長い話。よろしかったらどうぞ
子供の時の親による宗教体験の強制は 愛を濁らせる。
しばらく記事を書かないでいると、いつの間にか
上記の記事が私のブログ中で一番読まれている記事に返り咲く。
直近の記事が一番になるのはせいぜい、記事を投稿した日とその翌日までで、
だいたい三日もすれば、上記の記事が一番に戻っている。
一時期何故そうなるのか、誰かがリンクでも貼ったのかと思ってたが
どうも違うようで、
毎日誰かが家族間での宗教の強制に悩み検索に出てくる私の記事のタイトルが気になって
訪れてくれているようだ。
それで、今回はデンパでスピリチュアル馬鹿を自称する者の
最近磨きが掛かったデンパぶりに、上の記事で訪れた方々が??
となっているかもと思い少し記事を書いてみようと思う。
上記の記事の内容と重なるが少しガマンしてもらいたい。
何度も書いてきたが、私の両親は新興宗教の信者であった。
特に父は出征前に一時期、渋谷にあったその宗教団体の学生寮に住み、
その神道系の教祖の講話を
身近で聞き、霊的な悟りによる人格の完成を目指したと、息子に言うほど
真面目な信仰者であった。
母は父の信仰を受け、当然その影響を受けていた。
もの心着く前からその教えに触れ、聖経の読誦などを
(感謝行・浄心行などを母に無理やりやらされた)して育った私は
小学生の頃から、神とか悟りとかいう抽象的で単純な答えのない概念を
考える癖が自然と身についてしまった。
だからと言って、親の信仰した宗教が好きになったかと言えば、正反対で
年齢を重ねるにつれ、浮かび上がる、
聖経に書いてある事と、親の口にする事、世間的な現実との違いに
当然疑問を感じ、思春期に入る頃には宗教の教えとは、完全に距離を置くようになっていった。
生きていて、
人が神に真剣に向きあわざるをえない時はどんな時だろうか。
私の場合はやはり、自分にしろ、他人にしろ、命が懸かっている時であった。
自分の手ではどうしようもできない事に直面した時、
愛する人、子供、親、もしくは自身の命が納得いかない形で失われようとする時
「神様 助けて下さい。」と思わず祈ってしまうのは
ごく普通の行動だと私は思う。
だが、逆の見方をすれば、自身の命ごいを除いて、
自身の命を捧げても良いと思える程の祈りは
愛する人々の命ぐらいしかない。
その他の事は、神という全の運命を握っている存在に祈る程の事ではなく
人間が自分自身で真剣に考えて行動すれば、結果はどうあれ納得でき、
未来に向かって前向きに生きてゆけるだろうと私は思う。
ただしこれには人間としての条件があり、健全な愛情交換によってその人が
人を信じ愛する事ができるという健全な精神が育っている事が条件になる。
多くの人がそう簡単に前向きに生きてゆく事が容易く出来ないのは
自分を信じる事も他人を信じる事にも確固たるものを育むのが
言葉で言うほど容易くないからだ。
ではどうすれば、人間は人を自分も他人も信じ愛する事を学ぶのだろうか。
『子供は大人の鏡』
子どもは、批判されて育つと 人を責めることを学ぶ
子どもは、憎しみの中で育つと 人と争うことを学ぶ
子どもは、恐怖の中で育つと オドオドした小心者になる
子どもは、憐れみを受けて育つと 自分を可哀想だと思うようになる
子どもは、馬鹿にされて育つと 自分を表現できなくなる
子どもは、嫉妬の中で育つと 人をねたむようになる
子どもは、ひけめを感じながら育つと 罪悪感を持つようになる
子どもは、辛抱強さを見て育つと 耐えることを学ぶ
子どもは、正直さと公平さを見て育つと 真実と正義を学ぶ
子どもは、励まされて育つと 自信を持つようになる
子どもは、ほめられて育つと 人に感謝するようになる
子どもは、存在を認められて育つと 自分が好きになる
子どもは、努力を認められて育つと 目標を持つようになる
子どもは、皆で分け合うのを見て育つと 人に分け与えるようになる
子どもは、静かな落ち着いた中で育つと 平和な心を持つようになる
子どもは、安心感を与えられて育つと 自分や人を信じるようになる
子どもは、親しみに満ちた雰囲気の中で育つと 生きることは楽しいことだと知る
子どもは、まわりから受け入れられて育つと 世界中が愛であふれていることを知る
ドロシー・ロー・ノルト 博士
この詩は子育てする新米パパママの間では昔から有名な詩で
私も新米とうさんの時読んで心のどこかで忘れないようにしようと思ったものだ。
実際子育てに携わった自分は子供が小さい頃はよく叱る父親で
子供の性格を見極めずに、誰に対しても同じように叱って
恐怖の中で育つとオドオドした小心者になるを実行していた
愚かな父親であった思う。
この18の優れた言葉の中で特に子供にとって重要なのは
子どもは、励まされて育つと 自信を持つようになる
子どもは、ほめられて育つと 人に感謝するようになる
子どもは、存在を認められて育つと 自分が好きになる
