日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

サクリファイス   (犠牲)

2014年07月29日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

 

この記事もまた、私見を述べているにすぎません。

不快に思える記述があるやもしれません。

タイトルから感じとって

波長があいそうもない方はここでご退出を願います。

 

 

人は人生を選んで生まれてくると、

いわゆるスピリチュアルな世界ではよく言われている。

私自身は運命論者である。

 

人生には大きな波があり、それに逆らってもうまくゆかないし、

そういう時は流れにまかせるしかないと思って生きてきた。

 

この世界には殺される運命というのがあるのだろうか。

もしあるのなら、魂なるものは殺される事を知ったうえで生まれてきた事になる。

命を捧げるという行為は、おそらく人間のなしうる行為の中で

最高に崇高な行いの一つであろう。

それは、そういう価値感に照らせば、たとえ人生の最後が他者に殺されたとしても

生きるにたる輝かしい人生である事は間違いない事であろう。

 

佐世保の被害者の少女は自分が殺されるとは微塵も思っていなかっただろう。

人間の視点からいくら考えても、

善悪の天秤と個々の人間の人生は、釣り合いなど決してとれない。

それは人間の預かり知れぬ神の領域として、諦める事しかできない。

 

神はこの3次元世界で、人間が悪と名づけた行為を止める事はしない。

そして、罰を直接与えるわけでもない。

多くの善良な人間は因果応報を信じようとしているが、それは願望のままであり

3次元の時系列の把握できる範囲では応報がなされていると確認は出来ない。

 

人は現世では人によって裁かれる。が悪事を犯してもなんらかの運命の巡り会わせで

人間の裁きを受けないで人生を全うするものも普通にいる。

何千万人も殺した毛沢東の墓が未だに暴かれず、尊厳が保たれているのは、

権力闘争の無意味なとばっちりで殺された人間たちの無念を思う時

余りに不公平ではないだろうかと

ヨブではないが、神にイヤミな言葉のひとつも掛けたくなるだろう。

 

私がもし殺された少女の親だったら、

事実を人生を狂わせず受け止める事ができるだろうか。

もし私があと20才若かったら、実行するかどうかはさておき間違いなく復讐を考えたと思う。

私はそういうタイプの人間であった。

 

15年前に光市母子殺害事件時が起き、

その後のご主人の取られた真摯な行動に、私は胸が打たれた。

子供がまだそれほど大きくなかった私にとって、その事件は他人毎ではなかった。

ご主人は、あくまでも法の公正な裁きを粘り強く訴え、

妻子の命の尊厳を長い裁判で勝ち取られた。

殺した側の権利ではなく、殺された側の死者の命の尊厳が守られたいう、

画期的な判決であったと私は思う。

 

私が同じように妻子があのような惨い殺され方をされたなら、

犯人の生い立ちがどうあれ、許す事ができないどこころか

魔と手を結んでも、犯人をこの手で息の根を止めることに情熱を傾けただろう。

しかし、犯人に死刑判決が下り、人間によって天秤がつりあう決定が下された。

その事を少なくとも死刑廃止論者のいうように非文明的だとは、私は思わない。

人間が与えられた理性によって、生きている者も、死んでしまった者も

同等の尊厳を願い適えるのは、

神が人間に与えた自由の行使の範囲であると私は思う。

 

人は聖人にも悪魔にもなる自由を与えられてこの世界に生まれている。

被害少女の生まれ出でる時の魂の運命がどうであったかは判らない。

が、残酷な死を迎えた事実だけに囚われて、

彼女の人生全体の尊厳を感傷的に傷つけてはならないと今の私は思う。

彼女の人生には輝かしい意味があり、

その痛ましい死によってもその輝きは失われないと、

被害に会われたご家族も実感される日がいつの日かくる事を

私は願ってやまない。

 

最悪の悲嘆を味わった者のみが、

最高の愛の高みに到達できる可能性を得ると私は信じている。

そしてそれは、「愛と赦し」によってもたらされると。

犠牲になる為に生まれてきた、イエスという2000年前の聖者の言うとおりであるなら、

松尾愛和さんの死はイエスの同じ犠牲(サクリファイス)の意味をもち

彼女の名前の意味どうり「愛による和」がどれほど人間が精神的な高みに

到達出来る可能性があるのかを指し示してくれていると私は思う。

 

しかし、ご家族の現実の悲嘆を思うと

こんな勝手な話をえらそうに今書くのは自分としても迷いました。

それでも少しでも魂の鎮魂になればと思いあえて書かせて頂きました。

もし読まれてご不快な気持ちなられた方がおられましたら

この場にてお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

 

松尾愛和さんの御霊のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

 

 


カワイイと、 日本の音楽

2014年07月25日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

世界は血なまぐさい話題ばかりなので、

全然ジャンル違いの音楽のお話をしてみようと思います。

興味のない方にはどうぞスルーして下さい。

 

 

BABYMETAL(ベービーメタル)

日本の女性アイドルグループです。

アイドルの女の子たちが、ロックのメタル系の音楽にのってJ-POP風の

歌を唄う感じでしょうか。

フランスのライブの映像や、イギリスのロックフェスでのライブ映像も見ましたが、

その違和感たるやハンパナイというのがオッサンの感想です。

 

メロディーも内容も昭和のアイドルが歌っているようなものですし、

(曲名がイジメ、ダメ、ゼッタイですよ。。)

ファションもきゃりーぱみゅぱみゅさんほど尖っていないというか

むしろ古臭い昭和臭がします。

 

