日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

事前告知!  

2018年04月27日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

お知らせです。

一月中旬から二月初旬にかけて連載した

『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患とい経験 の最後の記事

『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  あとがき 『天上の青』


でお約束した*****の伏字を開示を

いまとところ5月1日以降のゴールウィーク中にする予定です。

この間四月中になんらかの報告をすると書いたので

お待ちになっている方が少しはいるかもと思いましたので。

 

それに伴って、このブログの方向性もまた変わってゆくかもしれません。

 

ネットの海にスポイトで情報を一滴落とす事を主旨として

ブログを書き続けてきました。

物事に天の理に合う、合わないという観点での

真贋があるとするなら、

私の今まで書いてきた事が天の理に合っていたとしら、

これから少しずつ広まってゆくでしょうし、そうでないとしたら

このままネットの海の底深くに溶けて消えてゆく運命にあるのだと思います。

 

天の理や天の法則などという事を声高に言う者のいかがわしさは

私もよく理解しているつもりです。

が、これから先人類が経験してゆくのはその、今まで実感出来なかった

天の理を人類が意識を合わせる事で実感として経験できる世界になってゆくという事なのです。

 

元々、このブログは若い世代に向けて書き始めたものです。

そして、その若い世代がソース(情報源)が信用できるデータのないものを信用しないのも

十分承知の上で、スピリチュアルな事に関しては、

自分が実際に経験した事を元に今までブログの文章を書いてきました。

今回自らの経験した病の事を本にして残そうと思いましたので

ブログの記事内では語らなかった事が知りたい方がいらっしゃれば、

本を読んで頂ければと思っています。

本はオンデマンド出版、アマゾンで販売の予定

(出版日が決定してから開示しようと決めていますので、

いまのところ何日開示すると確定できないのです。)

後、分不相応に値段が高いです。

なので、*****の伏字を開示しますから、

興味がある方はまずはその事を調べて頂き、

それに伴って私の今までのエネルギー転換の話のソース元の本も開示しますから、

私の本を買う前に、*****にご興味がある方はそちらの本を手に入れて一読する事をお勧めします。

昔の本なのでアマゾンでなら、早いもの勝ちで安く手に入る可能性が高いです。

ソース元の本は*****の創始者の著書で

超自然的な事が苦手な人はついてゆけない(途中で読む事を諦めるレベルの)

飛び切りスピリチュアルな内容な事は保証いたします。

 

ご興味のある方はもう少しだけお待ちください。

 

               

 

                         デンパで運命論者の  ブログ主

 

 

 

 

 

 

 

 

 



平成の次の世代は、『センチメンタリズム』や『可愛いは正義』などの感情や性別を超克した純粋に論理的な文明を目指してゆく。

2018年04月24日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

*****についての一連の作業が山を越えたので、

久しぶりに今話題の出来事を元に、デンパな視線なへんな文章を書いてみようと思う。

 

ここのところ毎日、マスコミの女性記者に対する、財務省の次官という立場の人が

行ったセクハラ行為について、TVや新聞は熱を込めて報道している。

私だけではないと思うが、政権が憎いのか権力が憎いのか

とにかく、そんな情熱をかけてまで報道する事なのかと

政治的な事から興味が遠のいた今の私でも呆れてしまう。

私は保守主義者だが、親米主義ではないので、

何でもかんでもアメリカべったり(特に安保問題)の今の安倍政権も

どちらかと言ったら、私の主義主張とは離れている政権だと思う。

だからと言って、セクハラという文化や歴史や、社会構造が生み出してきた

問題を、時の政権への攻撃材料に使うのは

権力の番人の品位を貶めるだけの行為だと思うのだが。

それは置いておく事にして、

 

職場での女性へのセクハラは

#Me Tooを発端とした今の世界的なトレンドであり

日本に限らず、女性に対する性的なハラスメントや差別は、

イスラム教徒のマララ・ユフスザイ氏を象徴とした

戦争を尺度とした男性優位の物質文明で生まれた女性差別が解消されてゆく事が

エネルギー転換により、これから構築されてゆく

秩序と平和を尺度とする精神文明へ向かう為には

避けて通れない問題の一つだという証明になるだろう。

 