子どもは、安心感を与えられて育つと 自分や人を信じるようになる
子どもは、親しみに満ちた雰囲気の中で育つと 生きることは楽しいことだと知る
この5つの教えのように思う。
逆に考えれば、親はこの5つの言葉を守り
言葉と行動が一致するよう家庭で子供を育てる事ができれば
子供は人を信じ、他者を信じ、自分も他人も好きで
生きる事を楽しいと思える人間に育ってゆける可能性が大きいという事だ。
私の親は両親ともが、信仰宗教の教えに染まり
子供の私たちにはその啓示的な教えを刷り込んだ
しかし生活の面で言えば、母からは普段は厳しい、楽器のレッスンや勉強で
褒められたり励まされたりする事などない毎日であったし
父はそもそも遠い存在であった。
私はお世辞にも精神が健全に育まれ、強い精神力を
親の教育によって育まれたとはこれっぽっちも思っていない。
むしろ、人を愛する事を親から受け継ぐ事ができず
十代の半ばから長い時間をかけて自身の人生の中で自分で学んだと思っている。
子供の時の親による宗教体験の強制は 愛を濁らせる。
の記事の中ではその事を
多かれ少なかれ親との関係性に問題をかかえ
人を素直に信じ愛する事を受け継ぐ事が出来ない者は
いつの時代でも多いのではないだろうか。
そしてそれは、愛を疑うという作業をしながらも求めるという
泥臭く人間的な努力をしてゆく為の原因になっていると私は思う。
しかしそれは負担ではあるが、愛を知るという意味では地道な近道の一つだと思う。
と書いた。
ここで改めて言う事があるとするなら
多くの親は、私も含め
『子供は大人の鏡』にある魔法の言葉通りの子育ては中々できないという事だ。
そして付け加えるなら、その魔法の言葉の中にはなんら宗教的な要素など
必要のないという事実だ。
もう一度、私の体験的な結論を言おう。
親の宗教的価値観の強制的な刷り込みは子供の自由な思考的選択を奪い
何もしない事に比べて悪影響を与える。
そして、神や仏という抽象的な概念の愛情交流の伴わない刷り込みは
年齢を重ねた後にその概念の拒否に直結する。
親権の乱用よる子供の人権を無視した
信教の自由への冒涜をこれからの子供たちには、許してはいけないだろう。
神や仏、などという概念を扱うのは劇薬を扱うのと同じでみだりに
子供が扱って良いものではない。成熟した大人が命を懸けて探求して初めて
その真髄に近づく事が出来るかもしれない深淵だ。
それ故、それに一旦魅了されると、人生をいとも簡単に狂わせる可能性は誰にでも起こりえると
親は十二分に胆に銘じなければならない。
そのような事に想い至らない、または考えもしないで
宗教や神事に触れ、子供に押し付けるのは人間としての大きな罪を犯していると知るべきでだと
もう一度言っておく。
ちょっと前に、ボクサーの亀田兄弟のお兄ちゃんとお父さんの史郎さんが
TV番組の『しくじり先生』の最終回に出ていた。
私の家族はこの番組が好きで家族で深夜帯の頃から見ていた。
私はミーハーなので、『あしたのジョー』を子供の頃見て以来
ボクシングも見てきて、当然、亀田兄弟の中継も最初の頃から全ての顛末を見聞きしていて
良い印象を持った事は一度としてなかった。
特にあの史郎さんというお父さんの粗暴さや、強引さが嫌いであった。
しかし、あの番組を見て長男の亀田興毅君が心底、お父さんが好きで深い愛情で
結ばれている姿はその他の事全てがどうでも良いと思えるほど
「親子っていいなぁ」て思わせてくれるものであった。
それは、たぶん私や私のように親にきちんとした愛情の交流をしてもらえなかった
子供時代をすごした大人には一抹の寂しさを覚える感情のように思う。
私は今も宗教的な事やスピリチュアルな事を信じ生きてる
だが、子供時代の自身の経験から
自分の宗教的な価値観を子供に押し付ける事だけはしなかった。
それ故、子供たちは今も父親が熱中しているモノの正体を知らない。
(おからハンバーグは付き合いで食べさせられたけど。)
ある時、妻と深夜神について討論が発熱しているのを長男に見られた事があった。
その事を大人になって長男は、「夫婦で共通の話題であんなに議論できるのは羨ましい」
と言ってくれたから、悪影響は与えなかったのだろう。
「お父さんはいつも家にいなかったなぁ」
それは私の言葉ではなく、息子が大人ってなってから何気なく言った言葉だった。
馬車馬のように働いていた時期、子供が起きる前に家を出て
子供が寝てから帰る日々が、自分にもあった。
そしてそれは、自分の子供時代の父の姿でもあった。
親の愛情を貰えなかった事で妻に愚痴をこぼした時
「あなたの今している事は、お父さんと同じよ。」
と言われ、「そうなのか」と言う事しか出来なかった。
親と子、 人を愛すること。 人を信じること
そこに神様なんて必要ない。
目をみて話をしてあげよう。
いっしょに笑って
いっしょに泣く事ができれば それだけで十分。