正直な感想としてスケバン刑事の3人組が、アイドルソングを

メタルバンドの演奏をバックに唄い踊っている感じとでもいいましょうか。

 

ファンの方が読んだら炎上しそうな感想ですいません。

悪気はないのですよ。オッサンですから仕方ありせん。

 

私の違和感の正体は彼女たちの音楽ではなくて、

パフォーマンスを見て盛り上がっている外国人たちの様子です。

メタルのライブといえばガチムチの筋肉オタクの海賊のような連中が、

刺青ばりばりの手を振り上げて空に拳を突き立てるイメージです。

実際、彼女たちの前でもそのような光景が繰り広げられているのですが、

なんかちょっとカワイイを意識してるような熱狂ぶりなのです。

 

日本びいきのレディガガさんのライブの前座も決定しているようで、

なんか海外で人気というとウソッポイのですが、

映像をみる限りはけっこうメタル好きの外国の方の間でも盛り上がっている様子です。

 

きゃりーぱみゅぱみゅさんもネット越しに外国で人気が有りましたが、

なんとなく、カワイイがまだ通じる人たちに受けていたのではと思えたのですが、

BABYMETALは、一番ハードなもの好きなコアな層にそれなりに受けたというのが、

ビックリという感じです。正直ありえないというのが初見の私の感想です。

 

ボーカロイドの初音ミクさん(ミクさんについてはまた機会があったら書こうと思いますが、)や

キャリーさんが受けるのはなんとなくわかるのです。 カワイイですし、アニメやコスプレ文化の

延長線上にある感じがするので。

しかし私の目から見てもバタ臭い感じがして、昭和文化の直系のようなアイドルのパフォーマンスが

メタルという斬新な組み合わせをしただけで2014年のヨーロッパで受ける事に時代の変化を感じます。

 

もしBABYMETALが80年代や90年代に今と同じようにヨーロッパでライブをしても

絶対に成功しなかったと思います。

やはり地球レベルでより女性的なものに惹かれるように

文化が急激に変化しているようにデンパな私は思ってしまいます。

 

私が頭に浮かぶのはマドンナ、レディガガなどは西洋のアマゾネス的な女性の成熟した表現ですが、

日本の女性アーティストはそれとは真逆の未成熟性の魅力がポイントなっていると感じます。

直球で言うならロリコンです。

 

日本は源氏物語の時代から筋金入りのロリコン文化ですが、

これからは日本のように世界も男性のロリ志向がもっと進むかもしれません。

ウーン!当たって欲しくないけど。

ただ女性は男性の志向とは逆に母性が強くなってゆくので、

それは必然的に地球規模での女性の社会での台頭と

男性文化の衰退を招く事になると予測します。

 

 

wikiによると、彼女たちのグループの活動は2010年からのようで、

2011年のインディーズでの曲はyoutubeで海外では話題になったようです。

地道に約4年間活動してきて去年メジャーデビューして今年大ブレイクしたようです。

サポートバンドの実力は相当高いもので

ギターもドラムもかなりのレベルの方々を揃えているように見受けられます。

ボーカルの娘さんもトレーニングをされているようで、まだまだ歌唱力の伸びしろがある感じで、

これからも大いに期待できます。

(かと言って彼女の声に、漫画BECKの主人公ほどの輝きはまだ私は感じませんが。それは高望みしすぎでしょうか。)

 

おとといも、英のメタル雑誌のオンラインファン投票でBABYMETALが世界一になったと

記事になっていて、その反響も大きいと報じられていました。

これがさらなるビッグウエーブになるか、ただのスマッシュヒットで終わるかは

まだわかりませんが、今後のさらなる活躍を期待したいところです。

 

日本の音楽シーンは今は停滞していると言って良いと思いますが、

きっとまた由紀さおりさんの例もあるとおり

演歌や唱歌ももっと世界に広まってゆくかもしれません。

 

日本語は響きが美しいと世界の人たちは言ってくれています。

アニメのOPやEDの歌を

外国の方々が日本語の歌詞で合唱している動画を見ると

日本語の歌詞の響きが、

その人たちの精神に強く影響を与えているように感じます。

 

日本語の歌が世界に広まる事は、

日本人の根底に流れている波動が世界に広がってゆくことになるのです。

言語と音楽は文化の王様です。 

大事に日本の歌を歌い継いでゆきたいものです。

 

 

 

 

 


人さらいと、 危機回避能力

2014年07月24日 | 日記

変な話です。  真面目な方はスルーして下さい。

 

夏休みに入り、外で近所の小学生とすれ違うと、

男の子も女の子も向こうから「こんにちわ」と挨拶をしてくれる。

地元の小学校の方針なのだろうが、

昔は当たり前であった事が、

小学生を誘拐して監禁をするような輩がいるご時勢では、

うれしさと共に、少し心配もしてしまう。

 

私の子供の時代は

まだ躾のたとえ話に「人さらい」が当たり前に登場した。

知らない場所や暗くなるまで遅くまで遊んでいて家に帰ると、

母に決まって、「そんな子は人さらいがすぐに連れていってしまうから。」

と言われて怖かったものだ。

そして「人さらいに捕まったらすぐに遠い国に売られてサーカスなんかで

奴隷のように働かされる。」と追い討ちをかけられた。

 

子供が早く死ぬのは戦前ではごく普通の事であった。

親の世代は、形はちがっても子供がいくらでもそのような不注意で

早く死ぬ事を身に染みて知っている世代であるから、

しゃべるせりふも真実味があった。

 

