毒だらけのただのデンパ記事です。
この記事も政治、時事ネタではありません。
全くのジャンル違いですから、その方面の方はスルーしてください。
また生理的にグロかったり非常に個人的で不快な表現があると思いますので、
そういうのが苦手な方も決して読まないでください。
死や殺人にまつわる話なので、
気の弱い方、流血表現が駄目な方も絶対に読んではいけません。
この文章は毒ですから。毒と知った上でも読む事が出来る方のみお読みください。
ご承知おきください。
私はずっと村上春樹氏の小説を読んでいなかった。
正確には『羊をめぐる冒険』を読んで以来、氏の作品が生理的に合わず
もっと正確に言うなら嫌いになったので
以来ずっと氏の作品はどんな話題作も遠巻きにして読んだ事もなかった。
しかし去年ある事件をきっかけに『海辺のカフカ』を読んだ。
その切っ掛けは長崎の同級生殺害事件だ。
私は事件の直近に
のタイトルで事件に関して記事を書いている。
私は昔からどうしても「死」という事象に引き寄せられてしまう。
その為にこのブログでも死者への呼びかけや
自殺を思い浮かべている人たちへ
生や死について今一度考えるように促すような記事が自然と多くなってしまった。
それは過去の記事に書いた事があるが、
もしかしたら結果として自殺として扱われたような事象を自身が経験したせいもあるし
毎年年間3万人も自殺者が出ていた真っ只中に、
中間管理職をしていて、部下がうつ病で自殺の危険があるようなケースが
身近にあったせいでもあった。
また10代の頃に突然受験仲間に自殺をされるという事もあり
近くでは働き盛りの兄を癌で亡くしている。
それ故に人の死を考えない事が
人生上あまりなかったせいからかもしれない。
死への考察と、殺人への考察は根本的に違うものだ。
しかし、どうしてもその結果である『死』に対して
殺した者と生と、殺された者の死について
思いを馳せる事をやめる事ができない自分がいる。
そういう意味で私は『死』という事象に長い間とり憑かれている
異常者の一人なのだと思う。
『午後の曳航』の記事に書いたとうり、中学2年の時に
私は自身の中に蠢いている心の闇を見つけ恐れるともに歓喜した。
それは理性では制御できない、
強烈なホルモンに晒されて脳がしびれるような感覚のようだった。
長崎の事件の加害少女の部屋の冷蔵庫から
猫の切断した頭部が証拠資料として押収されている。
私はそれをネットの記事で初めて読んだ同じ掲示板で
村上春樹氏の小説『海辺のカフカ』に猫の頭部収集家が登場するのを知った。
そして、加害少女の動機の手がかりを掴めるかもしれないという不順な動機で
『海辺のカフカ』を読んだのだった。
読んだ結果として、『海辺のカフカ』に登場する猫の頭部召集家と
加害少女は私の中では直接は結びつかなかった。
彼の行為と彼女の行為は行為は似ていても動機がまるで違うと感じた。
私にとっては加害少女の動機の闇のほうが遥かに深く
救いようの無いものに感じた。
村上春樹氏の小説からは、血の臭いをあまり感じられなかったが、
彼女が犯した凄惨なマンションでの事件の記事は
読むだけで部屋中に立ち込めた血の臭いがし
その臭いに全身で包まれながら歓喜に浸っている
彼女が見えるようだった。
それは残念ながら、私がかつて経験した歓喜に似ているように思え
胃の奥から苦いものがこみ上げて口に広がるのを感じた。
それは幼少時鼻血が止まらない体質であった私が
溢れる血を何度も飲んだあげく
我慢できなくなって吐いた時に感じた
口いっぱいに広がった死を連想させる臭いだった。
何故こんな醜い文章を書いているのかと言えば
それは自己確認にほかならないと思う。
私は恋愛もし結婚もし子供を持ち、無事育て終えたと言える歳になった。
しかし何歳になっても
胸の最深部にある血の臭いのするような闇をどうしても忘れる事も
消し去る事もできなかった。
今も闇を覗く誘惑を抑える事が出来ない自分がいる。
それ故、『海辺のカフカ』を読んだのだ。
しかし『海辺のカフカ』は読む前に想像したものとは全く別の何かを
私に残してくれた。
それはナカタさんとして登場する人物のなんともいえない味わいだった。
そして闇として蠢く猫の頭部収集家との対比に
不思議な救いを与えてくれた。
私の脳内ではナカタさんは蛭子能収さんで再生され、
蠢く闇を異次元に葬りさってくれた
たのもしいお地蔵さんのようであった。
私は兄の余命が後幾ばくかになった時に
藁にも縋る思いで信頼していた超能力者に奇蹟は起きないか尋ねにいった。
結果はもちろんNOであった。
その超能力者は私に
「この人の生まれてきたテーマのひとつは愛の拒絶だ。」と言った。
私と正反対で交友関係が物凄くひろかった兄が
病を境に家族以外誰とも会わなくなっていた。
幼馴染から、高校、大学、社会に出た後もそれぞれに
たくさんの親友や友達を持っていた兄が、
尋ねてくる誰とも決して会おうとしなかった。
唯一の例外は兄弟の私であった。
死後、
私の知らなかったを兄を、残された記録から知らされた。
兄は結局死ぬまで自身の奥底の気持ちを自分以外の誰かに
打ち明けるような事はなかったのだった。
兄の死は愛を拒絶しているようだった。
「この世界は素晴らしい。!」
と心の底から誰しもが叫びたい思ってうまれてくる事を
私はまだ信じたい。
だが、愛の拒絶や愛の枠外を生きるようとする事を
目的として生まれて来る魂が存在する事も私は否定できない。
愛と命の源である極点から対極まではなれようとする魂の存在は
白金の光から漆黒の虚無の間を生きる事を確認する為の
究極の道標の一つとして
この3次元世界が終わるまで存在し続けるように私は思う。
彼らの存在は無くならない。
私の中にも漆黒の虚無は今だ存在している。
でもそれでもいいと思える。
私はナカタさんの姿を蛭子さんに重ねながら、
ローカルバスの停留所にむかって泣き言をいいながらも走っている姿に
救われている自分を感じている。
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海辺のカフカ (上) (新潮文庫) |
村上春樹 著 | |
新潮社 |