女性の精神と肉体の自由を縛ったてきた、過去の宗教や文化が

物質文明が成熟した先進国の女性たちが立ち上がり、

女性に生まれたという事を理由に

制限または差別されてきた事実からの解放を求める事が

これから地球全体に広がってゆくのは

水が重力に従って広がってゆくのと同じくらい必然的な事だ。

 

この問題は先進国では、すでに女性の社会的な地位はある程度まではバランスがとられる形にはなってきているが

(アメリカではガラスの天井とヒラリー氏が言っていたが、レディーファーストを女性側が受け入れているうちは

対等なものとはならないだろうと余計な事を言っておこうと思う。)

かたや日本はあいかわらず、男性優位の社会構造は変わっていないだろう。

政治家、官僚、起業家、会社経営者、統計的にはいまだ圧倒的に男性優位というのが事実だろう。

ただ、現場の働き手という意味では女性の社会進出は確実に広がっているだろう。

 

女性も結婚しても当たり前に働き続ける時代がようやく到来した感じがする。

 

私は3Kと呼ばれた製造業で働いてきたが、ある時男女雇用機会均等法が出来

末端の管理職の立場でその運用方法とかのレクチャーを受けた最初の世代にあたる。

当時の職場に女性が正社員として入る事は考えられなかった。

(差別ではなく、日常的にスポーツ選手並みに筋肉量が必要で、一度に25キロの袋を二つ運ばなければ

 仕事をしたと認めてもらえない、体育会系の部活まんまの世界だったから。)

 

限られた時間で生産性を高める事を求められるのは、

日本中の会社と呼ばれる組織の中ではあたり前の事だろう。

男社会で、

大きな機械音が響く工場で野郎たちが大きな声を出して、筋肉全開で作業している中に

当時の最初の女性たちは、それなりに覚悟を持って職場に入ってきていた。

 

当時の女性社員たちは、今の社会的な基準を照らし合わせれば

パワハラもセクハラも日常的に受けてきたと言うだろう。

ただ、それはこの日本においてはもちろん世界中でも

歴史的に女性が体力的な不利益を被る文明の元に

生きざるおえなかった事実による事が大きいと私は思う。

だが、先進国、物質文明が成熟した社会になればなるほど、

肉体的、体力的な不利は無くなってゆき。

今では、機械を使って作業するのがあたり前となった現在では、女性だろうが男性だろうが

オペレーターとしてなら何も違いはない状態の職場が大半になってしまった。

確かに今だ男性の筋肉頼みのハードな仕事場はあるだろう。だが建築や土木などの現場も

機械化が進み、ユンボやローラーなど道路整備でも女性のオペレーターを見かける機会が増えた。

アニメのパトレイバーではないが、機械化された建設機器を女性オペレーターが繰るのは

当たり前の世界になるのはすぐ目の前だと言えるだろう。

 

物質文明が成熟し、家庭、職場環境、国家管理のインフラで

女性の体力的な不利益が解消された構造を持つ事が

これから精神文明を人類が築いてゆく上での最初の出発点になるだろう。

日本はもちろんその最初のランナーの一人になる。

 

だが、今世間を賑わしているセクハラの問題は

人間の性別を論理的に認識しなおす事が社会全体で進んでいかなければ

中々解消されないのは誰にでも推測できるだろう。

 

だが後二十年もすれば、女性の社会進出はもっと進み、

セクハラの意味が男性から女性へのというのが当たり前の今の概念が

逆に女性から男性へが大半になっていたとしても私は驚かない。

これから、エネルギー転換により女性の思考も感情よりもより論理的思考が

重視されるように自然となってゆく。

それは当然の結果として多くの女性の社会的地位を爆発的に向上させる。

またそれと同時にこのエネルギーの転換がもたらすのは母性社会への回帰であるから。

父性の力は今よりもっと弱まり、

必然的に男性は女性に従属的な社会を形成する事になってゆくだろう。

ただそれも性という概念を保持し続ける社会での事だ。

 