ある時地元の街にサーカスが来た。

木下大サーカスであったか何であったか忘れてしまったが、

子供たちはもう大騒ぎであった。

 

サーカスの興業も当時けっこうな値段であったのだろう。

私は親に一度はねだったが連れて行ってはくれなかった。

 

しかし普段から、サーカスは人さらいにさらわれた子供たちの

売られてゆく先だと思っていたので、心のどこかでほっとしていた。

私はその代わりにサーカスの興業の間は、

テント小屋の外を歩いている団員さんを見に行くのが日課になっていた。

 

「この人たちも人さらいに攫われて、売られてきたのかなぁ。」と

勝手に思い込み、かわいそうなのと怖いのがまぜこぜになったような気持ちで

団員さんが歩く姿をなるべく気づかれないように盗み見るようにしていた。

そしてサーカスが街を去ってゆくと、どこかホットした気持ちになったのだった。

 

昔はそんな話でも子供たちにもちゃんと効果があったのだ。

 

私の子供の頃はまだ田舎なので、街灯も市街地の一部しかなく

ちょっと田んぼのほうにゆけば人工的な明かりはいっさいなかった。

当然日が暮れれば家に帰らなければならず、

暗闇は子供にとっては直接的な恐怖であった。

恐怖は第六感を呼び覚ます。

昔の子供にとって夕闇は、そのスイッチが入る瞬間であった。

 

今の子供たちの環境でそういう本来人間に備わっている感覚を

普段の生活で養うのは難しいとは思う。

しかし現代っ子であろうと子供はそうい環境に一旦身をおくと、

あっという間にそういう感覚に目覚めるものでもある。

 

事故がないように安全な遊びをするのは大前提ではあるが、

折角の夏休み、できるだけ子供たちがそういう感覚が目覚めるような遊びに

夢中になってくれればと勝手ながら思ったりしている。

 

そしてそういう風に子供の頃に養われたシックスセンスは

大人になっても身の危険をあらかじめ回避するのに

大いに役立ってくれるものなのだと、ちょとだけ言っておこうと思う。

 

 

 

 


臨死体験。 

2014年07月23日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

夏らしく前回に引き続き臨死体験のお話を。

もろデンパな話です、波長の合いそうもない方は

ここで退席されたほうがよろしいかと思います。

 

私の母には臨死体験があった。

最初にその話を聞かされた時は、

母にとっては「あの世は怖くなかった。」という話しであったが、

聞かされ子供の私には十二分に怖い話であった。

 

まず話始めがこうだ、

「お母さんは結婚する前に死に狩りにあった事がある。」

ようは生死の間をさ迷うような大病をしたのではあるが、

「死に狩り」なる方言(後になって方言とわかった。)が恐ろしくそれだけで、

聞きたくないと思ってしまう不気味さがあった。

母は結婚前に盲腸を悪化させて、危篤状態に陥った事があるという。

そして、自分の体を抜け出して、

ベットで寝ている自分を天井から眺めたと言っていた。

そして良く死後の世界の話に出て来る、

きれいなお花畑に居たというものであった。

 

それはとても言葉では言い表せないほど美しい場所で、

極楽浄土とはああいう所なのだと、私に良く聞かせてくれた。

そしてこれも良くある話だが、血筋にあたる誰かに帰れと手をふられて

戻ってきたというものだった。

そして、あんなきれいな所に行ける事がわかっているので、

自分は死ぬのは少しも怖くわないと言って話を終わるのだった。

 

その頃の私は小学校に上がる前で、ひじょうに怖がりであった。

雷が鳴ったと言って泣き、電車の天井の扇風機が怖いといって泣いていた。

何か不始末をすれば、真っ暗な納戸への押し込めの罰で大騒ぎをし、

我ながらひどい泣き虫であった。

そんな時に母の「死に狩り」の話を初めて聞いたのであった。

 

死そのものが良くわかっていなかったので、

その前の「死に狩り」の方が余程怖かった。

どうしても、西洋の死神が大きな鎌を持って

「死に狩り」にやってくる姿が目に浮かび、

その先にある「あの世はきれいなお花畑」はただの付けたしでしかなく

怖がりの私にはなんの魅力も感じなかった。

 

大きくなるつけ、母の話が臨死体験というものだと理解したが、

だからと言って、素直に母の言うとおり

あの世が素晴らしく美しい所とも思えなかった。

私にとって、「死に狩り」にやってくる死神は

美しい花園の前に立ちはだかる恐ろしい死の使いであった。

そして死神は私の成長と共に「運命」と名前を変えて、

人生のお馴染みのキャラクターになっていった。

 

私自身は臨死体験はない。

全身麻酔で15時間かかるような手術もしたが、別に命に係わるような手術でもなかったからか、

本人の意識では一瞬で手術は終わり、執刀医にビンタされて起こされた事があるくらいだ。

 

あれが唯物論者の言う死であるなら、10秒も数える事ができずに意識を失うあのわずか数秒が

死の瞬間にあたるのだろうか。

その後記憶はいっさいないので、起こされた時に時間が跳躍をした感じがした。

後で15時間たっていたと聞かされた時は驚いた。

あの時無に帰ったままなら死は苦痛はないと私は言える。

意識が消滅してもう何も無いのだから。まさに私という自我ともおさらばであった。 

 

