ダラダラと思い浮かぶままに長く書いてしまいました。
読み切るお暇と根気のある人はヒマツブシのつもりでお読みください。
蛭子能収さん(氏と書くべきだろうが親しみを込めてさんと書かせて頂く。)
が宗教について語っている掲示板コピペが
本当に蛭子さんらしくて私は自戒をこめてたまに読み返している。
『オレは新興宗教の誘いはきっぱり断っています。自由に生きるために、
あれ読めとか教会に行けとか、強制されるのが嫌だからです。
宗教は自分で判断できない人が頼るもの。自分の頭で考えられないなんて、
何が楽しいんでしょうかね。そもそもオレは宗教観がありませんし
何かにすがろうと思ったこともありません。
オレが信じているのは「1256のボックス」だけです。』
私は以前
『海辺のカフカ』 と 蛭子さん と 愛の枠外へ向かう魂へのモノローグ
*(この記事はグロい表現が多くテーマも殺人や虚無など重いものなので
読まれる方はその毒に耐性があると自信のある方のみお勧めします。
健全な人は読む必要のない記事です。)
の記事の中で蛭子さんを『海辺のカフカ』の登場人物ナカタさんにに例えて
蛭子さんお馴染みのバスの旅の番組を観て心が救われるというような事を書いた。
私にとって蛭子さんはまさに神や宗教に縛られない自由人の代表みたいな方で
自分に蛭子さんの半分もその現実的な合理性があったならと思う事がけっこうある。
私の家は新興宗教の家であったから、物心つく前から訳も分からず聖経を読んだり、
感謝の押し売りみたいな言葉の繰り返しを強要されたりと
子供としては生理的にというか本能的にというか
兎に角成長すればするほどもう無理と思えるほど非現実的な言葉の羅列を
ひたすら読むのは恥ずかしくて苦痛だった。
今になって思えば、父は神経質な人だったからその繊細さ、言い換えれば弱さを
克服する為に、新興宗教の門を叩いたのかもしれない。
時代は戦争の真っ只中にあり、男が弱い事は許されない時代であったから。
現実を生きてゆく事に迷った時に
自分では答えを出す事ができず、大事な判断を占いや宗教や超常的な何かに頼り、
自身の運命を託してしまう人は少なからずいるだろう。
私の場合はどうだったろうかと思い返す時
私も何かにすがろうとした事が少なからずあった。
それは自身が激痛に襲われている時であったり、
出産や手術など、自分ではない誰かの命が掛かっている時だったりだった。
確かに神社にお参りして合格祈願もしたりしたが
それは縋るというよりは気休めと言い換えた方がより近い気がする。
いずれにせよ、蛭子さんのように、何かにすがろうと思った事がないと
言い切れる心の強さは私は持ち合わせていない。
私たちに
「箸にも棒にも引っかからないものに引っかかる才能がある。」
と言ったのは*****の創始者だが、それは裏を返せば
現実的でなかったり常識的でない事にロマンを感じ
それにお金を出す人という事になる。
蛭子さんが信じるものが的中率の高い1256のボックス(競艇の舟券の買い方)なら
私が信じ買ってきたのは
神や奇跡などという科学や論理では説明できない存在や現象が
神話や聖書などの歴史の始まりから現在までその謎のベールが剥がされきっていない
ロマンという代物であった。
掲示板ではよく宗教やスピリチュアルを匂わせて高額な商品を売りるつける「霊感商法」を
「壺を売る」と言って揶揄するのが定番だが
wikiによると、元々この言葉の由来は統一教会が信者に高額で壺を買わせそれが問題になった時
共産党の新聞赤旗が「霊感商法」という呼称を使った事がはじまりらしいから
宗教やスピリチュアルな世界にいる人間が、
蛭子さんのよう宗教観がなく現実的合理性を持った人たちから
「壺売り」と似たり寄ったりと色眼鏡で見られるのはある意味仕方ない事だと思う。
「宗教は麻薬と同じ」と言ったのはマルクスだが、
