恵まれた。

一番お金のない頃にバブルを迎えた為、バブル景気のおいしいところを

味わう間もなく失われた20年に突入し、会社員として過ごしていた。

 

中間管理職を世紀末からミレニアムをまたいでやっていて、

当時の社会的なプレッシャーは自殺者3万人という数字が表していた。

 

自殺者の年代は働き盛りが山のピークで、

自分の毎日の生活も

中央快速が武蔵小金井駅の人身事故で止まるのが日常になっていた。

ただでさえ、サービス残業で帰るのが遅く、中央線で人身事故に引っかかると

なんともやるせない気持ちになった。

 

自分も場合によっては、そちら(飛び込む)側になるかもと

心の何処かでいつも思って駅のホームで運行の再開を待つという夜を

数えきれないくらい過ごしてきた。

 

そしてそうした日々が積み重なり

私は40代中ばに安定した会社員としての生活を辞めた。

理由は、一言ではいえないが、

そちら(飛び込む)側の人間に自分もすでになっていると

思えるリアルな体験をしたのが、当時の会社を辞めた理由のひとつであった。

自殺統計

という昔の記事に

中年期に私も中間管理職で自身の能力の限界から

思考停止に陥り、駅のホームで電車に吸い込まれそうになった事もあった。

あの時の感覚は飛び込むのではなく、楽になりたくて吸い込まれそうになったというのが、

近い気がする。

と書いているが、

私は電車が通り過ぎたあと、ホームの淵に気がつくと四つん這いになっていた。

 

末っ子はまだ中学に入ったばかりだったが、当時の私は

会社に居ても家庭に居ても孤独で何処にも居場所がないように

思えた。

 

様々な事が、自分の両手からこぼれ落ちてゆき

それによって、家族や自分に関わりのある人たちが

不幸になってゆくように思えてならなかった。

 

家長としても職長としても、

自身の人生に希望がもてないという心の奥底の感情が

言葉にしなくとも、じわじわと滲み出るように

回りに伝わってしまっているのに気づいていた。

 

2年かけて妻を説得し私はなんとか会社を辞めた。

退職後の生活は思い通りにはゆかず

経済的に困窮するのに比例するように

当然夫婦間の軋轢は大きくなっていった。

 

チャップリンの言う人生に必要なもの

「勇気と、想像力と、ほんの少しのお金」

私はその時期にその「ほんの少しのお金」の大切さを

身に沁みて思い知った。

 

会社を辞めてから、確かに色々なものを失った。

元に戻らない事も多数あった。

自身の人生を失敗したのだと五十を過ぎて思い至る事は

中々の負け犬ぶりであったと今も思う。

 

だが、あの時会社を辞めていない選択肢だけは

無かったと、今も思う。

続けていたら、間違いなく今生きていなかっただろう。

 

妻や家族に負担をかけて、日々自転車操業という生活を

続けねばならなかったが、

子供たちが一人前になり独立するまで、どうにか暮らしてくる事が出来た。

そういう景色を生きて見れた事で、

あの時の決断は間違ってはいなかったと今も確信している。

 

多くの人の人生がほんの少しのお金がない為に

不幸になるのは世界中の当たり前の事だろう。

だが、お金のない事と命を絶つという事を

同列に語る事を、私は認める事はしない。

人は生きてさえいれば、必ず違う明日を向かえる可能性があるのだから。

人の幸せは、仕事だけでも家庭だけでも、まして商売や会社の存続だけ

で決まるわけではないのだから。

 

大切な人、近しい人が変わらず健康でそばにいてくれて、

ほんの少しのお金があれば、

きっと多くの人は顔を上げ

前を向いて生きていけると私は信じている。

 

人は自分に降りかかる不幸に対しては思っているほど弱くはない。

だが、家族や身近な人に降りかかる病や死に対しては無力を痛感するものだ。

そして、その不吉な事の原因に自分が関係していた場合、

消す事の出来ない傷を抱え、笑い方を忘れてしまうような日々を

生きてゆかなければならない。

 

 

愛する多くの人たちと

明るい未来を迎える為に、今何が自分にできるのか

今どう行動すべきなのか、一度胸に問うて欲しい。

 

頭で考えるのではなく、胸に手を当てて

ゆっくりと息を吐いて

近しい人たちの笑顔を思い浮かべるだけでいい

 

きっと、今なすべき事が静かに湧き上がってくる

 

自分を信じて、人間を信じて。

 

 

 

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