この間、本に呼ばれて。という記事を書いたが、

ここで何の本に呼ばれたかを書いておこうと思う。

それは、木内鶴彦氏の「臨死体験」が教えてくれた宇宙の仕組という本であった。

この方は彗星検索家(コメットハンター)としてとても高名で、

ご自分の名前の彗星や、小惑星があるとの事。

また臨死体験者としても有名で、

立花隆氏のベストセラー「臨死体験」にも経験談が掲載されておられるとの事。

 

御本の内容はとても面白く、驚異的で、体験に基づいた臨死体験の説明が、

リアルに語られているものであった。

この手の本に触れないようにしていた私には、久振りのごちそうみたいな内容であった。 

信じる信じないは別として、死を別の視点で見、考える事はタブーでもなんでもない。

この生きにくい世を渡る上ではむしろ、選択肢の幅を広げてくれると私は考える。

 

良い時代になったものだ。

これからますますこういう話がオープンにできる社会になってゆくのだろう。

確かにオウムや霊感商法をはじめ、類似のありとあらゆるイカガワシイ宗教詐欺も増えるだろうが、

それらの中から身を持ち崩さないような全うなものを選択する事も

同じ位大切な人間としての資質だろう

 

あくまでも客観性を失わずに、論理的な思考を持ち続け判断する事が

人間に与えられたすぐれた能力だと思う。

 

何が真実や真理に近いのか、

誰かを妄信して自身の判断を放棄してはならないと

私は思う。

 

生に悩んでいる方

死を今までとは違う観点から味わう事を一度想像してみてはいかがだろう。

デンパ者の助言として、それも一興だと思うのですが。

それはひょっとしたら、今まででのつまらない風景を

別の鮮やかな彩りにしてくれる、

ちょっとしたきっかけになる可能性を含んでいると

「箸にも棒にも引っかからないものに引っかかる達人」は

そう感じてここまでどうにか生きてきました。

 

 

 

 


死後の世界の可能性を証明する科学。

2014年07月22日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

矢作直樹氏という死後の世界を肯定しているお医者さまの本が、

たくさん本屋さんに並んでいた。


東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長で、

東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授。

これ以上の肩書きはないと思われるくらい有能で現役のお医者さんが、

非常に霊的でスピリチュアルな発言や著作を書かれている。

つくづく時代は変わったなあと思う。

 

私のような海のものとも山のものとも知れない者が、

あの世はありますよ的な発言をしても、

眉唾にしか聞こえないが、流石にこれほどのエリート医師が、

はっきりと死後の世界の実在を信じていると堂々と宣言されているのを知ると、

一般の人も驚いて本を手にして見るのではないだろうか。

何冊かを読ませて頂いたが、真摯な人格が滲み出ている内容であった。

 

現役の東大病院の医師がそんな事を公言したら、

異端児として相手にされなくなってしまうのではないかと心配してしまうが、

流石にここまでレベルの高い超エリートの方で医師としての実力が凄い方が発言すると、

批判をする方もそれ相当の科学的見識と実績がないと相手にならないであろうから、

私のように黄泉の国のアリ派には、こころ強い味方である。

 

死後の世界とか、霊的な世界は現状では証明がむつかしいので、

お互い、水掛け論で終わってしまう事にたいていはなる。

ようは、霊的世界を信じる側が、

信じない側が信じるにたる証明をしなければならない。

それには、霊的な能力者が信じない人の秘密の暴露する

TV番組のパターンが一番多いのではないだろうか。

 

次に多いのは臨死体験を話す方々だ。だがそれも医学的な脳死を確認できていない状態では

科学的なデーターとしては、弱いと思う。

脳死状態で脳波が検出できない事が証明されたうえでの、臨死体験記憶なら、

まだ死後の世界証明のデータとしては信用できるだろうが、

そこまでデーターがあってもなお、まだ科学者ならいくらでも否定の証明はできるであろう。

 

現在計測できる数字の単位での計測ではなく、もっともっと小さい単位の計測が

正確に出来るようになると、

近未来の科学者の中で、死後の世界をデーターで証明する人が出てくると私は予想する。

 

ちょっと前までは、理論だけだったニュートリノが検出され測定できる今、

人間の意識が、科学的なエネルギーに変換されて計測出来る事が証明される日が

近い将来やってくると私は想像している。

 

ある日、ネイチャーに死後の世界の証明が掲載されるとしたら、

きっと人類全体の人生観は、180度変わる事だろう。

 

しかし今しばらくは、死は審判の門の威厳を失わないで、

それぞれの人の前に静かにたっているのだろう。

しかしそれは、多くの人間にとっては良い事だと私は思う。

わからない事があった方が人生は恐ろしく、

そして面白いに違いないだろうから。

 

 


永遠のヨブの叫び。

2014年07月20日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

あらかじめお断り、

死に纏わる問答なので、気分を害したくない方は

読まない事をお勧めします。

 

 

 

飛行機に乗るには、それなりに覚悟がいる。

飛行機嫌いな人の気持ちはわからないでもない。

もし空の上で何か起きたらと考えたら、

死を覚悟して、

運命に身をまかすしか選択支が無いから。

 

今回の悲惨な撃墜事件も、

もし神様がいて感情がおありなら

どういう心情で眺めておられるのだろう。

 