意識はある領域を超えると、性別は無くなる。

中性的な感覚を持って生まれてきている子供たちはすでにその事を

youtubeなどで宣言をしているが。

その事を中二病的な一時の熱病だと即断するのは私は違うと感じている。

たぶんかれらは、肉体的な束縛、(男性、女性ホルモンなどによる)に耐性があるように生まれてきた世代なのだと。

その世代古い死語で言えばニュータイプと呼べるかもしれない

新たな世代は、スタートレックに登場する論理的思考を重視し感情の発露を恥じとする

バルカン星人のような文明を築いてゆくように私は想像している。

つまり、以前書いたように私のような演歌や浪花節やセンチメンタルが大好きな意識構造の人間とは

まったく別次元の意識をもちこの三次元世界に生まれてきているのではと。

 

性にこだわって生きてゆく事は昭和世代はもちろん、

『可愛いは正義』が代名詞だった平成世代ももちろん生まれながら持っている感性だろう。

だが、平成がおわり次の元号に生まれてくる世代にとって

性別の持つ意味は、三次元世界を肉体を持って生きる事において

それほど大きな意味を持たないで生まれてくると私は予想する。

何故ならこれから人類の全体の意識が

エネルギーの流れの転換によって目指すのは

性別はもちろん、三次元的な概念や思いが消えてゆく

無と呼ばれるエネルギーのみの次元なのだから。

 

その性のシバリのない人類が目指す文明に『センチメンタリズム』や『可愛いは正義』は

最初から含まれていないであろうことは寂しくもあるが

きっとその寂しいという感性を、論理が凌駕してゆき、

想像こえた意識と精神の自由を

人類が謳歌する文明に到達すると予想して、

この夜のへんな話を終わりとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


宗教 強制  親子 信教の自由 

2018年04月17日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

長い話。よろしかったらどうぞ

 

子供の時の親による宗教体験の強制は 愛を濁らせる。 

 

しばらく記事を書かないでいると、いつの間にか

上記の記事が私のブログ中で一番読まれている記事に返り咲く。

直近の記事が一番になるのはせいぜい、記事を投稿した日とその翌日までで、

だいたい三日もすれば、上記の記事が一番に戻っている。

 

一時期何故そうなるのか、誰かがリンクでも貼ったのかと思ってたが

どうも違うようで、

毎日誰かが家族間での宗教の強制に悩み検索に出てくる私の記事のタイトルが気になって

訪れてくれているようだ。

それで、今回はデンパでスピリチュアル馬鹿を自称する者の

最近磨きが掛かったデンパぶりに、上の記事で訪れた方々が??

となっているかもと思い少し記事を書いてみようと思う。

 

上記の記事の内容と重なるが少しガマンしてもらいたい。

何度も書いてきたが、私の両親は新興宗教の信者であった。

特に父は出征前に一時期、渋谷にあったその宗教団体の学生寮に住み、

その神道系の教祖の講話を

身近で聞き、霊的な悟りによる人格の完成を目指したと、息子に言うほど

真面目な信仰者であった。

母は父の信仰を受け、当然その影響を受けていた。

 

もの心着く前からその教えに触れ、聖経の読誦などを

(感謝行・浄心行などを母に無理やりやらされた)して育った私は

小学生の頃から、神とか悟りとかいう抽象的で単純な答えのない概念を

考える癖が自然と身についてしまった。

だからと言って、親の信仰した宗教が好きになったかと言えば、正反対で

年齢を重ねるにつれ、浮かび上がる、

聖経に書いてある事と、親の口にする事、世間的な現実との違いに

当然疑問を感じ、思春期に入る頃には宗教の教えとは、完全に距離を置くようになっていった。

 