宗教の名の元に数えきれない人が古代から現代まで殺されたり人生を破壊されたりしてきたのは
人類の汚点遺産があるならそのベスト3に入るくらいのものであろうから。
皮肉な事にその言葉を言ったマルクスの資本論が共産主義を生む土台となり
その共産主義国家が多くの人民という名の名もなき良き人々を
宗教と同じくらい殺していったのもまた人類汚点遺産のベスト3レベルであろうと思う。
話を元に戻そう。
また「壺を買う」という言葉は
スピリチュアルな事にお金を出す人の心理を端的に表していると思う。
科学的、論理的に考えて壺を買って幸せになれると思うのはどう考えてもおかしい。
しかしその壺が霊験あらたかで神の力が宿っているのなら
高額なお金と引き換えでも満足できるのが壺や石やお札を買う人たちなのだ。
現代科学の常識よりロマンの魅惑に勝てない人たちが壺を買うのだ。
私もその壺を買い続けてきたロマンチストの一人たが
しかし普通の世間一般の人々も額は違うだろうが当たり前のように
神社仏閣でお賽銭であったり祈禱料、お布施を払ったりしている。
つまりは神様仏様の超常的な力をお金で当たり前のように買っている
または買えると信じている事になる。
中には神様仏様は慈悲深いからお賽銭や献金はしないで祈るだけで
すましているという人もいるかもしれないが、
祈るという行為は時間を捧げるという時給というお金に換算できる。
日に五回も祈りを捧げるイスラム教徒のその時間をお金で換算したら
膨大なものになるだろう。
重要な事だからと拝殿に上がって高額な祈祷料を払い、
御利益という力をお金で買えると本気で思っているのか
ただの気休めと思っているのか、それとも風習だから何も考えないで
流されているのか。
とにかく科学的な根拠のないものにやはりお金を払っている。
それは壺を買う人たちと同じで安心料という形の違ったロマンを買っているのだと
私は思う。
それ故、ロマンを買う事に慣れている多数の人が壺商法に引っ掛かるのだ。
普段からご利益をお金で買っているのだから。
昔は貨幣経済も発達していなかったから供え物がお金の代わりであったが
今は供え物の代わりがお金という事になる。
ようは人間にとって価値の高いものを対価として捧げるという事だ。
旧約聖書なら、アブラハムは羊を犠牲に捧げよ言われれば羊を犠牲に捧げ
自分の長男イサクを犠牲に捧げよと神に言われれば息子を犠牲に捧げようとする。
聖書では神がイサクの犠牲を止めさせてアブラハムの固い信仰を認めるのだが、
神(超常なる力のありか)に対して願いや契約をする時に、
人間は祭祀をし対価となるものを捧げてきたのは長い歴史が語っている。
砂漠の三大宗教の場合神様が厳しいから、最高の対価は殉教という名の信者の命である。
その点日本の神社に祭られている神様はお優しいから
命を対価で差し出せというような事はない。切腹を命じた人間の殿様の方がよほど厳しい。
まあ昔は人柱があったという伝説はあるが、それも人間の側の一方的な思い込みであったろうし
また即身仏のミイラのような肉体行の果ての死を仏様が対価として求めるとは思えないし
(空海は後の世に自分をまねてミイラがたくさん出来る事まで想像していたとは思えない)
それは悟りたいとか仏に近づきたいという人間の欲の果てだと私は思う。
近代になり科学は物質文明によって神を遠ざけたように見えるが
やはり目に見えない存在、神または自然の摂理への畏敬の念は
人類から今だ消え去っていない。
人類の半分以上はまだ対価(祈り、祭祀、供え物、お金、命、壺)を支払っても
神やそれに似た存在との交流を願っていると私は思う。
では何故対価は必要であったのか
それは、神のお告げや預言を聞く事が出来たのが
極限られた生まれながらの資質のあるものだけだったからだ。
よく霊能者がTVで死者からの伝言を伝える番組があるが
その資質は生まれながらの体質によるところが大きい。