①人は空を飛ぶようには創っていないから、私の責任ではない。

②人間どうし殺しあうのは、人間の自由な選択支の一つ。人間が理性でそれを選んだのなら、       私の責任ではない。

③元々私が全てを与えた。命を与えのは私、故に奪うのも私。命は個々の人間のものではない。    私の全責任おいてなされた事。

④私に似せて人間を創ったのだから、人間が悲しむ時は私もまた悲しんでいる。

⑤私に似せて人間を創った。命は物質的なものだけでなく永遠の命を元々与えているのだから、

 肉体を失い見えなくなっても命がなくなったのではない。悲しむ必要はない。

⑥全ては肉体という衣装を着て演じているゲームである。肉体がなくなったら本来の命の状態に戻って、

 人生の振り返りをするのだ。今回は何点取れたと思っているのだね。

⑦肉体死は意識の消滅を意味しない。人間をその程度に創っては私はいない。お楽しみはこれからだ。

⑧肉体はなくなり、意識も無に帰り消滅したのだ。誰の為に悲嘆にくれるのだ。悲嘆にくれる相手は   その存在すべてが無に帰ったのだ。

 肉体死と意識の消滅を悲しむのは論理的に無意味だ。無に変えるのは全てからの開放ではないか。

⑨全ての生命、全ての魂、全ての意識は私を分割した私の一部である。

 故に全ての生命は永遠に生き通しであり、私は全ての生命を体験している。

 肉体死は人間としての体験にすぎない。それは生命の領域の一部にすぎない。どの生命も私である。 例外はない。

 

 

あなたなら、神にどう答えて欲しいだろうか。

人は誰でも神を呪うような気持ちになる可能性があると私は思う。

特に愛する人との死による別れは、運命や神を呪いたくなる。

尊い人の死を無意味だと思いたくない。

だが、それは人間側からの生からの視点に過ぎない。

死は死の視点から見たら、全く逆に見えるかもしれない。

 

私は少なくとも今はそう思えるようなった。

人より死を見てきたせいもあるが、私が自分をデンパだと言うのはそういうところからだ。

私は自分の死を楽しみに生きているネジの外れたナルシストだと思っている。

確かに兄の死のように死の間際の肉体的な痛みは難関だとは思うが、

それ以外の事を考える時、

生まれ変わりの宗教がいうように、魂なるものが今と同じ自我を認識して

肉体がないだけで、後は夢の中のようなベタな死後の世界に移るなら、

それはそれで楽しみだ。

また、唯物論のように全てが無に帰すなら、

肉体死の段階で意識も消えるので苦痛とは元々無縁である。

まあ、私は前者を信じているので寿命まで生きて死に出会うのを

答え合わせを待つ心境で楽しみにしている。

 

しかし家族や愛する人を失った時の悲しみは、

人間はそれを体験するために生まれたと思えるほど、

その人の人生を試される。

それは神代の時代から変わらぬ、

人間から神への切なる問いかけを生む衝動の母体なのだ。

 

ヨブは過酷な運命を与えた神にこう叫んだ。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」

 

それを信仰の証ととるのは、神の視点だろう。

私には、ヨブの人間としての誇りが言わせた

神への皮肉を込めた血の叫びに聞こえる。

 

ヨブは、悲嘆に暮れ、神を呪う人々と共に、

聖書の中で神に叫び続けてくれている。

私にはそう思える。

 

メメントモリ。  死をオモエ!

そして、今生有るものは   生きよ !

 

若い魂たちへ

鎮魂と慰めの代わりとして。

 

 

 


他人の空似と、魂の兄弟(ソウルメイト)

2014年07月17日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

どうでも良い話をひとつ。

デンパ系(死語と思いつつマイブーム(これもほぼ死語)なのでまだ使います。)の話です。

忙しい方、波長的に無理な方は読まない事をお勧めします。

 

誰でも有る程度生きてくると、他人のそら似的な場面に

出会った事があるとおもいます。

 

人から「誰それさんに似ている」と言われたり、

そこには行ってないのに「昨日どこそこで見た。」と言われたり、

自分とは違う誰かと似ていると言われる事はままあることです。

 

私は社会に出てから、自分があまり人の顔を覚えるのが

得意でないことに気づきました。

最近は歳のせいも有り、なおの事ひどくなってきている気がします。

意識をして見ているつもりでも、顔を覚えていなかったりして、

けっこう不快な思いをさせてきたと思っています。

 

ある時、ブラットピットが同じような事を告白していましたが、

相貌失認というらしいです。

ひどい場合は自分の顔もわからなくなるそうです。

彼の場合は完全に病気で辛かったでしょうが、

私の場合は本人の興味のない人は覚える気がないというのが、

ただ単にはっきり出てしまうという、自業自得パターンだと思っています。

 

そんな私が、顔を意識的に覚えようとして思うのは、

人間の顔のバリエーションは以外に少ないのではないかという事です。

私が区別できるのは、日本人的な東洋人だけですが、

人の顔はそれほど無限のバリエーションでできているわけではないと

最近は感じています。

(最近ネットで画像を並べてそっくりさんを見つけるのがありますが、

マッカーサーとブルースウィルスとか結構似ています。)

 

外国人が日本人を見て同じに見えるというのもわかる気がします。

せいぜい10の大きな雛形があって、後はパーツがランダムに組み合わさっている感じがします。

若いうちは違いは目立ちます。すべてのパーツがはっきりしてますから。

でも歳を取ると、当然輪郭がぼやけてきますからなおの事、

パーツの違いなどは老化の影響に比べたら大した事はありません。

みんなまとめて、おじさん、おばさん、お爺さん、お婆さんになるわけです。

 