生きていて、

人が神に真剣に向きあわざるをえない時はどんな時だろうか。

私の場合はやはり、自分にしろ、他人にしろ、命が懸かっている時であった。

自分の手ではどうしようもできない事に直面した時、

愛する人、子供、親、もしくは自身の命が納得いかない形で失われようとする時

「神様 助けて下さい。」と思わず祈ってしまうのは

ごく普通の行動だと私は思う。

だが、逆の見方をすれば、自身の命ごいを除いて、

自身の命を捧げても良いと思える程の祈りは

愛する人々の命ぐらいしかない。

その他の事は、神という全の運命を握っている存在に祈る程の事ではなく

人間が自分自身で真剣に考えて行動すれば、結果はどうあれ納得でき、

未来に向かって前向きに生きてゆけるだろうと私は思う。

ただしこれには人間としての条件があり、健全な愛情交換によってその人が

人を信じ愛する事ができるという健全な精神が育っている事が条件になる。

 

多くの人がそう簡単に前向きに生きてゆく事が容易く出来ないのは

自分を信じる事も他人を信じる事にも確固たるものを育むのが

言葉で言うほど容易くないからだ。

ではどうすれば、人間は人を自分も他人も信じ愛する事を学ぶのだろうか。


『子供は大人の鏡』

子どもは、批判されて育つと 人を責めることを学ぶ

子どもは、憎しみの中で育つと 人と争うことを学ぶ

子どもは、恐怖の中で育つと オドオドした小心者になる

子どもは、憐れみを受けて育つと 自分を可哀想だと思うようになる

子どもは、馬鹿にされて育つと 自分を表現できなくなる

子どもは、嫉妬の中で育つと 人をねたむようになる

子どもは、ひけめを感じながら育つと 罪悪感を持つようになる

子どもは、辛抱強さを見て育つと 耐えることを学ぶ

子どもは、正直さと公平さを見て育つと 真実と正義を学ぶ

子どもは、励まされて育つと 自信を持つようになる

子どもは、ほめられて育つと 人に感謝するようになる

子どもは、存在を認められて育つと 自分が好きになる

子どもは、努力を認められて育つと 目標を持つようになる

子どもは、皆で分け合うのを見て育つと 人に分け与えるようになる

子どもは、静かな落ち着いた中で育つと 平和な心を持つようになる

子どもは、安心感を与えられて育つと 自分や人を信じるようになる

子どもは、親しみに満ちた雰囲気の中で育つと 生きることは楽しいことだと知る

子どもは、まわりから受け入れられて育つと 世界中が愛であふれていることを知る

                         ドロシー・ロー・ノルト 博士

この詩は子育てする新米パパママの間では昔から有名な詩で

私も新米とうさんの時読んで心のどこかで忘れないようにしようと思ったものだ。

実際子育てに携わった自分は子供が小さい頃はよく叱る父親で

子供の性格を見極めずに、誰に対しても同じように叱って

恐怖の中で育つとオドオドした小心者になるを実行していた

愚かな父親であった思う。

この18の優れた言葉の中で特に子供にとって重要なのは

 

子どもは、励まされて育つと 自信を持つようになる

子どもは、ほめられて育つと 人に感謝するようになる

子どもは、存在を認められて育つと 自分が好きになる

子どもは、安心感を与えられて育つと 自分や人を信じるようになる

子どもは、親しみに満ちた雰囲気の中で育つと 生きることは楽しいことだと知る


この5つの教えのように思う。

逆に考えれば、親はこの5つの言葉を守り

言葉と行動が一致するよう家庭で子供を育てる事ができれば

子供は人を信じ、他者を信じ、自分も他人も好きで

生きる事を楽しいと思える人間に育ってゆける可能性が大きいという事だ。

 

私の親は両親ともが、信仰宗教の教えに染まり

子供の私たちにはその啓示的な教えを刷り込んだ

しかし生活の面で言えば、母からは普段は厳しい、楽器のレッスンや勉強で

褒められたり励まされたりする事などない毎日であったし

父はそもそも遠い存在であった。

 