つまりは遺伝的な肉体的な特徴で背が高いとかまた
小柄の家系だとかという事の一つにそういう霊能的な交信に
波長が合いやすい肉体というのがあるという事だ。
確かに激しい肉体修行をしてそういう能力を得られた人はいるだろうが
多くは子供の頃からの能力であったり
家系がその様な家系である事が私が見聞きした中では大多数を占めている。
私のようなロマン派は昔はその様な人に憧れを持っていたが、
スピリチュアルな世界を長く彷徨った事で
四六時中その様な次元の違う(特に霊界)とのチャンネルが開かれているという事が
いかに危険であるかを知ったから、
今では私にその様な資質がなくて良かったと思えるようになった。
私のような壺買いがその様な資質を持っていたら、
新興宗教の教祖にでもなって
多くの人をオウム真理教のように不幸にした可能性が
かなりの確率で大きかったであろうから。
(私は麻原彰晃もオウム信者も笑えない。
私は麻原と結果として違う人生を歩んだが
似た志向を持って人生を生きたという点では同じだと思えるし
また私の人生の時系列がもっと違っていたらオウム信者になっていた
可能性は十分にあっただろう。)
私は何度かこれからは預言者が必要なくなると記事に書いてきた。
それは、*****の創始者がエネルギーの転換によって、
誰もが次元を超えて交流できるように
人類全体がなってゆくからだと言われ
その兆しをこの四半世紀の中に見てきたからだった。
今まではそういう肉体的な資質を生まれながらに持った極限られ者しか
次元を超えた交流が出来なかったから対価が必然的に生まれたのだ。
そういう預言を行うものたちは自覚無自覚を問わず命を削っている。
そして限られたものたちしか能力がないというのは神の権威と結びついてゆく。
*****の創始者は今後は年月を重ねる事に
人類全体が自由に次元を超えた交流が出来るようになってゆくと予言している。
人類全体がいつ頃にそうなるかはここでは書くことはよそう。
ただ、人類は対価を払わなくても
次元を超えた能力を獲得しえる未来に向かって文明を進めているのだと告げておこう。
最後にベテランの壺買いからの助言というかアドバイスを。
壺を買って結果が悪かったと言って後悔する程度の覚悟なら壺を買ってはならない。
骨董品を買う事を趣味している好々爺のスタンスが望ましい。
騙されたと分かってもそれを含めてもなお楽しかった言える余裕が必要。
そういうスタンスが保てないのなら、人生の大事な判断を
占いやスピリチュアルや宗教を名乗るものに任せてはいけない。
あくまでも人生は自己責任
現実の事は自分の頭で考えて判断するのが、人間の個としての存在意義であろうから。
そういう意味で蛭子さんに私は一票を入れる。
私は壺を買い続け人生を失敗したと五十を過ぎてようやく自己を振り返ったのだから。
古来は、神事、宗教は占いと結びついていたが、今は占いだけが独立して
それが霊感商法と結びついてしまっている。
ようは超常的な何かに現世利益を求める事が当たり前という
日本人的な神仏への関係というのは
西洋の天国への切符を自らの命を対価とするような
砂漠の三大宗教とは根本的に違うという事だ。
それらの事を踏まえ、趣味の範囲で壺を買うのは人生の視点を変えてくれる一助になるし
何よりそういう志向のある者にとって、蛭子さんの競艇のように
その面白さを捨てる事は中々出来ないものだ。
馬鹿は死ななきゃ治らないという。
でも馬鹿はただ死んでも治らないのだと
私はスピリチュアルな世界を彷徨う事で知った。
それは肉体とは別に意識というものが存在するという事によって起こりえる
牢獄なのだと。
私は死後の意識の存在を自分の人生の見聞から確信しているので、その為に
壺を買い続けてきた。
そして最後の壺を*****と決めて再レッスンを受けた。
何とも懲りない話ではある。
。