話がそれました。

まあそんな風で他人の空似と言っても自分としては、

別に不思議な事ではないなと勝手に分析しておりました。

 

ある時新聞の本の紹介欄を読んで気になったので、

ある本を購入しました。

その本の著者は既に亡くなっていたのですが、

裏の著者紹介に載っていた写真を見て、

自分とあまりに似ていたのでびっくりしました。

 

その方と私は歳はひとつ違いで、誕生月は同じでした。

病気で亡くなられたのですが、大病をされていた部位が

私も子供の頃から弱い部位でした。

 

他人のそら似というにはあまりに似ていて、

その後に本を読むと

とても奇妙で言葉では中々言い表せない

神妙な気持ちになりました。

 

写真の角度のせいもあったかもしれませんが、

自分自身が写っていると思える他人の空似は初めてでした。

 

世間には自分と似た人は3人いると言われますが、

私は間違いなくその一人を見つけたと思いました。

そしてふと思ったのは、その方がもう亡くなってしまったのに

私の人生はまだ続いているという不思議な感じでした。

 

別にその方が生きて、私が死んでいたとしても

この世界では対して違いのない事なのだろうに。

 

そして、そんな風な事を考え続けているうちに

自分は世界に一人だけの個性で生まれてきたわけではなく、

似たような風貌、似たような声(骨格が似ていると声は似るので。)

そして似たような好奇心(本の内容から)を抱く精神をもった

兄弟みたいな存在が

まだこの広い世界にはいるんだなと、思えるようになりました。

 

そしてそう考えると、

自分自身は特別なオンリーワンでもないが、

自分一人だけが個性の可能性を試されているわけでもないと

力の抜けた気楽な気持ちになれるのでした。

 

この変な文章を読んで下さったあなたにも、

あなたと同じ顔と、同じ声と、同じ好奇心をもった方がいて、

あなたの知らないどこかで、

今日も泣いたり笑ったりしていると

私はおもいますよ。

 

そう想像する事で、

人生の視点をちょとずらして見る遊びのきっかけになれば

面白いのではないかと、

デンパな話が好きな私は思ったのでした。

 

 

 

 

 

 


ご挨拶。   感謝とお断り。

2014年07月14日 | 日記

まずこのブログを見て頂いて

ありがとうごうざいます。

何百万とあるブログから、たまたまこのブログを開いてしまったのでしょうが、

何かのご縁でしょうから、これからも期待せず

たまに覗いて頂けたら光栄です。

 

日々思いついた事を勝手に書いております。

過去何度かブログを始めては途中で何度も投げ出しております。

このブログも2年前に始めて3日で放り出しておりました。

 

今のところ再開して過去最長記録を更新しております。

ブログを読んで下さった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

再開してからは、主に防衛ネタを中心に書いてまいりましたが、

それは、現在が本当に重要な転換点の時期だからです。

 

よく2020年の東京オリンピックが話題になりますが、

たぶんその辺りには現状の国際情勢は一通りの決着が

ついているのだと思っています。

 

だからこそ、悔いのないうちに聞こえようと聞こえまいと

勝手に遠吠え的な声を上げておこうと思うのです。

持たざるものは言葉ぐらいでしか対抗できませんが、

時代の流れを読みきれば、間違いなく危機回避はできると思うのです。

 

集団的自衛権にしろ、中国崩壊問題、朝鮮半島問題、南シナ海問題、パレスチナ紛争、

クリミア紛争、アメリカの衰退、全てが連動して起こり世界は動いています。

 

それが、誰の意思によるものか、

時代に意思はあるのか。

エネルギー転換が起きたのなら、それがどう現象化するのか、

そういう事を考えながら、狼老年と呼ばれて良い立場から、

これからも、胡散臭い内容を真実ぽく書いてゆけたらと思っています。

 

コメントを書きたい方には申し訳ないのですが、

もともとめんどくさがりですし、

ブログを続けるモチベーションが下がる事案が内容上起きますので、

コメントはお断りしております。 ご理解ください。

 

どうしても私に意見を伝えたいという奇特な方で、

不快な内容ではなく、私のメンドクセーを沈め好奇心を立ち上がらせてくれる方には

お返事を書く事があるかもしれません。

ニーズがお有りでしたら返信を期待せずに下記にどうぞ。

locutusziro@outlook.jp  (専用メールアドレスです。)

 

インターネットは阿弥陀クジに似ていますね。

ある事を探してゆくと、思いもがけず当りを引く事もあります。

今読まれている方も特定の検索ワードの阿弥陀クジを引いて、

私のブログに当たった方が大半でしょう。

 

その偶然の出会いに感謝いたします。

 

後、もし読んで不快な思いをされた方は、

ネットの阿弥陀のはずれクジを引いたと思ってお許し下さい。

 

それではまた、いつ突然終了するかわかりませんが、

これからもよろしかったら、お付き合い下さい。

ご挨拶まで。

 

 

 


本に呼ばれて。

2014年07月14日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

本屋さんの前を通る時に

たまに、何か本に呼ばれている気がする時があった。

 

そんな時に立ち寄って中に入り、しばらく店内をぶらぶらすると、

自然と目につくくタイトルとか、帯とかの本があり、

手に取って立ち読みをしてしまう。

 

手に取った本に、何か気になっていた事のアドバイスなり、

物凄く興味をそそられる事が書いてあったりすると、

「この本が呼んだのだな。」と思うのであった。

 