私はお世辞にも精神が健全に育まれ、強い精神力を

親の教育によって育まれたとはこれっぽっちも思っていない。

むしろ、人を愛する事を親から受け継ぐ事ができず

十代の半ばから長い時間をかけて自身の人生の中で自分で学んだと思っている。

子供の時の親による宗教体験の強制は 愛を濁らせる。 

の記事の中ではその事を

多かれ少なかれ親との関係性に問題をかかえ

人を素直に信じ愛する事を受け継ぐ事が出来ない者は

いつの時代でも多いのではないだろうか。

そしてそれは、愛を疑うという作業をしながらも求めるという

泥臭く人間的な努力をしてゆく為の原因になっていると私は思う。

しかしそれは負担ではあるが、愛を知るという意味では地道な近道の一つだと思う。

と書いた。

ここで改めて言う事があるとするなら

多くの親は、私も含め

『子供は大人の鏡』にある魔法の言葉通りの子育ては中々できないという事だ。

そして付け加えるなら、その魔法の言葉の中にはなんら宗教的な要素など

必要のないという事実だ。

 

もう一度、私の体験的な結論を言おう。

親の宗教的価値観の強制的な刷り込みは子供の自由な思考的選択を奪い

何もしない事に比べて悪影響を与える。

そして、神や仏という抽象的な概念の愛情交流の伴わない刷り込みは

年齢を重ねた後にその概念の拒否に直結する。

 

親権の乱用よる子供の人権を無視した

信教の自由への冒涜をこれからの子供たちには、許してはいけないだろう。

神や仏、などという概念を扱うのは劇薬を扱うのと同じでみだりに

子供が扱って良いものではない。成熟した大人が命を懸けて探求して初めて

その真髄に近づく事が出来るかもしれない深淵だ。

それ故、それに一旦魅了されると、人生をいとも簡単に狂わせる可能性は誰にでも起こりえると

親は十二分に胆に銘じなければならない。

そのような事に想い至らない、または考えもしないで

宗教や神事に触れ、子供に押し付けるのは人間としての大きな罪を犯していると知るべきでだと

もう一度言っておく。

 

ちょっと前に、ボクサーの亀田兄弟のお兄ちゃんとお父さんの史郎さんが

TV番組の『しくじり先生』の最終回に出ていた。

私の家族はこの番組が好きで家族で深夜帯の頃から見ていた。

私はミーハーなので、『あしたのジョー』を子供の頃見て以来

ボクシングも見てきて、当然、亀田兄弟の中継も最初の頃から全ての顛末を見聞きしていて

良い印象を持った事は一度としてなかった。

特にあの史郎さんというお父さんの粗暴さや、強引さが嫌いであった。

しかし、あの番組を見て長男の亀田興毅君が心底、お父さんが好きで深い愛情で

結ばれている姿はその他の事全てがどうでも良いと思えるほど

「親子っていいなぁ」て思わせてくれるものであった。

 

それは、たぶん私や私のように親にきちんとした愛情の交流をしてもらえなかった

子供時代をすごした大人には一抹の寂しさを覚える感情のように思う。

 

私は今も宗教的な事やスピリチュアルな事を信じ生きてる

だが、子供時代の自身の経験から

自分の宗教的な価値観を子供に押し付ける事だけはしなかった。

それ故、子供たちは今も父親が熱中しているモノの正体を知らない。

(おからハンバーグは付き合いで食べさせられたけど。)

ある時、妻と深夜神について討論が発熱しているのを長男に見られた事があった。

その事を大人になって長男は、「夫婦で共通の話題であんなに議論できるのは羨ましい」

と言ってくれたから、悪影響は与えなかったのだろう。

 

「お父さんはいつも家にいなかったなぁ」

それは私の言葉ではなく、息子が大人ってなってから何気なく言った言葉だった。

 

馬車馬のように働いていた時期、子供が起きる前に家を出て

子供が寝てから帰る日々が、自分にもあった。

そしてそれは、自分の子供時代の父の姿でもあった。

親の愛情を貰えなかった事で妻に愚痴をこぼした時

「あなたの今している事は、お父さんと同じよ。」

と言われ、「そうなのか」と言う事しか出来なかった。

 

親と子、 人を愛すること。 人を信じること

そこに神様なんて必要ない。

目をみて話をしてあげよう。

いっしょに笑って

いっしょに泣く事ができれば それだけで十分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 


Bad Apple!!   白と黒の影の転換に陰中の陽の発動を観る。

2018年04月07日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

ここでのBad  Apple !! は  

ニコ動の東方幻想郷の原曲Bad Apple!!の二次または三次創作に当たる

影絵による有名な映像作品を指している。

(youtubeにもあるのでBad Apple ‼ 影絵で検索すればすぐに見つかる)

 

以下にリンクを貼ってみました。音量に注意!!