ある時新宿の紀伊国屋の前を歩いていたら、

例によって呼ばれた気がした。

しかしその時は特別で有る歴史的人物の名前が

胸の奥から聞こえた気がしたのだ。

まあ、おかしな事は疑わないで乗ってしまうたちなので、

そのまま店に入り、いつものように店内をブラブラした。

するとフロアーのすみのコーナーに平積みしてある本の一つが、

いつものように呼んでいる気がして、手に取ってみた。

 

タイトルだけでは何の本か今いち解らないので、

開いてみると、さっき聞こえた気がした人物の自伝であった。

流石に自分自身もびっくりしたが、これは読むしかないと思い

即座に高かったが買ってしまった。

 

この本はスピリチャル系に嵌っていた私を

散々振り回してくれたが、

今思えばそれもまた、人生の教材の一つの思い出として、

今も本棚で自慢げに背表紙を見せている。

 

良い本との出会いは、

人生を豊かにしてくれる。

しかし、私のように本に振り回されて、

今思えばさして重要でもない事にこだわり、

偏った考えに自分を縛ってしまう事もある。

 

本、インターネットはもちろんそうだが、

全ての情報はまず疑ってかかる客観性を持つ事は、

人生を踏み外さない為には大切な素養だと思う。

 

例としてオウム真理教がある。

あのインターネットのない時代、

麻原の宙に浮いている写真の載っている本を手に取ったが為に、

何人の優秀な人物の人生が狂っただろうか。

 

私も当時手に取って見たが、その時は胡散臭さが先にたって、

とても全部読む気にはならなかった。

でも私自身の人生を省みると、ほんのちょっとした違いで

オウム信者になっていた可能性を否定する事はできない。

 

私は若い頃は何事も熱中するタイプで、すぐに騙される人であった。

ある人から、「あなたは箸にも棒にもかからないものに、ひっかかる才能がある人」

と指摘されたが、人生を振り返ってみてまさにその通りだと実感している。

 

ありとあらゆるものに引っかかり生きてきた結果

私はいろいろな事がめんどくさくなってしまった。

そしてその一つの結果として

ある時から本屋に行くのを意識的にやめてしまった。

 

馬鹿は極端に走るものである。

でも人生そんなふうに思えるような経験もまた運命なのだろう。

前向きに生きるだけが人生なら

それは味わいの薄いものになってしまうだろうから。

 

この間久しぶりにまた本に呼ばれたような気がした。

少しだけ頭に記憶がよぎったが、

自然と店内に入っていた。

 

長らく忘れていた

若々しい森の雰囲気が心地よく

本を手にするまでもなく元気がもらえた気がした。

 

私みたいな人間には、

やはり本屋さんは生きる糧なのかなと、

呼び掛けてきた艶やかな表紙の新刊本を手にとって

「こんにちわ」と目で一人挨拶をした。

 

 

 

 

 

 

 


ブラジル 散る!!

2014年07月09日 | スポーツ

意図的にワールドカップの話題を避けておりました。

 はい。

日本代表は残念でしたね。

ザックの別れの写真は泣けました。

良い人でしたね。日本を好いてくれているのが

画面を通じても伝わってきました。

ザッケローニさん。さようなら。

4年間ありがとうございました。

 

 

まあワールドカップですから

何でもおこります。日本の実力では

データー上想定内の範囲の事が起こったにすぎないでしょう。

 

まあでも期待した気持ちもわかって下さい。

ベスト8に残った国のうちの、フランス、ベルギー、アルゼンチン、

コスタリカには練習試合にしろ勝ち、オランダには

相手に負けを感じさせるほどの引き分けの試合を

ザックジャパンはしていたのですから。

ニマニマしながらワールドカップを心待ちにしていたのも

しょうがないでしょう。

 

残念ながら最大限の期待から最小の現実が生まれたのですが。

スポーツの本質とはそのような残酷なものでしょう。

勝敗が価値のほとんどを占めているのですから。

ソチの高梨選手や、浅田選手もそうですが、

実力とは別に国の名誉が大きくかかる事なので、

地の利や、もともと持っている運とのめぐり合わせが

ワールドカップのような場ではやはり大きく働くという事でしょう。

 

今日のブラジルも勝つとは思いませんでしたが、

ネイマールとチアゴシウバがいなかったにしろ

あんな完膚なきまでの一方的な試合になるとも思いませんでした。

 

日本のコートジボアール戦もそうでしたが、

短い時間での立て続けの失点は心が折れますね。

 

今後のブラジルが心配になるほどの、

開催国の負け試合でした。

 

でもドイツもこれで逆フラグが立ったような気もします。

決勝戦が西欧チーム対決にならない事を

今は祈っております。      アルゼンチン頑張れ!!

 

でもなんか、ロッペンのニヤニヤした顔が

妙にチラツクんだよね。

ウーン  予想よはずれよ!