 【東方】Bad Apple!! PV【影絵】

 

私は最近、エネルギーの転換がもたらす社会的な影響がどうなるのかを

考えて続けていて

ふと先だって思いだして、ニコ動のBad Apple !! の映像の中にタオ(太極図)が

入っていたような気がして確かめて見た。

すると映像の最後の方に太極図が現れ回転した。

 それを見ていて、改めて

この世界が物質文明の陰が満ち、陰中の陽を起点として

陽の世界に転換したのだと実感した。

 

今世界は私の解釈ではあの回転しているタオの世界で

白い勾玉のしっぽの部分から

陽中の陰のある頭に

急激に拡大し向かいはじめた段階にあると思っている。

 

Bad  Apple !! の

幻惑的で陰陽が目まぐるしく入れ替わる映像が

実は我々を取りまく三次元の変貌を象徴しているように思えてならない。

 

では私たちの世界は影絵であらわされている人型のシルエットが

黒なのか、白なのかどちらに転換したのだろう。

 

私は白を陽 黒を陰としたならば

人型のシルエットが白で回りの空間が黒の世界に転換したのだと思っている。

 

前述のタオの説明と矛盾しているようにも思えるかもしえないが、

これは人間に焦点を当てての考察だと思ってもらいたい。

宇宙全体に起きている事が、我々にも起きているという視点で観ると

 

陰の世界は感情が強くなる世界だ。そして陽は論理ロジックが強くなる世界を表している。

 

今は陰陽が逆転したばかりで感情の嵐いわゆる『ラルロの嵐』が吹き荒れている時代のまっただ中にある。

それは、最初は感情と感情、やがて感情と論理への衝突に発展し

最終的には論理的な思考による人類全体の意識の変容によって世界に平和がもたらされる。

 

勘違いして欲しくないのは

私は感情を悪玉に見たている訳ではなく

エネルギーの転換が具体的にどう表れ人類に影響を及ぼすかを

考察しいるに過ぎない。

 

今の私たちは白抜きの影の体を持っているとする。

そこに大きな感情(憎しみ、嫉妬、などの内側に向かう感情)が

黒い輪郭を持たない靄として生まれたとする。

 

健康な精神の持ち主ならそれを味わった後、体外(黒い回りの空間)に放出し

手放してゆく事で精神と肉体の健康を維持できるが

そうでない人間はその感情は物質化し輪郭を持った黒い明確な影として固着し

やがては精神にひずみをもたらしたり、病の原因になってゆく。

 

私が繰り返し、感情を味わっ後に手放す事に慣れてゆくように言っているのは

こういう理由からだ。

 

エネルギーの転換により我々の肉体は黒から白に転換した為、

前は同質で保持し溜め込みやすかった感情エネルギーは

常に外に出ようとして、手放さなければ今までよりも

早い速度で物質化し精神や肉体に影響を与えるようになってゆくだろう。

 

物質化しやすい感情エネルギーは

肉体への影響が陰の肉体を持っていた時よりも

より早く大きくなってゆくと思われる。

 

Bad  Apple !! の あの幻惑的な映像に衝撃を受けた時はこんな事は思わなかった。

わたしのデンパぶりもいよいよ筋金入りになったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


肉は血の匂いを味わう。  という思い出。

2018年04月04日 | 日記

今となっては思い出として笑える話を一つ。

昼ごはん前の人は読まない方が良いかも。

 

私は一時インドのある聖者に傾倒して、肉を断った時期があった。

三十代後半の話でまだ、子供たちも小学生であった。

妻は育ち盛りの子供たちと私の献立で頭を悩ませ

色々工夫して食事を作ってくれた。

 

ハンバーグはおからのハンバーグだし

唐揚げは大豆たんぱくであった。

家のミートソース・スパゲッティはトマトとおからで出来ていた。

スープは野菜と豆と言った具合に

凝り性の妻はインド料理を勉強して私や子供たちが飽きないように多くのスパイスを使った

料理を食卓に並べてくれた。

 

私は朝の早い製造業の肉体労働者であったから

当然パワーが出る肉の食事が好きであった。

が、勝手なもので自分が心底肉が好きだと思ったのは、

肉を断って、しばらくして牛丼屋の前であの抵抗出来ない匂いを嗅いだ時であった。

その頃は、肉への渇望のせいで匂いに敏感に反応していた。

 

しばらく牛丼屋の前で匂いを嗅ぎ続けていると

その匂いのコアな部分は、子供の頃鼻血を出した時に口いっぱいに広がった

血の匂いと同じだと感じた。

 

「肉を食べるという事は、血を食べるという事なんだなぁ」

と歩道に立ち止まってお腹が鳴るの聞いて

自分がライオンと同じ肉食獣なんだと自覚した。

 

トランプ大統領が日本に来た時、

安倍首相がおもてなしで、ハンバーガーを出して

その肉をトランプが超ウエルダンに焼いてもらっていたのを

肉好きから批判されていたが、

確かに、ガチガチに焼きこんでしまったら

肉の風味と味の核心と思える血の匂いは飛んでしまうように思う。

そういう意味で、

外国人が和牛をレアで回りだけ焼いて、中は赤い血の色が消えない程度のものを

好んで食べるのは

日本人がトロを食べる感覚の肉ヴァージョンと言えるかもしれない。

 

ある時、義父が孫たちを連れて、ファミレスに行った事があった。

そこで子供たちは、ハンバーグを注文し

「こんなに美味しい、ハンバーグははじめて食べた。」と正直に言い放ち

義父に「普段何を食べさせているんだ。」と言われたと、

妻は苦笑いしながら話した。

 

肉を断っていた数年、

自分が肉食動物で血に飢えた生き物だという事を思い知らされた。

それはそれで、今になって思えば家族に迷惑をかけたが

良い経験であったと思う。

 

昨日、ホリエモンさんが、ヴィーガン(完全菜食主義者)

にケンカを売っているような記事をネットで見かけた。

 

私も当時は最終的にはヴィーガンを目指そうとしていたが、

自分の肉への渇望の強さから、とてもではないが無理だと感じていた。

 

『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験の記事の中で

ブレサリアン(呼吸しかしない、不食者)に言及したが、

私は、日本の代表的な不食者の秋山佳胤氏の本を読んで、

実際に不食という事を行える人の意識はこのようなモノなのかと思えた。

不食という事を信じるか、信じないかは各自の人生観によるので、

私は氏が正直に本音で不食とその意識における変容を語っていると思えたのだった。

 

断食も幾度となく経験している私にしてみれば、

(この前の病の時も、尿と水だけで7日間過ごした)

ブレサリアンが羨ましくないと言えばウソになるが、

今は肉を食べる事も魚を食べる事も野菜を食べる事も好きなので

バランスの良い食事に注意して、これからも食事を作る事も食べる事も

両方楽しんでいけたらと思っている。

 

南の島の人たちが豚肉をたくさん食べて、黒砂糖もたくさんとって

百歳超えても畑仕事を元気にしている事実から

別に、ヴィーガンだから健康に良いとは言い切れないだろう。

 

食というのは文化であり、人生に直結する個人の自由だろうから

好きなモノ、食べられるモノに感謝を忘れずに食べれば

それで良いのではないだろうか。

まあ、食べすぎて絶滅してしまうようなのは、

人間の罪として歴史に刻まれるから、そのへん智慧を出して

養殖や、天然資源を守る努力は必要だろうけど。

 

 

 

追伸、 お待たせしている例の******の件ですが

四月中にはなんらかの報告ができる目途がたちましたので

とりあえずお知らせまで

待っている人がいるかはわかりませんが、

ちゃんとした私なりの開示はしますので、偽モノのプライドにかけて。

 

                     デンパ なブログ主