 

 

 

 


結婚観について。 草彅さんの話題より。

2014年07月07日 | 結婚

いきなりどうした。釣りかというタイトルですが、

まあ釣りです。毎回じゃないのでいいじゃないですか。

 

SMAPの草彅さんの結婚観が話題になっていたので、

番組の動画の音声を聞いてみました。

 

やはり芸能人として常に特別な環境で生きている方ですから

スタンダードの世代感みたいには思えませんでした。

アイドルでしたから、一番本能で恋愛をしたかった時に

制約が多かったでしょうし、

まあ本能の赴くまま

恋愛をしている暇もなかなか無かったのでしょうね。

まあ、若くしてお金の心配をする必要のない職業の方が

結婚が遅れるのは当たり前でしょうね。

まずは選ばれる側ではなく、選ぶ側になりますから。

男性の場合それはまあ、通常まれな事ですから。

(草彅さんみたい芸能人は女性を選ぶ事ができる可能性が高いだろうと言い意味です。

普通の大多数の男性はスキな女性ができて申し込んでも、女性にうんと言ってもらわないと

お付き合いできないし、結婚もできないですからね。 まあほとんどの男性は

選ばれる側だと私は思うのですよ。)

 

最初に

今年40歳になるんですけど、もしかしたら本当に人を愛すことが出来ないんじゃないかなと思って。』と

正直な気持ちを発露されてましたが、

外見どうり、真面目で純粋な方なのでしょうね。

私は役者としての草彅さんは大好きです。

 

愛にもキリスト級の無償の愛から男女の色恋まで

いろいろレベルがあると思うのですが、

ここは事結婚という事なので、

男女の恋愛とはちがった

人生のパートナーとしての愛情の交流について

少しお話をしてみたいと思います。

 

結婚なんてそれこそ私の母の年代まではお見合いが当たり前、

逆に恋愛結婚なんていう夫婦は少なかったと思います。

でもだからといって見合い結婚がロマンが無いかといえば

決してそんな事はなくて、二人の出会いの仕方の違いにすぎません。

 

何より私の父母の世代はまだ家柄の釣り合いなるものが厳しく、

見合いというのはまずその一番高いハードルがクリアーされた物件しか

こないのですから、後は純粋に会ってのフィーリングでお付き合いするか決めるという。

まあよくできたシステムだと思うのです。

いろいろとシガラミがある家庭は政略結婚も確かにあったでしょうが、

普通の庶民にとってお見合いというのは

社会的な信用のある良い結婚サポート制度だったと思います。

 

今だって、婚活でいろいろありますが、

基本はシステムの違うお見合いには違いないと思うのです。

 

結婚をして愛を育むのには別に恋愛は絶対に必要なわけではありません。

よく例えで出でますが、

恋愛結婚は結婚がピークで後は減点採点になるが、

見合い結婚は結婚が0で後は加点採点になるのでどちらかといえば有利というのです。

 

番組の最後でコメンテーターの方もおっしゃてましたが、

夫婦の愛情なんて基本育むものなので、

いくら大恋愛をして結婚をしても、愛情を育む努力がなければ

すぐにシボンデしまうものでしょう。

自己犠牲などと気取らないで、

相手がして欲しいと思う事と真摯に向き合う努力をする事でしか

夫婦円満の近道はないと思うのです。

 

 男女問わず、恋愛結婚をしたいというのは
当たり前の欲求であり本能でしょうが、

10代から20代前半までの恋愛と結婚をして愛情を育むのは

特別な場合を(運命とか宿命による早い出会いは確かにあるでしょから)

除いて別だという事です。

 

もう十年前になりますが、『世界の中心で愛を叫ぶ』が大ヒットしました。

私自身思いもよらず、あの短いセンチメンタルな小説に

いい歳をして嵌ってしまいました。

 

やはり10代の本能とエネルギーの中での恋愛体験は

人格に強烈な傷ともいえる歪みを残すと思います。

それを愛と呼ぶにはあまりにも本能に支配されている体験だと思うのです。

人は皆そういう体験をどこかで夢見るものでしょう。

そしてそういうを体験をした事があるかないかで、

男女の愛情に対する飢えの度合いも違ってくるのは

仕方のない事ではあると思います。

 

でも基本結婚をして家庭を持ちやがて子供を育てるというのは

現実の生活の中で

いかに小さな愛情を積み重ね、紡いでゆくかにかかっていると思います。

男性は夫として、女性は妻として、これはもうそのカップルの一組一組の

無限に描く事ができる愛情芸術といえる体験だと思うのです。

 

番組の中でも、

人を好きになるのは、他者の中に自分と似ている部分を見出した時だと言われてました。

「私の事を理解してくれる。」と感じるのは自分自身の固有の価値観を

共通の価値観とすることで、お互いを高める事が見出せるからでしょう。

ですから、夫婦は共通の最大の価値観の為に最大限の努力をしてゆくものなのです。

 

ここでデンパの私の経験談をひとつ、

愛情というのは、深い程早く燃焼して、時間軸上では早く関係が終了するという法則がある。

AとBの関係が、深い愛情の交流がありそれが滞る事なく過ぎてゆく場合は

それが、恋人の関係、夫婦の関係はもちろんペットとの関係であっても

短い時間で終了する可能性が高いというものです。

 

本当に深く愛し合う関係ほど、生別にせよ、死別にせよ別れを早くするという事です。

ようは勢い良く燃えるろうそくが早く消えるという訳です。

 

ですから、長く愛情の交流をしたいと思って夫婦として生きてゆくのなら、

恋愛関係の延長などを理想とせず、

ほどほどに仲良くを目標にして、

それでいて共通の価値観を失わないように小さな愛情を積み重ねてゆければ、

「愛」という言葉では表現しきる事ができない何かで

胸がいっぱいに満たされる瞬間を味わえる時が来ることでしょう。

それが「悲」でも「慈」でも心のベクトルの方向が違うだけで、

「愛」という言葉でしか変換できない何かを知る事ができるでしょう。

 

愛はその瞬間に立ち会えば誰でもわかるものです。

だってそこから生まれてきたのですから

人間は。  。。。。。。。。なんちゃって。